Episode 4 宿痕開裂 -Scars Torn Open- Part 5
「コンラート!」
エルザの声が、戦場の喧騒を裂いた。
ユリウスには、すぐに二人の姿が見えなくなった。
飛び散った粉塵と、逃げ惑う兵士。その間を縫うようにマローダーが走り、開け放たれた操縦席を目指していた。
銃声が重なる。
誰がどこを撃っているのか分からない。
倒れた敵の背からスプロウトが散り、地面を這う小さな影へ歩兵が火を浴びせる。
休憩のため地上へ降りていた搭乗員たちは、一斉に自機へ戻ろうとしていた。
だが、敵はそれを許さなかった。
明らかだった。
オルドではない。
その中へ戻ろうとする人間を狙っている。
「右!」
リカルドの声。
ユリウスが振り向く。
一体のマローダーが整備車両を飛び越えた。
腕とも触手ともつかないものが伸びる。
ユリウスは地面へ転がった。
頭上を何かが通過する。
直後、乾いた連射音。
マローダーの身体が横へ弾けた。
「立て!」
リカルドに腕を掴まれる。
立ち上がる。
足が痛んだ。
構っている暇はない。
「リリィは!」
「通信車だ!」
見る。
装甲化された通信車両の陰で、リリィが無線機へ向かって叫んでいる。
『こちら前進支援部隊! 車両組立工場で敵襲! 小型種多数、スプロウト確認! 搭乗員が狙われています!』
返答は雑音に掻き消された。
『繰り返します! 搭乗員が──』
爆発。
通信車両が揺れる。
リリィが身を伏せた。
ユリウスはそちらへ走ろうとして、止まる。
エルザ。
コンラート。
さっき二人がいた場所を見る。
いない。
血の跡だけが残っている。
それが工場棟の陰へ続いていた。
「……コンラート」
向かおうとした。
「行くな!」
エミールが怒鳴った。
「今そこを離れたら死ぬぞ!」
「でも!」
「生きてる奴を先に守れ!」
また正しい。
こんな時に限って、正しい言葉ばかりが邪魔をする。
ユリウスは歯を食いしばった。
〇
戦闘は、数分で終わる気配を見せなかった。
むしろ時間が経つほど、敵は増えているように感じられた。
一体を倒せば、建物の陰から二体。
二体を撃てば、今度は屋根の上。
どこに潜んでいたのか。
無人偵察機にも、歩兵の捜索にも引っかからなかった個体が次々と現れる。
敵は最初からここにいた。
そうとしか思えない。
安全だと判断されるまで。
兵士が武器を下ろすまで。
操縦士が装甲の外へ出るまで。
待っていた。
『南側突破される!』
『予備を回せ!』
『無理だ、東側も接敵!』
『オルドを起動しろ! 一機でもいい!』
無線が怒号で埋まる。
ようやく搭乗できた一機が立ち上がった。
機関砲が火を噴く。
マローダーの群れがまとめて砕けた。
状況が変わる。
たった一機。
それだけで敵の動きが明らかに鈍った。
オルドの装甲へ小型種が飛びつく。
腕を叩きつける。
触手を巻きつける。
それでも外殻を破れない。
機体が腕を振るう。
二体が壁へ叩きつけられた。
ユリウスはそれを見て、敵の狙いを改めて理解した。
オルドへ乗らせない。
そのための襲撃だった。
遠くから砲声がした。
最初は敵だと思った。
違った。
もっと重い。
続けてもう一発。
工場敷地の北端で爆発が起き、そこに密集していたマローダーがまとめて吹き飛ぶ。
『識別信号確認!』
通信兵が叫ぶ。
『味方です! 南西よりオルド部隊接近!』
ユリウスが顔を上げた。
工場棟の向こう。
夕方の傾き始めた光の中から、複数の機影が現れる。
一機。
二機。
その後ろにも続く。
先頭機が止まることなく射撃した。
狙いは正確だった。
味方の配置を避けながら、敵だけを削っていく。
『前進支援部隊へ。こちらレイヴンズ・コール』
聞き覚えのある声だった。
『よく持たせた。後はこっちで引き受ける』
ヴィクトル。
ユリウスの周囲で、誰かが大きく息を吐いた。
助かった。
そう思ったのはユリウスも同じだった。
『第一、第二小隊は北側を塞げ。歩兵を食わせるな。第三は西へ回れ』
命令が淀みなく飛ぶ。
到着したオルドが散開する。
それまで好き放題に走り回っていたマローダーの動線が、一つずつ潰されていく。
機関砲。
爆発。
駆動音。
工場敷地が再び震え始めた。
『右から来る!』
別の声。
ユリウスは反射的にそちらを見る。
一機のオルドが、資材置場へ飛び込んできたマローダーを撃ち抜いた。
機体の動きに見覚えがある。
銃口が次の敵へ向く。
射撃。
さらに一体。
『ユリウス、聞こえる!?』
クラリスだった。
「クラリス?」
『無事なの!?』
「今は!」
『今はじゃなくて!』
銃声が重なる。
『そこから動かないで!』
「戦闘中だろ!」
『だから言ってるの!』
返事をするより先に、クラリス機は別方向へ駆けていった。
敵の群れへ真正面から突っ込む。
ユリウスは一瞬だけ、その背中を見送った。
安心する暇はなかった。
コンラートがいない。
エルザも。
「リリィ!」
通信車へ走る。
「二人の位置は?」
「探しています!」
リリィは複数の回線を切り替えていた。
「個人端末の反応が弱いです。工場棟の西側……たぶん、この辺り」
地図上を指す。
建物と資材置場の間。
戦闘の中心から外れている。
だが安全ではない。
「救助を」
「今は回せません!」
ユリウスが歯を噛む。
「なら俺が」
「駄目です」
「でも」
「コンラートに言われたでしょう」
手が止まった。
「自分の仕事だけ考えろって」
リリィは画面から目を上げなかった。
ユリウスは何も返せなかった。
〇
工場棟の西側には、戦闘の音が届いていた。
けれど、それはずっと遠くで鳴っているように聞こえた。
崩れかけた壁の陰。
積まれた鋼材と、使われなくなった搬送設備に囲まれた狭い空間。
エルザはそこで膝をついていた。
両手は血に濡れている。
押さえても、止まらない。
コンラートの脇腹から流れた血が、操縦服を黒く染めていた。
「動かないで」
声が震えた。
「動いてねえよ」
「喋らないで」
「それは無理だ」
「黙って!」
エルザは包帯を押し当てる。
さらに圧迫する。
コンラートが僅かに顔を歪めた。
「痛い?」
「そりゃ痛えよ」
「なら黙ってて」
「さっきからそればっかりだな」
遠くで爆発。
壁の埃が落ちる。
エルザは気づかない。
手元だけを見ていた。
「衛生兵が来るから」
「来ねえよ」
「来る」
「今、外がどうなってると思ってる」
「来るって言ってるでしょ!」
声が裏返った。
コンラートは黙った。
エルザの手が震えている。
包帯を巻き直そうとして、上手くいかない。
指が滑る。
「何で」
小さな声。
「何であんなことしたの」
「何が」
「私を庇った」
「近かったからだ」
「嘘」
即答だった。
コンラートが目を逸らす。
「またそれ」
「……」
「ずっとそう。何も言わない。聞いても逃げる。勝手に謝って、勝手に終わらせて」
コンラートの呼吸が少しだけ浅くなった。
「今はいいだろ」
「よくない」
「よくしろ」
「できるわけない!」
銃声。
今度は近い。
エルザが拳銃へ手を伸ばしかける。
コンラートが手首を掴んだ。
「待て」
「敵が」
「違う」
耳を澄ます。
外で何かが動いている。
だがこちらへ来る気配はない。
戦闘の流れは別方向へ移っているようだった。
コンラートは手を離した。
「……エルザ」
「何」
「今のうちに聞け」
「だから、あとで」
「あとじゃ遅い」
「やめて」
エルザが顔を上げた。
その言い方の意味くらい、分かっていた。
「やめてよ」
「聞け」
「嫌」
「お前の姉さんのことだ」
時間が止まったようだった。
外ではまだ誰かが叫んでいる。
機関砲が断続的に響き、オルドの駆動音が地面を震わせている。
それでも二人の間だけは、奇妙なほど静かだった。
コンラートは途切れ途切れに話した。
昔のこと。
エルザがまだ知らなかったこと。
帰ってきたのが自分一人だった理由。
誰が誰を置いていったのか。
誰が最後に残ることを選んだのか。
エルザは何度か首を振った。
途中で否定した。
嘘だと言った。
コンラートはそれでも続けた。
声が弱くなるたび、エルザはもう喋るなと言った。
それでも止めなかった。
何年も口にしなかったことを、その短い時間の中ですべて吐き出すように。
やがてエルザは何も言わなくなった。
両手だけが、傷口を押さえ続けていた。
「……じゃあ」
しばらくして、掠れた声が落ちた。
「じゃあ、私……」
続かなかった。
コンラートは目を閉じる。
「お前は悪くない」
「言わないで」
「エルザ」
「それ以上、言わないで」
彼女の頬を何かが伝った。
汗なのか、涙なのか、自分でも分からなかった。
「何で今なの」
「今しかねえからだ」
「だったらもっと前に言えばよかったじゃない!」
「ああ」
「何で!」
「言えなかった」
「そんなの……」
エルザの声が詰まる。
「そんなの、知らないよ」
「そうだな」
「知らない」
「ああ」
「今さら、そんなこと言われても……」
コンラートは何も返さなかった。
もう返す言葉がないようにも見えた。
夕日が崩れた壁の隙間から差し込んでいる。
赤い光が、埃の中を細く伸びていた。
その光が二人の間に落ちる。
遠くでは、まだ戦争が続いていた。
〇
『北側、押し返せ!』
『小型種後退!』
『追うな、隊形維持!』
ヴィクトルの指揮で戦線は急速に立て直されていた。
主力が揃えば、状況は違った。
オルドが戦線を形成し、その後ろへ歩兵を戻す。
地上へ残されていた搭乗員も次々と救出される。
敵は一体ずつ撃破され、あるいは工場区の奥へ退いていった。
それでもユリウスの胸のざわつきは消えなかった。
「西側は?」
何度目か分からない。
「まだ」
リリィも同じ答えを返す。
「通信は?」
「繋がりません」
ユリウスは拳を握った。
そこへ一機のオルドが着地するように止まった。
装甲が開く。
クラリスが降りてくるより先に叫んだ。
「ユリウス!」
「何してるんだ!」
「それはこっちの台詞!」
「まだ終わってない!」
「だから確認しに来たの!」
地上へ飛び降りようとして、近くの兵士に止められる。
クラリスは露骨に不満そうな顔をしたが、すぐに再び操縦席へ戻った。
「そこにいて!」
「分かったから戻れ!」
「絶対だからね!」
装甲が閉じる。
また戦場へ戻っていく。
ユリウスはその姿を見送りながら、短く息を吐いた。
生きている。
今は、それだけでよかった。
けれど同時に思う。
コンラートも。
エルザも。
まだ生きているのか。
〇
「立てるか」
コンラートが言った。
エルザは答えなかった。
「エルザ」
「……何」
「行け」
彼女が顔を上げる。
「どこに」
「味方のところだ」
「一緒に行く」
「無理だ」
「肩貸す」
「無理だって言ってる」
「やってみなきゃ分からない!」
「俺が一番分かってる」
コンラートは自分の傷を見た。
包帯は既に赤く染まりきっている。
エルザも見た。
見てしまった。
それでも首を振る。
「置いていかない」
「置いてけ」
「嫌」
「命令だ」
「あなたに命令される理由なんてない」
「じゃあ頼む」
言葉が止まった。
コンラートが初めて、まっすぐ彼女を見る。
「行ってくれ」
エルザは動かなかった。
遠くの喧騒が少しずつ近づき、また遠ざかる。
戦線が動いている。
いつ敵がここへ来てもおかしくない。
「……嫌」
「エルザ」
「また一人で決めるの」
「今度は違う」
「何が」
「お前を生かすためだ」
エルザの顔が歪んだ。
「その言い方、やめて」
コンラートは僅かに笑った。
「俺も昔、そう思った」
「……」
「だから分かる」
エルザは唇を噛んだ。
何も言えない。
「それと」
コンラートが続ける。
「ハルトマンに伝えてくれ」
「ユリウスに?」
「ああ」
呼吸を整える。
ほんの短い言葉なのに、少し時間がかかった。
「……それだけ?」
「それだけだ」
「どういう意味」
「知らん」
「何それ」
「本人に考えさせろ」
ほんの少し、いつものコンラートらしい声だった。
エルザは泣きながら笑いそうになり、それすらできなかった。
「行け」
「……」
「早く」
エルザは立ち上がった。
一歩。
また一歩。
振り返る。
「コンラート」
彼が顔を上げる。
それまで彼女が滅多に呼ばなかった名前だった。
「……何だ」
何か言おうとした。
けれど、結局言葉にはならなかった。
エルザは背を向けた。
走り出す。
振り返らなかった。
コンラートはその背中が見えなくなるまで、黙っていた。
〇
夕日は、工場の屋根へ触れようとしていた。
空が赤い。
火災の煙も赤く染まり、遠くを走るオルドの影が黒く浮かんでいる。
戦闘はまだ続いていた。
機関砲。
爆発。
怒号。
無線。
誰かが走る音。
金属が崩れる音。
世界中の音が、一つの場所へ押し込められたようだった。
その中で、コンラートの周りだけが静かだった。
もう立てない。
呼吸も浅い。
拳銃を抜く。
手が上手く動かなかった。
一度落としかけ、握り直す。
瓦礫の向こうで、小さな音がした。
何かが這う音。
見なくても分かった。
それでもコンラートはそちらを見る。
黒い、小さな影。
一つ。
その後ろにも。
スプロウト。
コンラートはしばらくそれを見ていた。
恐怖がなかったわけではない。
ただ、それよりも先に決めていたことがあった。
拳銃を持ち上げる。
遠くでオルドの機関砲が鳴った。
空が赤い。
妙に綺麗だった。
コンラートは一度だけ目を閉じた。
その頃、エルザは工場棟の間を走っていた。
呼吸が苦しい。
足が重い。
周囲では兵士たちが叫び、オルドが敵を追い立てている。
誰かに止まれと言われた気がした。
聞こえなかった。
ただ走った。
前だけを見て。
振り返らずに。
その時。
一発の銃声が響いた。
機関砲より小さく。
爆発より乾いていて。
戦場の喧騒に呑まれてしまいそうな、短い音だった。
エルザの足が止まった。
夕焼けの下では、まだ戦闘が続いていた。
けれど彼女には、その一発だけがいつまでも消えずに残っていた。




