Episode 5 余燼未答 -Embers Without Answer- Part 2
前線基地の夜は、静かではなかった。
空には月が出ていた。
雲の切れ間から覗く白い光が、仮設陣地の屋根や積み上げられた土嚢を淡く照らしている。
それでも、基地を満たしているのは夜らしい静けさではない。
発電機。
補給車。
装甲車。
整備車両。
どこかでアイドリングを続ける重機。
エンジン音が、途切れない。
低く。
鈍く。
地面を這うように響き続けている。
誰かが止めれば、別のどこかでまた始動する。
一台が走り去れば、その空いた音を埋めるように別の車両が入ってくる。
まるで基地そのものが眠ることを忘れているようだった。
ユリウスは仮設宿舎の外に置かれた木箱へ腰を下ろし、しばらくその音を聞いていた。
月は静かだった。
人間が何をしていようと関係なく、そこにある。
エンジンは違う。
人間が動かしている。
戦争を続けるために。
前へ進むために。
明日の朝、また誰かを送り出すために。
だから止まらない。
止められない。
ユリウスには、その音が自分の頭の中とよく似ているように思えた。
考えるのをやめようとしても、止まらない。
一つのことを考え終える前に、別のことが浮かぶ。
何度同じところを回っても、答えには辿り着かない。
ただ動き続ける。
それだけだった。
「それは違うって言ってるでしょ」
背後からクラリスの声が聞こえた。
宿舎の中。
誰かと話しているらしい。
少し離れているせいで、内容までははっきりしない。
別の誰かが何か返す。
笑い声。
リリィの声も混じった気がした。
何か注意している。
クラリスがまた言い返す。
それから、誰かが小さく笑う。
いつもの喧騒だった。
少なくとも、そう見えた。
ユリウスは振り返らなかった。
クラリスがいる。
リリィもいる。
少し前までなら、それだけで十分だったのかもしれない。
今も十分なのかもしれない。
分からなかった。
分からないことばかり増えていた。
後悔するな。
また、その言葉が浮かぶ。
意味は分からない。
コンラート自身のことなのか。
エルザのことなのか。
自分に向けた忠告なのか。
それとも、あの人自身が最後までできなかったことを押しつけただけなのか。
考えても分からない。
聞き返す相手はいない。
それだけは確かだった。
ユリウスは両手を組んだ。
指先にはまだ薄く油の匂いが残っている。
何度洗っても、完全には落ちない。
それもいつものことだった。
整備兵なら、誰でもそうなる。
けれど今日は、その匂いに血の臭いまで混じっている気がした。
実際に残っているのか。
ただそう思うだけなのか。
それすら分からない。
エルザの顔が浮かんだ。
あの目。
何も映していないようで、どこかへ逃げようとしていた目。
拳銃へ手を伸ばした時の動き。
止めた。
自分が。
それだけだった。
助けたわけではない。
救ったわけでもない。
死なせなかった。
ただそれだけだった。
なら、その先は。
生きていれば、全部が良くなるのか。
時間が経てば、後悔は薄れるのか。
姉のことを知った記憶も。
コンラートの最期も。
自分が死のうとしたことも。
全部抱えたまま生きていくことが、本当に正しいのか。
分からない。
もしあの時、止めなかったら。
もし彼女がそのまま引き金を引いていたら。
そこで全部終わっていた。
少なくとも、エルザがこれ以上苦しむことはなかった。
そう考えてしまう自分がいた。
それが正しいとは思えない。
でも、間違っていると言い切ることもできなかった。
遠くでエンジンが一段高く唸った。
大型車両が動き始めたらしい。
振動が地面から木箱へ伝わる。
その音に重なるように、背後からまたクラリスの声。
「だから、明日は私が先に──」
「駄目です」
今度はリリィだった。
はっきり聞こえた。
少し間があって、クラリスが何か不満そうに返す。
また笑い声。
誰かが宥める。
そのやり取りは、妙に遠く感じた。
同じ場所にいるのに。
数歩戻れば、そこに入れるのに。
ユリウスは動かなかった。
月を見た。
白い。
何も知らないような光だった。
その下で、基地だけが動き続けている。
まるで夜が存在しないように。
戦争に朝も夜もない。
あるのは交代と補給と、次の作戦だけ。
だからエンジンは止まらない。
誰かが死んでも。
誰かが泣いても。
誰かが後悔しても。
必要なら動く。
明日のために。
その当然さが、今夜だけはひどく冷たく思えた。
ユリウスはふと、これまで見てきた人たちのことを思い出した。
苦しんでいた者。
迷っていた者。
立ち止まった者。
それでも立ち上がった者。
自分はいつも少し離れたところにいた。
見ていた。
声をかけたこともある。
手を貸したこともある。
それでも、最後に選んだのはいつも本人だった。
自分はその後ろにいただけだ。
今回もそうだったのか。
コンラートが何を思っていたのか。
エルザが何を抱えているのか。
最後まで全部は分からなかった。
ただ近くにいただけだった。
それでも今は、何も知らなかった頃のようには戻れない。
知ってしまった。
見てしまった。
手を伸ばしてしまった。
その結果が正しかったのか分からないまま、それでも先へ進まなければならない。
コンラートが言った意味を、結局ユリウスは理解できなかった。
後悔するな。
簡単に言う。
無理だと思った。
人間なら後悔する。
あの人だって、ずっとそうだった。
なら、なぜ最後にそんな言葉を残したのか。
分からない。
だから余計に残る。
答えのない言葉だけが、エンジン音と同じように頭の中で鳴り続けていた。
「ユリウス?」
背後から呼ばれた。
クラリスだった。
ユリウスは少しだけ振り返る。
宿舎の入口に立っている。
上着を羽織っただけの簡素な格好で、こちらを見ていた。
「何してるの?」
「別に」
「寒くない?」
「平気」
「そう」
クラリスは少しだけ迷うような顔をした。
それから、何も言わずにこちらへ歩いてくる。
隣の木箱へ腰を下ろした。
距離は近い。
肩が触れるほどではない。
でも離れてもいない。
ユリウスは何も言わなかった。
クラリスも聞かなかった。
ただ同じ方向を見る。
月。
作業灯。
動き続ける車両。
遠くの兵士たち。
基地の夜。
少しして、クラリスが小さく息を吐いた。
「うるさいわね」
「うん」
「夜くらい静かにできないのかしら」
「無理だろ」
「そうでしょうね」
それだけ。
会話は続かなかった。
エンジン音だけが続いた。
少し前までなら、ユリウスはそれをただの騒音だと思っていたかもしれない。
今は違った。
止まらない音。
止められない音。
それでも前へ進むための音。
自分も同じなのかもしれない。
答えが出ないからといって、ここで止まるわけにはいかない。
正しかったのか分からない。
間違っていたのかも分からない。
それでも朝は来る。
作戦は続く。
誰かがまた機体へ乗る。
誰かがまた前へ出る。
自分も、その中にいる。
ユリウスはもう一度月を見た。
後悔するな。
やはり意味は分からなかった。
分からないまま、夜が過ぎていく。
エンジン音は鳴りやまない。
背後では誰かが笑い、誰かが話し、誰かが明日の準備をしていた。
月だけが静かだった。
その静けさとは関係なく、基地は動き続けていた。
そしてユリウスの中でも、答えのない何かが、同じように止まらず動き続けていた。




