第107話 迷宮の果実と、アムネの秘密の果樹園。
悠久の森の奥深く、一般の宿泊客が立ち入ることのない未踏域の一角に、アムネが精霊たちと共に育んでいる秘密の果樹園がある。
そこには、かつてジューゴが管理者として統括していた「火熱の迷宮」がまだ最弱のFランクだった頃には存在し得なかった、瑞々しく輝く果実が実っていた。
「……大きくなりましたね。ジューゴ様の魔力が、こんなに温かく満ちているから……」
アムネは、透き通るような赤い実をつけた枝を愛おしそうに撫でた。
かつてのアムネは、ジューゴが管理していた迷宮の片隅で、過酷な熱波を和らげるためだけに生まれた「ととのいの精霊」に過ぎなかった。生まれてからわずか五年。当時は実体さえ曖昧で、迷宮の魔力の揺らぎ一つで消えてしまうような、儚い光の塊だったのだ。
しかし、その運命を劇的に変えたのは、管理主であるジューゴその人だった。
彼が魔王を倒し、その称号に相応しい絶大なステータスを得た瞬間、彼の管理下に置かれていた眷属たち全員に、分不相応なほどの恩恵が授けられた。
ステータスの上昇、そして各々の特性に応じた進化。中でもアムネが授かったのは、「精霊人」としての確かな肉体と器だった。
今の彼女は、かつての揺らめく光ではない。人間でいうところの十六歳ほどの、しなやかな四肢と柔らかな肌を持つ少女として、皆と同じように食事を楽しみ、眠り、そして感情を揺らすことができる。ジューゴの側で、確かな個として生きられるこの命こそが、アムネにとって何よりの宝物だった。
「アムネ、ここにいたのか」
背後から、大地の響きを思わせる低い声が届いた。振り返ると、そこには管理人の顔をしたジューゴと、その隣に寄り添って歩くリナの姿があった。
「ジューゴ様、リナ様。見てください、精霊たちが育ててくれた『悠久の林檎』です」
アムネは精一杯の笑顔で二人を迎えた。ジューゴが果実を一つ手に取り、その高い魔力密度に感心したように目を細める。
「いい出来だな、アムネ。これなら宿のデザートとしても、最高級の逸品になる。……お前が丁寧に手入れしてくれたおかげだ」
「ええ、本当に綺麗! ねぇ、アムネ。後で私と一緒にお菓子の作り方をマルタに教わりにいかない? ジューゴにおいしいアップルパイを作ってあげましょう」
リナが親しげにアムネの肩に手を置く。リナは、ジューゴがまだFランクダンジョンの管理人として、周囲のAランクダンジョンからの猛攻に晒されていた苦しい時代、彼を助けるために「人間の眷属」として契約を交わした女性だ。
新人の頃に命を救われた恩を返すため、彼女はSランク冒険者のいるクランで活動するよりも、ジューゴと共に戦い、迷宮を守る道を選んだ。
そんなリナは今、その頃抱いていた迷宮の核への忠誠心以上に、一人の人間としての恋心を隠すことなくジューゴに注いでいる。そしてジューゴもまた、自分を信じて支え続けてくれた彼女の想いに応えようとしていた。
二人の間に流れる、恋人同士特有の柔らかな空気。
アムネは、そんな二人を眩しそうに見つめていた。だが、その胸の奥に、今まで感じたことのない、わずかな「疼き」が走るのを彼女は見逃せなかった。
(ジューゴ様は、私を精霊から『人』にしてくださった。……だから私は、皆と同じように心を持てるようになったのですね)
それは祝福であると同時に、痛みでもあった。
ジューゴがリナの髪についた木の葉を、ごく自然な動作で取ってやる仕草。それに応えてリナが幸せそうにはにかむ様子。
それを見るたび、アムネの胸の中で、精霊だった頃には存在しなかった「火」が静かに燃えるのを感じる。かつての迷宮のにあった『ととのうための熱』ではなく、胸を焦がし、視界を熱くさせるような、切実な想いだ。
それは、敬愛や感謝といった言葉だけでは到底片付けられない、もっと重く、甘く、そして苦しいもの。
(……お隣にいたい。私も、リナ様のように、あの方の隣で真っ直ぐに想いを伝えられたなら……)
自分が「精霊人」として成長し、一人の女性としての意識が芽生えたことを、アムネは残酷なほど鮮明に自覚した。
最も苦しい時期からジューゴの隣を歩んできたリナ。一方で、ようやく確かな器を得たばかりの新米精霊人である自分。二人の長い歴史と、今の仲睦まじい様子を前にして、芽生えたばかりの恋心がきしんだ。
「……アムネ? どうしたの、急に黙り込んで。どこか具合でも悪いの?」
リナが心配そうに、顔を覗き込んでくる。アムネは慌てて首を振り、手元の林檎をカゴに詰め込んだ。
「いいえ、何でもありません、リナ様。……ただ、この果実が、ジューゴ様のお口に合えばいいなと思っただけです」
伏せられた視線の先で、アムネの細い指先がわずかに震えていた。
精霊から人へ。ジューゴからもらったのは、確かな体と、そして、一生消えることのないであろう、初めての恋心だった。
「きゅい!」
空気を察したのか、足元にいたキュイがアムネの裾を軽く引っ張る。アムネはキュイを抱き上げ、その温もりに縋るようにしながら、連れ立って歩くジューゴとリナの背中を、いつまでも、いつまでもじっと見つめ続けていた。
その果樹園に吹く風は、アムネの切ない溜息を孕んで、静かにユグドラシルの梢へと消えていった。
ご拝読ありがとうございます。今回は、甘酸っぱい蜜入り林檎のよう恋模様が描けたかなと思います。
さて次回は、第108話『森のアスレチックと、遊戯を愛する迷子』をお送りいたします。お楽しみに!




