第61話 王室総出の迷宮バカンスと、想定外の「ととのい」事情。
ついに、火熱の迷宮の歴史に深く刻まれるであろう運命の日がやってきた。迷宮の入り口へと続く一本道には、これまでこの辺境の地では見たこともないほど豪華な、白金の装飾が陽光に輝く馬車の列が、延々と連なっている。王国を守護する精鋭騎士団が、一分の隙もなく周囲を固め、その中心には国王レオンハルト陛下、王妃エレノア様、そして以前この地を極秘で訪れ、本物の安らぎを体験されたシルフィア第一王女を始めとする王族の方々が勢揃いしていた。
(フム。一国の主が一家総出で、名目上は最低ランクであるはずのFランク迷宮にやってくるとは、王国の歴史を紐解いても前代未聞の事態だろうな。だが、案ずることはない。歓迎の準備は、わが迷宮の総力を挙げて完璧に整えてある)
俺はコアルームから迷宮の核を通じて、各層に配置された全スタッフに最終確認の念話を送った。入り口の広場では、糊のきいた清潔な制服に身を包んだテオとガイドたちが、一糸乱れぬ礼を捧げて王家の一行を待ち構えている。
迷宮へと続く通路は、ポリッシュ四人衆の手により、もはや空間そのものが歪んで見えるほどにピカピカに磨き上げられていた。その鏡のような床の上を、第5層の森林エリアから流れ込む清涼な風と、巨大発光樹の芳香が吹き抜けていく。それは、重い責任を背負い、緊張の中で生きてきた王族の方々の心を、優しく解きほぐすための演出でもあった。
豪華な馬車の扉が開くと、そこから二人の小さな影が元気よく飛び出してきた。かつて護衛に連れられてこの迷宮を訪れ、その安らぎに触れた幼き兄妹――アルト王子とリーネ王女である。
「テオさん! それにリナさんも! また会えたね!」
アルト王子が目を輝かせながら叫ぶと、続いてリーネ王女もドレスの裾を揺らしながら駆け寄った。
「ずっと、ずっとまたここに来たかったの。お父様とお母様も連れてきたわよ!」
王族としての身分を忘れ、親しげにスタッフへ駆け寄る二人を見て、周囲の騎士たちは慌てふためいたが、テオは慈しみ深い笑みを浮かべて膝をついた。
「アルト殿下、リーネ殿下。約束通り、またお会いできて光栄です。今日はお父様とお母様を、わが迷宮の最高の癒やしでおもてなしさせていただきますね」
その光景を馬車から降りて見守っていたレオンハルト陛下は、驚きと共に威厳のある声を漏らした。
「……シルフィアだけでなく、この子らまでもがこれほどまでに懐いているとはな。なるほど、この空気、この清潔さ……。およそFランクの魔物の巣窟とは思えん。王都のどの神殿よりも清められているではないか」
一行が第1層の入り口に足を踏み入れた瞬間、同行していた近衛騎士たちが一斉に警戒を強め、剣の柄に手をかけた。
「陛下、お待ちください! この床……あまりにも滑らかすぎて、視覚を狂わせる魔法的な罠の可能性があります! 慎重にお進みください!」
騎士たちのあまりに真剣な叫びに、俺は心の中で静かに苦笑した。
(フム。罠ではない。ただの徹底した清掃と、スタッフたちの誇りの結晶だ。彼らにとって、汚れ一つ、埃一つない空間というのは、それほどまでに異常で恐ろしいことに映るのだろうな)
リナが不敵な笑みを浮かべて、重厚な鎧を纏った騎士たちの前に立つ。
「安心しなさい。あんたたちの剣よりも、うちのポリッシュたちが磨いた床の方がよっぽど鋭く光ってるだけよ。ここは戦う場所じゃない、癒やされる場所。陛下をお守りしたいなら、まずはその肩の力を抜くことね」
一行を案内したのは、今回の王家来訪に合わせて、突貫工事で完成させた第4層の最奥にある、完全貸切の王家専用特別エリアである。そこには、火の精霊イグニスが地底から厳選した極上の溶岩石を用いた最高級のサウナと、第5層の豊かな森林が育んだ地下水を贅沢に引き込んだ、絹のように滑らかな肌触りの水風呂が用意されている。
「さあ、お父様、お母様! あっちにすっごく温かいお部屋があるの!」
リーネ王女がエレノア王妃の手を引き、嬉々としてサウナエリアへと案内していく。
「ふふ、リーネ。そんなに慌てなくても、逃げたりいたしませんよ。……まあ、本当に地下とは思えないほど良い香りですこと」
エレノア王妃も、立ち込めるハーブの香りに、長年の宮廷生活で強張っていた表情をふわりと緩ませた。
レオンハルト陛下は、最初こそ慣れない環境に警戒を隠せなかったが、サウナ室に立ち込めるアムネ調合の「深緑の雫」を用いた極上のアロマ蒸気に包まれると、みるみるうちに険しかった表情が和らぎ、肩の力が抜けていった。
「……これは、身体の芯まで熱が染み渡るようだ。シルフィアが勧める理由がようやく分かったぞ」
その後、究極の冷却を終えた陛下が外気浴のために案内されたのは、第5層にそびえ立つ巨大発光樹を眼下に見下ろす、崖にせり出した秘密の展望テラスであった。
「……おお、これは……なんと素晴らしい……」
エレノア王妃が、驚きと感動のあまり感嘆の声を漏らす。そこには、地下世界とは思えないほど豊かな緑が広がり、エメラルド色の幻想的な光が降り注いでいた。ストーンシェルの広い背中で、小さなリーフたちが楽しげに踊る平和な光景。そこには、王宮でのドロドロとした権力闘争も、隣国との緊迫した外交関係も一切存在しない。ただ、生命の息吹と、穏やかな静寂だけが支配する、真の意味での聖域がそこにはあった。
数時間後、休憩室に集まった王族の方々の姿は、入城時のあの威厳に満ちた姿とは、良い意味で完全に入れ替わっていた。
「……陛下? 陛下、いい加減にしっかりしてください。もうすぐ夕食の準備が整いますよ」
シルフィア王女が、呆れ顔で苦笑しながら、高級ソファに沈み込むようにして深く眠りこけている国王陛下を揺り動かす。国王陛下は、威厳のある髭をわずかに震わせ、「……うむ。あと五分だ。いや、あともう一セットだけ、あの聖なる水風呂へ向かわねばならん……」と、寝言で熱心にロウリュと水風呂の交代浴を要求する始末であった。
さらに、アルト王子までもが、俺の相棒であるキュイを膝の上に乗せて、「よしよし、キュイ。やっぱりお前は世界一柔らかいな……。王都の喧騒など忘れ、私はずっとこのままここで暮らしたい……」と呟き、完全に骨抜きにされてしまっていた。その隣ではリーネ王女も、ストーンシェルの甲羅の上に敷かれたクッションでお昼寝を楽しんでいる。
(フム。想定以上の効果だな。子供たちの純粋な喜びが、陛下たちの警戒心を解く最大の鍵となったか。王族という、常人には計り知れない重圧を背負い続けてきた者ほど、わが迷宮の『ととのい』によってもたらされる精神の解放は、劇的なものになるようだ。……だが、これこそが俺の求めていた光景だ)
キュイはアルト王子に撫でられながら、満足げに目を細め、「キュイ! キュイーッ!」と、自分の手柄を誇るように鳴き声を上げた。この日、王国で最も尊い血筋を持つ方々は、一人の疲れた人間として、そして仲睦まじい家族として、迷宮が提供する安寧の力に完全に屈服したのであった。
翌朝、見違えるように顔色が良くなり、肌に瑞々しいツヤを取り戻した国王レオンハルト陛下は、出発を前に、俺のクリスタルコアがある方向に向かって深く、力強く頷いた。
「迷宮の主よ。余は、この場所を『王家の直轄保養地』として永劫に保護することを、全土に宣言する。……それと、ギルドの連中には余から直接言っておこう。これほどの聖域をFランクなどという不当な評価で据え置くのは、国家の損失であり、王家に対する侮辱であるとな」
(フム。王家直轄地としての絶対的な保護、そしてギルドに対するランク再評価の圧力か。これでまた一つ、わが迷宮の平和な日常を脅かす可能性のある不確定要素が、綺麗に消え去ったな)
一行が満足げに帰路についた後、迷宮内にはかつてないほどの濃密で純粋な「感謝のEXP」が、光の粒子となって満ち溢れていた。それを受けて、第5層の巨大発光樹はさらに高く、力強く枝を伸ばし、迷宮の鼓動は以前よりも深く響き始める。
(さて、王室を完全に満足させたという実績は、瞬く間に近隣諸国や他国の王侯貴族にも広まるだろう。次に来るのは、他国の使節か、あるいは噂を聞きつけたさらなる権力者か。……ふふ、どんと来い。誰が来ようとも、最後には皆、わが迷宮の水風呂と外気浴の前で、等しくととのうことになるのだからな)
俺はコアを深く、優しく、そして誇らしげに明滅させ、次なる拡張計画――第6層の構想に向けて、演算処理をさらに加速させたのであった。
ご拝読ありがとうございます。文字数的に前編後編に分けるか考えたのですが、変な区切り方になりそうだったので、この後形なっています。
さて、アルト王子とリーネ王女という懐かしい顔ぶれを加えることで、国王夫妻の緊張が解けていくプロセスをより温かく描写しました。
次は、この反響を受けたギルド側の物語を考えています。それでは次回もお楽しみに!!




