第59話 ザックの野望と、迷宮ブランドの香水。
王女シルフィア様の訪問という、これ以上ない最高の結果を経て、火熱の迷宮の名声はもはや不動のものとなった。国が認めた聖域という肩書きは、これまで迷宮を遠巻きに見ていた保守的な貴族層や、遠方の富裕層をも動かす強力な呼び水となった。
だが、その成功をコアルームの片隅で静かに見つめる男がいた。迷宮の御用商人であり、広報部長としての顔も持つザックである。彼の瞳には、単なる成功への満足感ではなく、商売人としての新たな、そして巨大な野心の火が、かつてないほど激しく灯っていた。
「旦那、お忙しいところ申し訳ねえが、少し時間をいただけやすか。火熱の迷宮の未来を左右する、とんでもねえビジネスの話がありやすぜ」
ザックが鼻息荒く持ってきたのは、手のひらに収まるほど小さな、しかし精巧なカットが施されたクリスタルの瓶だった。中には、無色透明ながらも、かすかにエメラルド色の輝きを放つ液体が満たされている。
「旦那、いいですか。この第5層の空気……そしてあの巨大発光樹から溢れるマイナスイオンと香り。これ自体が金、いえ、それ以上の価値を生む宝石なんですぜ。俺ぁ確信しやした。この迷宮に来られない連中も、この香りを嗅げば一瞬でここを信奉するようになる」
(フム。第5層の植物が放つアロマか。確かに、王都の政務に追われる官僚や、国境を守る騎士たちのように、物理的にここへ来られない者たちにとっても、その香りは魂の救いになるだろうな。安寧を持ち出すという発想か)
ザックの提案は、巨大発光樹ユグドラ・ルミナスの樹液や、リーフたちが慈しんで育てている希少な薬草から抽出した成分を使い、迷宮オリジナルの香水を製造するというものだった。
俺はさっそく、精霊のアムネを呼び出した。
「アムネ、お前の力で、この森の香りの成分を魔法的に安定させ、瓶の中に閉じ込めることは可能か? 蓋を開けた瞬間に、第5層の情景が脳裏に浮かぶような、そんな純度が欲しい」
アムネは、透き通った羽をパタパタと羽ばたかせながら、興味深げにクリスタル瓶を覗き込んだ。
「おやすいご用だよ、コア様! 森の精霊たちの歌声を少し混ぜてあげれば、香りが劣化することもなく、いつまでも新鮮なままでいられるからね。やってみる!」
そこへ、地下でのんびりしていたはずのキュイが、何事かと駆け寄ってきた。
「キュイ! キュイー!」
キュイも仲間に入れてほしいと言わんばかりに、小さな鼻をひくつかせ、香水の瓶を器用に前足で転がし始めた。
(落ち着け、キュイ。お前の持つ火の魔力は、香水の香りを引き立てる熟成の工程には役立つかもしれない。だが、その爪で瓶を割らないようにな。これは試作品なんだ)
キュイは俺の言葉に応えるように、喉を鳴らしながら、瓶の周囲をトコトコと歩き回る。彼女の微かな熱気が加わったことで、瓶の中の液体がゆっくりと琥珀色を帯び、深みのある輝きへと変化していった。
数日後、試行錯誤の末に、迷宮初の商品となる香水
「安寧の滴」が完成した。
一滴。たった一滴を空中に垂らすだけで、周囲の重苦しい空気は一変した。
そこには、地下とは思えないほど清涼な風が吹き抜け、巨大発光樹の柔らかな光を連想させる、甘くも爽やかな香りが満ち溢れた。
「これですよ、これだ! 旦那、見てください、俺の腕の毛が逆立ってやすぜ! これを王都の貴族たちに売れば、彼らはこの香りを嗅ぐたびに、迷宮への憧憬と、まだ見ぬ聖域への渇望を抱くようになる……。もはや営業活動すら不要になる、最強の魔法の瓶だ!」
ザックは不敵な笑みを浮かべ、早くも王都の有力ギルドへの商談を頭の中で組み立てているようだった。これは単なる金儲けではない。迷宮の外にいても、日常生活の中で「迷宮の安寧」を思い出させる。それによって、人々の心の中にわが聖域の不可侵な領域を作るという、高度なブランディング戦略だった。
(フム。ブランド化の加速か。物が売れ、人々の手に渡れば、それは迷宮への信仰心に近い感謝の波動となり、膨大なEXPとなって俺のもとへ還元される。悪くない流れだ。迷宮の壁を超えて、安寧を届けるのも経営者としての責務と言えるだろう)
俺はザックに、正式な製造ラインの構築を許可した。ただし、経営者として譲れない条件を付け加える。
(ザック、一つだけ約束しろ。乱獲や環境破壊は絶対に許さない。香水の素材は、あくまで森の調和を保てる範囲内で、リーフたちが許可したものだけを使うこと。欲望に目が眩んで、森を枯らすような真似をすれば、その瞬間に契約を打ち切る)
俺の厳かな念話に対し、ザックは珍しく、へらへらとした笑みを消して真剣な表情で頷いた。
「わかってやすよ、旦那。俺ぁ欲張りですが、馬鹿じゃありやせん。この森が枯れちまったら、俺の商売もおしまいです。この安寧の源泉を、誰よりも大事にするのはこの俺ですよ」
こうして、火熱の迷宮はそのサービスを、空間という体験だけでなく、香水という形ある商品としても世に広め始めたのである。
(さて、香水が王都に広まれば、また新しい種類の客層がやってくるだろうな。香りだけで満足できなくなった者たちが、本物のととのいを求めて押し寄せるはずだ。次なる受け入れ態勢を、さらに盤石に整えるとしよう)
俺は、第5層の木々の間を流れる穏やかな魔力を感じながら、コアを透明感のあるエメラルド色に輝かせた。次なる拡張プラン、そしてより高貴な来客たちを迎えるための演算は、すでに始まっていた。
ご拝読ありがとうございます。ここでしか得られない清涼感を香水として売る。宣伝効果がものすごいことになりそうな予感がする。懸念材料はあるけれども上手くいく気がする。
次は、第60話『香水の反響と、王都からの新たな招待状』をお送りします。お楽しみに!!




