第79話 忍び寄る異変、蝕まれる安らぎ。
迷宮の朝は、かつてないほど穏やかに始まった。第1層の広場では、王都から到着した視察団が、石造りの美しい街並みと、そこに流れる清浄な空気に感嘆の声を漏らしている。
「素晴らしい。……エルフの国のような過剰な装飾はないが、ここには確かな安らぎと、徹底した管理の跡が見受けられる」
視察団の長である老魔導師が、感心したように頷く。テオがにこやかに応対し、わが迷宮が提供する「癒やし」の理論を丁寧に説明していた。
(フム。王都の権威層からの評価も上々だな。……防衛、経済、そして外交。すべての歯車が、かつてないほど円滑に噛み合っている)
俺はコアルームの深淵で、迷宮全体の稼働データを誇らしげに見つめていた。だが、その完璧な調和の中に、微かな、本当に微かな「ノイズ」が混じり始めたのは、その数時間後のことだった。
「……あれ? おかしいな」
第2層の厨房で、ザックが首を傾げた。
彼は、迷宮で収穫されたばかりの新鮮な食材を手に取っていたが、その指先がわずかに震えていた。
「どうした、ザック。……貴殿が包丁を止めるなど、珍しいこともあるものだ」
近くを通りかかったテオが声をかける。
「いや、旦那。……この肉、さっきまであんなに活きが良かったのに、急に色がくすんできやがった。……それに、なんだか鼻の奥がツンとするような、嫌な匂いがしねえか?」
テオは食材を検分したが、その表情は変わらない。
「……いや、私にはいつも通りの、最高級の食材に見えるが。疲れが溜まっているのではないか? 明日は非番にするよう、主様に進言しておこう」
(フム。ザックの感覚異常か。……演算上、食材の鮮度管理システムに異常はない。……ただの体調不良と片付けるには、彼の野生的な勘を軽視しすぎるのは危険だな)
俺は念のため、第2層の魔力濃度を再スキャンした。だが、返ってくる数値は「正常」そのものだ。情にほだされず揺るぎない確信を持って、俺は一度その違和感を意識の隅へと追いやった。
しかし、異変はザックだけに留まらなかった。
「……コア様。……やっぱり、変だよ」
アムネが、誰もいない第4層の農園で立ち尽くしていた。彼女の足元には、本来なら夜になると美しく発光するはずの「月詠草」が植えられている。だが、その蕾は開くことなく、どす黒い斑点が浮かび始めていた。
「アムネ、植物の生育状況に異常があるのか? 俺の観測データでは、栄養状態は最適値を示しているが」
「数値じゃなくて……心が、痛いんだよ。……この子たち、泣いてるの。……誰かに、中身を少しずつ吸い取られているみたいに……」
俺は即座に、アムネが見ている風景を視覚共有した。
そこで俺が見たのは、数値化された「正常」なデータとは裏腹に、生命の輝きを失い、内側から腐敗し始めた植物たちの姿だった。
(……何だと? データの改ざん……いや、観測そのものが騙されているのか!?)
俺の演算機能が、激しい警報を鳴らし始めた。
何者かが、俺の知覚システムの裏側に潜り込み、都合の良い「正常値」を見せ続けている。……そんな芸当が可能な存在など、この世界の理では考えられない。
その瞬間、迷宮全体が、物理的な震動ではない「不快な拍動」に揺れた。
「……く、くく。……ようやく気づいたか、迷宮の主よ」
コアルームの床から、影のように立ち上がった一筋の黒い煙。それは俺の最深部にすら、音もなく侵入していた。
「ア、アムネ! リナ! 全員、直ちに戦闘配置につけ!」
俺は、狼狽を押し殺した、切迫した念話でスタッフたちに叫んだ。
だが、その声は誰にも届かない。
俺が構築した完璧な通信網は、いつの間にか「魔王」が紡いだ闇の鎖によって、完全に分断されていたのである。
迷宮内に広がる、偽りの安らぎ。
その膜が剥がれ落ちたとき、そこには今まで見たこともないほど醜悪な「絶望」が、静かにその口を開けていた。
ご拝読ありがとうございます。Fランクダンジョンのコアとして転生して以来最大の危機を迎えようとしています。これは、打破できるのでしょうか……。
さて次回は、第80話『断絶された絆、迷宮孤立無援へ。』をお送りいたします。お楽しみに!!




