Episode 5 余燼未答 -Embers Without Answer- Part 1
フォート・グラーデンへ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
前線そのものを後退させたわけではない。旧工業区南部に構築した拠点はそのまま維持され、レイヴンズ・コールの主力も大部分が現地に残っている。敵の反撃に備えながら損傷機を後送し、弾薬と人員を補充する。翌日以降も作戦を継続する以上、ようやく確保した土地を放棄する理由はなかった。
ヴィクトルだけが、小規模な護衛を伴ってフォート・グラーデンへ戻っていた。
戦況報告。
それが名目だった。
司令部棟にはまだ灯りが残っている。
昼夜を問わず前線から情報が届く今、基地全体が完全に眠る時間などほとんどない。通信室では人員が交代しながら端末へ向かい、廊下では参謀や伝令が書類を抱えて行き交っている。
ヴィクトルはその間を抜け、基地司令の執務室へ向かった。
扉を叩く。
「入れ」
短い声。
ヴィクトルが中へ入ると、机の向こうにいたアウグスト・ヴァレンシュタイン大佐は一度だけ顔を上げた。
歓迎するような表情ではなかった。
もっとも、それはヴィクトルも同じだった。
アウグストは手元の書類へ視線を戻す。
「わざわざ帰ってきたのか、シュナイダー」
「ええ」
「戦況報告なら書面で十分だ。前線との通信回線まで整備させた意味がなくなる」
「紙では伝わりにくいこともあります」
「その台詞を使う者は、大抵紙に残したくないことを持ってくる」
「経験がおありで?」
アウグストの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
それから何事もなかったように書類を机へ置く。
「相変わらずだな」
「何がです」
「いや。前より多少は大人しくなったと思っていただけだ」
「ご期待に添えず申し訳ありません」
「期待した覚えはない」
それ以上、どちらも続けなかった。
机の上には既に前線から送られてきた戦況図が広げられている。
市街地を示す地図。
その大部分がノイエ・アーク側の識別色で塗り替えられていた。
戦線は数日前とは比べものにならないほど前進している。
「座れ」
ヴィクトルは向かいの椅子へ腰を下ろした。
アウグストも椅子へ深く座り直す。
「それで。現場は?」
「維持可能です。旧工業区南側まで補給路は通しました。啓開に一部遅れがありますが、明朝までには重車両も問題なく通せるでしょう」
「敵は」
「後退しています」
「今日の襲撃を見る限り、素直に逃げているわけではなさそうだが」
「同感です」
アウグストの指が地図の一点を叩く。
車両組立工場。
今日、休憩中の部隊が襲撃された場所だった。
「損害報告は見た」
「はい」
「予定値以内だ」
その言葉には何の感情もなかった。
死者がいる。
負傷者がいる。
失われた機体もある。
だが作戦全体から見れば、すべて事前に想定された範囲へ収まっている。
軍隊にとって損失とは、そういう数字だった。
「予定値以内なら問題なし、と」
「そう聞こえたか」
「確認しただけです」
「お前は昔から確認が多い」
「司令部は曖昧な言葉を嫌うでしょう」
「お前がそれを言うのか」
アウグストの視線が僅かに鋭くなる。
ヴィクトルは受け流した。
何を指しているのかを尋ねる気はなかった。
尋ねれば、向こうも同じように答えないだろう。
それくらいのことは互いに分かっていた。
「ファントムドーン全体では?」
ヴィクトルが話を戻す。
アウグストは別の資料を引き寄せた。
「悪くない」
「曖昧ですね」
「なら言い直そう。順調だ」
戦況図の上を指が動く。
「攻略対象として推定していた範囲の約八割を押さえた。拠点化も進んでいる。補給線の維持も現状では問題なし。人的損害、車両損失、オルドの損耗。どれも作戦前の想定を大きく超えてはいない」
「残り二割」
「ああ」
地図の北側。
まだ敵側の色が残されている区画がある。
これまでと比較すれば狭い。
だが、その一帯だけは敵の後退が鈍くなっている。
「本命はそこですか」
「可能性は高い」
アウグストは短く答えた。
「これまで押収した施設から、断片的だが情報が出ている。敵が何らかの重要情報を残しているとすれば、残りの区域だろうというのが情報部の見方だ」
「残していれば、ですが」
「何もなければ土地が手に入る。それでも作戦目的の一つは達成だ」
「随分と前向きで」
「勝っている時くらい前向きにさせろ」
アウグストが椅子へ背を預ける。
ほんの僅かに疲労が見えた。
ヴィクトルも戦況図を見る。
八割。
数字だけなら、確かに勝っている。
今日の襲撃でさえ、作戦全体を止めるほどの損害にはならなかった。
それでも、何かが引っかかった。
敵はこちらの弱点を見抜いていた。
安全だと思わせ、搭乗員が機外へ出るまで待ち、それから襲った。
そこまでできる相手が、なぜ八割もの土地をこうも簡単に明け渡したのか。
答えはまだない。
「その顔は気に入らないな」
アウグストが言った。
「どんな顔です」
「勝っている人間の顔じゃない」
「勝っているから疑っているんです」
「また現場の勘か」
「馬鹿にしますか」
「以前ならな」
ヴィクトルの視線が動く。
アウグストもそれ以上は言わなかった。
短い沈黙。
二人の間に何かが残った。
だが、その正体を口にする者はいなかった。
「ところで」
アウグストが書類を閉じた。
「妙な話を聞いた」
「妙な話?」
「今日の襲撃後、搭乗員が一人拘束されたそうだな」
ヴィクトルは表情を変えなかった。
「戦場では色々あります」
「自殺未遂だとか」
「噂がお好きなんですね」
「司令部にいると、嫌でも耳に入る」
アウグストはヴィクトルを見る。
「オルド搭乗員だそうじゃないか」
「そうらしいですね」
「らしい?」
「私は現場の衛生担当でも憲兵でもありませんので」
「お前の指揮系統に近い人間だろう」
「今日の作戦には複数部隊が参加しています」
「またそれか」
「何がでしょう」
「都合が悪くなると、規則と指揮系統を盾にする」
ヴィクトルが僅かに笑う。
「それを嫌うのは意外ですね」
アウグストの目が細くなる。
「シュナイダー」
「はい」
「ここは前線じゃない」
「承知しています」
「なら少しは口を慎め」
「前線でなくとも、言うべきことは変わりません」
「……本当に変わらんな」
「そちらも」
言葉が止まった。
アウグストはしばらくヴィクトルを見ていたが、やがて息を吐いた。
「本人の状態は」
「命に別状はありません」
今度はヴィクトルが明確に答えた。
「精神状態は?」
「今聞く必要がありますか」
「必要かどうかを決めるのは私だ」
「では正式な報告を待たれては」
「はぐらかすな」
「はぐらかしてはいません」
「昔から、お前はそういう言い方をする」
まただ。
過去を匂わせる。
しかし、アウグストはその先へ踏み込まなかった。
ヴィクトルも聞かない。
互いに、それ以上言えば今夜の話では済まなくなることを知っているようだった。
数秒の沈黙のあと、アウグストが先に視線を逸らした。
「……まあいい。正式な報告を待つ」
「助かります」
「お前のためじゃない」
「知っています」
それで話は終わった。
少なくとも今は。
拘束された搭乗員が何をしたのか。
なぜそうなったのか。
今日一人の操縦士が死んだことと、どこまで関係しているのか。
司令部へ詳細が上がるのはいずれ時間の問題だった。
だが、今夜である必要はない。
「死者の補充は?」
アウグストが別の書類を開いた。
「申請は出しておけ。前進を続けるなら機体を遊ばせる余裕はない」
「必要ありません」
アウグストの手が止まった。
「何?」
「一名、決めています」
「もうか」
「ええ」
「随分早いな」
「空席になった以上、埋める必要があります」
「今日死んだ人間の席を、今日のうちにか」
ヴィクトルの表情は変わらなかった。
「軍はそういう場所でしょう」
「……お前がそれを言うか」
「私が言うから意味がある」
アウグストは何か言い返しかけ、やめた。
「候補者は」
ヴィクトルは答えなかった。
「まだ話を通していません」
「本人にも?」
「本人にも」
「それで決めたと言うのか」
「適性はあります」
「操縦経験は」
「問題になるほどではありません」
「また妙な人間を拾ってきたんじゃないだろうな」
「さて」
アウグストが眉間を押さえる。
「名前くらい言え」
「正式な推薦書を出します」
「今ここで言えば済む」
「書面で十分なのでしょう?」
一拍遅れて、アウグストがヴィクトルを見る。
ヴィクトルは何食わぬ顔をしていた。
「……帰れ」
「では」
「今すぐだ」
ヴィクトルは立ち上がった。
扉へ向かう。
その背中へ、アウグストの声が飛んだ。
「シュナイダー」
足を止める。
「推薦したのはお前か」
ヴィクトルは振り返らなかった。
少しだけ間を置く。
「いいえ」
「なら誰だ」
ヴィクトルの手が扉へ触れた。
「もういない人間です」
それだけ答えて、部屋を出た。
〇
廊下へ出ると、窓の外にはフォート・グラーデンの夜景が広がっていた。
格納庫の照明。
走る車両。
点滅する誘導灯。
遠くには、前線方向の空が僅かに明るく見える。
まだ戦争は続いている。
八割を取った。
残り二割。
数字だけなら、終わりは近いように見えた。
だがヴィクトルは、そうは思わなかった。
敵はまだ何かを隠している。
こちらも同じだった。
司令部へ報告していないこと。
まだ本人にも伝えていないこと。
そして、死んだ男が最後に残した推薦。
ヴィクトルは胸元の書類へ手を触れた。
薄い紙が一枚。
そこには次の搭乗員候補が記されている。
今ここで読む必要はなかった。
もう何度も見た名前だったからだ。
ヴィクトルは書類をしまい直し、そのまま廊下を歩いていった。
明日も前線は動く。
残された二割へ向けて。
その先に何があるのかは、まだ誰にも分からなかった。




