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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 5 余燼未答 -Embers Without Answer- Part 2

 前線基地の夜は、静かではなかった。


 空には月が出ていた。

 雲の切れ間から覗く白い光が、仮設陣地の屋根や積み上げられた土嚢を淡く照らしている。

 それでも、基地を満たしているのは夜らしい静けさではない。


 発電機。

 補給車。

 装甲車。

 整備車両。

 どこかでアイドリングを続ける重機。


 エンジン音が、途切れない。


 低く。

 鈍く。


 地面を這うように響き続けている。

 誰かが止めれば、別のどこかでまた始動する。

 一台が走り去れば、その空いた音を埋めるように別の車両が入ってくる。

 まるで基地そのものが眠ることを忘れているようだった。

 ユリウスは仮設宿舎の外に置かれた木箱へ腰を下ろし、しばらくその音を聞いていた。


 月は静かだった。

 人間が何をしていようと関係なく、そこにある。


 エンジンは違う。

 人間が動かしている。

 戦争を続けるために。

 前へ進むために。

 明日の朝、また誰かを送り出すために。


 だから止まらない。

 止められない。

 ユリウスには、その音が自分の頭の中とよく似ているように思えた。

 考えるのをやめようとしても、止まらない。

 一つのことを考え終える前に、別のことが浮かぶ。

 何度同じところを回っても、答えには辿り着かない。

 ただ動き続ける。

 それだけだった。


「それは違うって言ってるでしょ」


 背後からクラリスの声が聞こえた。

 宿舎の中。

 誰かと話しているらしい。

 少し離れているせいで、内容までははっきりしない。


 別の誰かが何か返す。

 笑い声。

 リリィの声も混じった気がした。

 何か注意している。

 クラリスがまた言い返す。

 それから、誰かが小さく笑う。

 いつもの喧騒だった。

 少なくとも、そう見えた。

 ユリウスは振り返らなかった。

 クラリスがいる。

 リリィもいる。


 少し前までなら、それだけで十分だったのかもしれない。

 今も十分なのかもしれない。

 分からなかった。

 分からないことばかり増えていた。




 後悔するな。




 また、その言葉が浮かぶ。

 意味は分からない。

 コンラート自身のことなのか。

 エルザのことなのか。

 自分に向けた忠告なのか。

 それとも、あの人自身が最後までできなかったことを押しつけただけなのか。


 考えても分からない。

 聞き返す相手はいない。

 それだけは確かだった。

 ユリウスは両手を組んだ。


 指先にはまだ薄く油の匂いが残っている。

 何度洗っても、完全には落ちない。

 それもいつものことだった。

 整備兵なら、誰でもそうなる。

 けれど今日は、その匂いに血の臭いまで混じっている気がした。

 実際に残っているのか。

 ただそう思うだけなのか。

 それすら分からない。


 エルザの顔が浮かんだ。


 あの目。

 何も映していないようで、どこかへ逃げようとしていた目。

 拳銃へ手を伸ばした時の動き。


 止めた。


 自分が。


 それだけだった。

 助けたわけではない。

 救ったわけでもない。

 死なせなかった。

 ただそれだけだった。

 なら、その先は。


 生きていれば、全部が良くなるのか。

 時間が経てば、後悔は薄れるのか。

 姉のことを知った記憶も。

 コンラートの最期も。

 自分が死のうとしたことも。


 全部抱えたまま生きていくことが、本当に正しいのか。

 分からない。

 もしあの時、止めなかったら。

 もし彼女がそのまま引き金を引いていたら。

 そこで全部終わっていた。

 少なくとも、エルザがこれ以上苦しむことはなかった。

 そう考えてしまう自分がいた。

 それが正しいとは思えない。

 でも、間違っていると言い切ることもできなかった。


 遠くでエンジンが一段高く唸った。

 大型車両が動き始めたらしい。

 振動が地面から木箱へ伝わる。

 その音に重なるように、背後からまたクラリスの声。


「だから、明日は私が先に──」

「駄目です」


 今度はリリィだった。

 はっきり聞こえた。

 少し間があって、クラリスが何か不満そうに返す。


 また笑い声。

 誰かが宥める。

 そのやり取りは、妙に遠く感じた。

 同じ場所にいるのに。

 数歩戻れば、そこに入れるのに。

 ユリウスは動かなかった。


 月を見た。

 白い。


 何も知らないような光だった。


 その下で、基地だけが動き続けている。

 まるで夜が存在しないように。

 戦争に朝も夜もない。

 あるのは交代と補給と、次の作戦だけ。

 だからエンジンは止まらない。


 誰かが死んでも。

 誰かが泣いても。

 誰かが後悔しても。

 必要なら動く。

 明日のために。


 その当然さが、今夜だけはひどく冷たく思えた。


 ユリウスはふと、これまで見てきた人たちのことを思い出した。

 苦しんでいた者。

 迷っていた者。

 立ち止まった者。

 それでも立ち上がった者。


 自分はいつも少し離れたところにいた。

 見ていた。

 声をかけたこともある。

 手を貸したこともある。

 それでも、最後に選んだのはいつも本人だった。


 自分はその後ろにいただけだ。

 今回もそうだったのか。

 コンラートが何を思っていたのか。

 エルザが何を抱えているのか。

 最後まで全部は分からなかった。

 ただ近くにいただけだった。


 それでも今は、何も知らなかった頃のようには戻れない。


 知ってしまった。

 見てしまった。

 手を伸ばしてしまった。

 その結果が正しかったのか分からないまま、それでも先へ進まなければならない。

 コンラートが言った意味を、結局ユリウスは理解できなかった。




 後悔するな。




 簡単に言う。

 無理だと思った。

 人間なら後悔する。

 あの人だって、ずっとそうだった。

 なら、なぜ最後にそんな言葉を残したのか。

 分からない。

 だから余計に残る。

 答えのない言葉だけが、エンジン音と同じように頭の中で鳴り続けていた。


「ユリウス?」


 背後から呼ばれた。

 クラリスだった。

 ユリウスは少しだけ振り返る。

 宿舎の入口に立っている。

 上着を羽織っただけの簡素な格好で、こちらを見ていた。


「何してるの?」

「別に」

「寒くない?」

「平気」

「そう」


 クラリスは少しだけ迷うような顔をした。

 それから、何も言わずにこちらへ歩いてくる。

 隣の木箱へ腰を下ろした。

 距離は近い。

 肩が触れるほどではない。

 でも離れてもいない。

 ユリウスは何も言わなかった。

 クラリスも聞かなかった。

 ただ同じ方向を見る。


 月。

 作業灯。

 動き続ける車両。

 遠くの兵士たち。

 基地の夜。

 少しして、クラリスが小さく息を吐いた。


「うるさいわね」

「うん」

「夜くらい静かにできないのかしら」

「無理だろ」

「そうでしょうね」


 それだけ。

 会話は続かなかった。

 エンジン音だけが続いた。

 少し前までなら、ユリウスはそれをただの騒音だと思っていたかもしれない。


 今は違った。

 止まらない音。

 止められない音。

 それでも前へ進むための音。

 自分も同じなのかもしれない。

 答えが出ないからといって、ここで止まるわけにはいかない。

 正しかったのか分からない。

 間違っていたのかも分からない。


 それでも朝は来る。

 作戦は続く。

 誰かがまた機体へ乗る。

 誰かがまた前へ出る。

 自分も、その中にいる。


 ユリウスはもう一度月を見た。




 後悔するな。




 やはり意味は分からなかった。

 分からないまま、夜が過ぎていく。

 エンジン音は鳴りやまない。

 背後では誰かが笑い、誰かが話し、誰かが明日の準備をしていた。

 月だけが静かだった。

 その静けさとは関係なく、基地は動き続けていた。

 そしてユリウスの中でも、答えのない何かが、同じように止まらず動き続けていた。

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