Episode 4 宿痕開裂 -Scars Torn Open- Part 6
銃声が途絶えたのは、夕日が工場棟の屋根へ沈み始めた頃だった。
完全に敵を排除したわけではない。工業区のさらに北側にはまだ敵性反応が残り、散発的な射撃音も遠くから聞こえている。それでも車両組立工場を中心とした戦闘は終息し、ヴィクトルの指揮下で周辺の再確認が始まっていた。
レイヴンズ・コールの主力が形成した警戒線の内側へ歩兵が入り、倒れたマローダーを一体ずつ確認していく。スプロウトが残っていないか、火炎放射器を携えた兵士が瓦礫の隙間を覗き込んでいた。
負傷者は一か所へ集められ、動ける者から後方へ送られている。少し前まで休憩所だった資材置場には担架が並んでいた。
笑っていた兵士もいた。
水を飲んでいた者もいた。
その同じ場所に血が残っている。
ユリウスは整備車両の側面へ背を預け、ようやく大きく息を吐いた。
足が痛んでいた。
いつから痛んでいたのかも分からない。戦闘中は気にならなかったものが、終わった途端に戻ってくる。
呼吸。
汗。
喉の渇き。
震える指先。
そして、コンラートとエルザがまだ戻っていないという事実。
リリィから聞いた最後の位置は工場棟の西側だった。救助班が向かっている。
自分が行ったところで邪魔になる。
そう言い聞かせながら、ユリウスは何度目か分からないほど同じ方向を見た。
まだ誰も出てこない。
「ユリウス!」
突然、名前を呼ばれた。
考えるより先に顔を上げる。
見覚えのあるオルドが資材置場の端で膝をついていた。操縦席の装甲が開く。
制止する整備兵の声を無視して、クラリスが昇降用の足場を半ば飛び降りるようにして地面へ降りた。
「おい、まだ完全に──」
近くの兵士が言い終える前に、クラリスは走り出していた。
そのまま真っ直ぐユリウスへ向かってくる。
「クラリス?」
呼んだ時には遅かった。
身体へ衝撃が来た。
「ぐっ」
クラリスが勢いのまま抱きついてきた。
両腕が背中へ回る。負傷している脚へ体重がかかり、ユリウスは一歩よろめいた。
「ちょっと、痛い」
「……生きてる」
「見れば分かるだろ」
「分かってるわよ」
「だったら少し離して」
「嫌」
即答だった。
クラリスはさらに強く腕へ力を込め、ユリウスの胸元へ額を押しつける。
しばらく別行動が続いていた。
クラリスはヴィクトル率いる主力とともに先鋒へ回され、ユリウスはコンラートたちの後続として啓開隊に随伴していた。
無線越しに声を聞くことはあった。生存報告も入っていた。
それでも実際に顔を合わせるのは久しぶりだった。
ユリウスも、それを今になって実感する。
「もう少し普通に再会できないの?」
「これくらい普通でしょ」
「全員にやるのか?」
クラリスが顔を上げた。
「するわけないでしょ」
「じゃあ普通じゃないだろ」
「細かいわね」
理不尽だった。
ユリウスは彼女の肩へ手を置き、少し引き離そうとした。
動かない。
「クラリス」
「何?」
「暑い」
「我慢して」
「何で俺が」
「私が安心するまで」
「どれくらい?」
「知らない」
まるで聞く気がない。
ようやく少しだけ顔を上げたクラリスの頬には薄く煤がついていた。髪も乱れている。
それでも怪我らしい怪我は見当たらない。
ユリウスは無意識に肩から腕、操縦服の胸元へ視線を走らせた。
「怪我は?」
「ないわ」
「本当に?」
「本当。それよりあなたは?」
「俺もない」
「足」
「前からだろ」
「さっき走ってたじゃない」
見られていたらしい。
「走らないと死んでた」
「だからって無茶していい理由にはならないでしょ」
「戦闘中に言われても」
「戦闘が終わったから言ってるの」
いつもの調子だった。
少し怒っていて、少し呆れていて、それ以上に心配している。
ユリウスは小さく息を吐いた。
妙だった。
ほんの少し前まで周囲では人が死んでいた。
自分も死にかけていた。
今も担架が横を通っている。
それなのにクラリスが目の前にいるだけで、数分前までの出来事が少し遠くなった。
安心した。
そう認めるのは、少し癪だった。
「クラリス」
「まだ話は終わってないわよ」
「無事でよかった」
彼女が黙った。
数秒。
それから、先ほどまでよりさらに距離が縮まった。
「ちょっと」
「今のはあなたが悪い」
「何が」
「そういうことを急に言うから」
「意味が分からない」
「分からなくていいわよ」
今度は頬を胸元へ押しつけられる。
ユリウスは諦めた。
周囲の整備兵が何人かこちらを見ている。笑っている者までいた。
「見られてる」
「気にしなくていいでしょ」
「俺が嫌なんだけど」
「私は平気」
「聞いてない」
その時だった。
クラリスの肩越しに、人影が見えた。
西側の工場棟。
崩れた壁の陰から、一人の少女が出てくる。
エルザだった。
ユリウスの表情から何かを感じ取ったのか、クラリスも身体を離した。
エルザは歩いている。
いや。
歩いているというより、前へ進んでいるだけだった。
足取りが定まっていない。
壁へ一度手をつき、そのまま数歩進む。
操縦服は埃と血で汚れていた。両手に至っては、手首近くまで赤黒く染まっている。
怪我をしているのかと思った。
だが歩き方が違う。
傷を庇っている様子ではない。
何より、顔が。
前を見ていなかった。
どこか一点を見ているわけでもない。
目だけが開いていて、その先に何も映っていないようだった。
「エルザ」
ユリウスが呼ぶ。
反応しない。
もう一度。
「エルザ!」
肩が僅かに動いた。
こちらを見た。
視線が合う。
だが、それだけだった。
すぐに顔を逸らし、別の方向へ歩き始める。
「……あの子」
クラリスの声が低くなる。
「何があったの」
ユリウスは答えられなかった。
一つだけ分かる。
コンラートがいない。
「エルザ!」
追いかける。
今度は彼女の歩調が速くなった。
呼ばれたから逃げた。
そう見えた。
「待って」
返事はない。
エルザは人の間を抜けていく。
担架を避ける。
弾薬箱を運ぶ兵士とぶつかりかける。
それでも止まらない。
「ユリウス?」
背後からクラリス。
「どこ行くの?」
「エルザを追う」
「私も行く」
「クラリスは機体を見てもらって」
「でも──」
「お願い」
クラリスが止まった。
納得したわけではないだろう。
それでも今度は追ってこなかった。
ユリウスはエルザの後を追った。
脚が痛む。
走るほどでもないのに、彼女との距離がなかなか縮まらない。
人混みの中を縫うように進んでいく。
行き先があるようには見えなかった。
ただ、この場所から離れようとしている。
そんな歩き方だった。
「エルザ」
ようやく数歩後ろまで追いつく。
「待って」
「……来ないで」
初めて返事があった。
声がひどく掠れている。
「あの人は?」
エルザの足が止まった。
聞いた瞬間、間違えたと思った。
背中が小さく震える。
だが振り返らない。
「エルザ」
「来ないでって言った」
「血がついてる」
「私のじゃない」
すぐに答えた。
その答えで十分だった。
ユリウスは何も言えなくなる。
夕日はさらに低くなっていた。
工場棟の隙間から差し込む光が、エルザの背中を赤く染めている。
先ほどまで響いていた銃声は、もうほとんど聞こえない。
代わりに、負傷者を運ぶ声。
車両のエンジン。
遠くで誰かが名前を呼ぶ声。
戦闘が終わったあとの音だけが残っていた。
「……ユリウス」
エルザが言った。
こちらを向かない。
「何」
「あの人が」
そこで止まった。
声を出そうとしている。
だが、喉が上手く動かないようだった。
ユリウスは待った。
急かさなかった。
エルザが両手を握る。
血に濡れた指が、小さく震えていた。
「あなたに……伝えろって」
ユリウスは何も言わない。
次の言葉を待つ。
「後悔するな、って」
風が吹いた。
どこかで焼けた鉄の臭いがした。
ユリウスはその言葉を頭の中で繰り返した。
──後悔するな。
「……それだけ?」
「それだけ」
「どういう意味?」
「知らない」
エルザの声が僅かに強くなった。
「私が知るわけないでしょ」
「……そうだな」
「本人に聞けば」
言いかけて、止まった。
エルザの肩が大きく震えた。
ユリウスも、その先を聞けなかった。
聞き返す相手がどこにいるのか。
それを尋ねることすらできなかった。
「あの人は」
それでも、言わなければならなかった。
エルザはしばらく黙っていた。
夕日に向かって立ったまま、拳だけを握っている。
やがて、小さく首を横へ振った。
それだけだった。
ユリウスは目を伏せた。
驚きはなかった。
たぶん、エルザの姿を見た時点で分かっていた。
それでも、分かっていることと、認めることは違った。
少し前まで話していた。
余計なことを言って。
機体を見ろと言って。
自分の仕事だけ考えろと言って。
それが最後になるとは思っていなかった。
後悔するな。
何を。
ユリウスには分からなかった。
コンラート自身のことなのか。
エルザのことなのか。
これから先の何かを指しているのか。
それとも、ただ思いついた言葉だったのか。
考えても答えは出ない。
本人はもういない。
そこだけは、どうしようもなかった。
「……エルザ?」
彼女が再び歩き出した。
今度は先ほどより速い。
「どこへ行くの」
「放っておいて」
「無理」
「何で」
「今の状態で放っておけない」
「大丈夫だから」
「大丈夫に見えない」
エルザが振り返った。
初めて真正面から目が合う。
その顔を見て、ユリウスは言葉を失った。
泣いていなかった。
だから余計に異様だった。
涙もない。
怒っているわけでもない。
ただ、何かが抜け落ちている。
その目だけが、妙に焦っていた。
何かを探している。
あるいは、何かから逃げようとしている。
「来ないで」
「エルザ」
彼女が一歩下がる。
そして、腰元へ手を伸ばした。
そこには拳銃があった。
ユリウスの視線が止まる。
エルザも、自分が何をしているのか気づいたように一瞬動きを止めた。
次の瞬間、踵を返した。
「待て!」
走り出す。
エルザも走った。
ユリウスは痛む脚を引きずるようにして、その後を追う。
背後からクラリスが何か叫んだ。
聞き取れなかった。
ただ、エルザの背中だけを見ていた。
夕焼けの中を、小さな影が人混みの向こうへ消えようとしていた。
今ここで見失ってはいけない。
理由は分からない。
コンラートが何を考えて「後悔するな」と残したのかも分からない。
それでもユリウスは走った。
答えを持たないまま。




