Episode 4 宿痕開裂 -Scars Torn Open- Part 4
十五時二十分。
車両組立工場の敷地には、短い休憩が与えられていた。
予定では二十分。
前進速度が想定を上回っていたため、工兵隊が次の進路を確認するまで時間が余ったらしい。
ユリウスはコンラート機の右脚部から身体を抜き、工具を地面へ置いた。
異常と呼べるほどのものはなかった。
関節保護板の一部が僅かに変形し、旋回時に内部へ触れていただけだ。ボルトを緩めて位置を修正すれば、それで終わる。
「動かしてみてください」
地上にいたコンラートが携帯端末を操作する。
機体の右脚がゆっくりと持ち上がった。
伸展。
屈曲。
もう一度。
「どうです?」
「引っ掛からんな」
「これで大丈夫です」
「早いな」
「壊れてませんから」
「最近そればっかりだな」
ユリウスは工具を布で拭った。
言われてみれば、その通りだった。
整備兵として前線へ出ているのに、大掛かりな修理をした記憶がほとんどない。
傷は増えている。
外装も削れている。
だが、どれも戦闘能力を失わせるほどではない。
戦っているのに壊れない。
撃たれているのに死なない。
それを幸運と呼ぶには、続きすぎていた。
「何だ?」
コンラートがこちらを見る。
「いえ」
「また余計なこと考えてる顔だぞ」
「そういう顔って分かるんですか」
「お前は分かりやすい」
「初めて言われました」
「俺が初めて気づいたんだろ」
いつもの調子だった。
ユリウスは工具箱を閉じる。
コンラートは水筒へ手を伸ばし、一口だけ飲んだ。
その向こうでは、何人かの操縦士が機体の陰へ座り込んでいる。
操縦席を開いたままの機体も多かった。
戦闘服の上着を腰まで脱ぎ、風を入れている者。
整備兵と話している者。
携行食を口へ運んでいる者。
資材置場の端では歩兵たちも装備を下ろし、壁に背を預けていた。
警戒線は工場敷地の外側まで押し出されている。
歩哨もいる。
無人偵察機も上空を回っている。
ここへ到着してから敵影は一度も確認されていない。
安全だった。
少なくとも、軍が定めた手順の上では。
「コンラート」
声がした。
エルザだった。
少し離れた機体の脇に立っている。
彼女も操縦服の上半身を開き、首元に冷却布を巻いていた。
「何だ」
「これ」
何かを投げる。
コンラートが片手で受け取った。
水の入った小さなパックだった。
「俺は持ってる」
「知ってる」
「じゃあ何で」
「さっき整備の人に一本渡してたでしょ」
コンラートは一度、自分の水筒を見た。
軽い。
ほとんど残っていないらしい。
「……よく見てんな」
「見たくて見てるわけじゃない」
「そうかよ」
「要らないなら返して」
「もらっとく」
エルザはそれだけで背を向けた。
コンラートも礼は言わなかった。
だが、投げ返しもしなかった。
ユリウスは二人を見比べる。
昨日までなら、これほど自然に物を渡すことすらなかった気がする。
何かが変わっている。
ほんの少しだけ。
それが良いことなのかどうかは、まだ分からなかった。
「見るな」
コンラートが言った。
「見てません」
「見てただろ」
「視界に入っただけです」
「リリィの真似か?」
「何が」
「言い訳の仕方」
ユリウスは答えなかった。
コンラートが笑う。
その時だった。
遠くで、短い信号音が鳴った。
ユリウスは顔を上げた。
通信機からではない。
工場敷地内に設置された簡易中継器が拾ったものだった。
低い音。
途切れ。
その直後に細く高い音が重なる。
聞き慣れた敵性信号。
「まただ」
ユリウスが呟く。
コンラートも表情を変える。
「敵影は?」
近くの通信兵が端末を見る。
「ありません」
「熱源」
「外周、異常なし。無人機も反応なしです」
「信号源は」
「特定できません。一瞬だけです」
コンラートは資材置場の外へ目を向けた。
工場棟。
貨物線。
並んだコンテナ。
動くものはない。
数秒経つ。
何も起きない。
さらに十秒。
警報も出なかった。
「また誤検知か?」
誰かが言った。
「最近多いな」
「敵が遠くで何かやってんじゃないのか」
「だったらこっちには関係ないだろ」
兵士たちの会話に緊張はなかった。
少し前なら、敵性信号が入っただけで全員が武器を手にしていた。
今は違う。
何度も聞いた。
そのたびに何も起きなかった。
人間は、何も起きないことにも慣れる。
ユリウスはその事実に気づいた。
先ほどまでの違和感が、また胸の奥へ戻ってくる。
「警戒した方が」
言いかける。
『外周第一班、異常なし』
無線が先に入った。
『第二班も異常なし』
『無人機、北側二百まで敵影なし』
次々と安全を示す報告が上がる。
ユリウスは口を閉じた。
何もない。
なら、何を警戒する。
危険だという証拠はどこにもなかった。
「気になるなら機体に戻っとけ」
コンラートが言った。
「俺は搭乗員じゃないです」
「じゃあ車の下にでも潜ってろ」
「余計危ないでしょう」
「なら俺の後ろにいろ」
「何でですか」
「小さいから見失う」
「十五歳です」
「十分小さい」
くだらないやり取り。
それだけで、僅かに肩の力が抜けた。
コンラート自身ももう外を見ていなかった。
エルザは少し離れたところで、別の操縦士と何か話している。
笑ってはいない。
けれど険しい顔でもない。
ほんの少し前まで戦闘区域だった場所に、休憩の空気が広がっていた。
〇
十五時三十一分。
予定された休憩の半分が過ぎた頃だった。
ユリウスは整備車両へ戻り、使った工具を元の位置へ収めていた。
車内は暑い。
扉を開け放ち、外気を入れる。
リカルドは荷台で在庫を確認している。
エミールは少し離れたところで別の整備班と話していた。
周囲の誰もが、それぞれの仕事をしていた。
銃声はない。
砲声も遠い。
ただ風が工場の割れた窓を抜ける音だけが聞こえる。
「ユリウス」
リリィが通信車両から顔を出した。
「何?」
「さっきの信号」
「何か分かった?」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「だから気になるんです」
「いつもの信号だろ」
「いつもより短すぎます」
「どれくらい」
「一・七秒」
「それだけ?」
「それだけです」
ユリウスは眉を寄せた。
「短いと何かあるのか」
「分かりません」
「またそれか」
「分からないものは分からないと言うしかありません」
リリィは少しだけ不満そうに返した。
「ただ、最近の信号は長さにばらつきがあります。以前はもう少し一定でした」
「意味がある?」
「あるかもしれません。ないかもしれません」
「……便利な答えだな」
「あなたまでコンラートみたいなことを言わないでください」
ユリウスは口を閉じた。
リリィは端末へ視線を落とす。
「それと」
「まだあるの?」
「敵性信号が確認された位置と、交戦地点を重ねています」
画面をこちらへ向ける。
地図上に複数の点が並んでいた。
ユリウスには細かな分析までは分からない。
「何か変?」
「今のところは」
リリィが指で地図をなぞる。
「信号が出た直後に敵が攻撃してくる場合もあります。撤退する場合もある。何も起きない場合もあります」
「規則性がない」
「そうです」
「じゃあ意味ないだろ」
「普通なら」
リリィの指が止まった。
「でも、規則性がないこと自体に意味がある可能性もあります」
「どういう意味?」
「……分かりません」
ユリウスはため息を吐いた。
「結局それか」
「だから気持ち悪いんです」
リリィは画面を閉じた。
珍しい言葉だった。
彼女が感覚だけで物事を評することは少ない。
ユリウスも同じ感覚を抱いていた。
敵の信号。
順調な前進。
少ない損失。
繰り返される小規模な戦闘。
何も起こらない時間。
それらが一つにつながっている気がする。
だが、どうつながるのかが分からない。
「警戒を上げてもらう?」
ユリウスが言う。
「根拠は?」
「気持ち悪いから」
「却下されます」
「だろうな」
「それに」
リリィは周囲を見る。
「ここは既に安全確認済みです」
その言葉に、ユリウスはまた引っかかった。
安全確認済み。
今日だけで何度聞いただろう。
歩兵が確認した。
偵察機が確認した。
熱源なし。
敵影なし。
スプロウトなし。
だから安全。
当たり前の手順だった。
当たり前だからこそ、疑う理由がない。
「安全か」
「少なくとも、確認できる範囲では」
リリィはそう言った。
〇
十五時三十七分。
休憩終了まで、あと三分。
ユリウスは整備車両の外へ出た。
各所で兵士たちが片づけを始めている。
操縦士たちも機体へ戻ろうとしていた。
コンラートは既に自機の脚元にいる。
エルザはまだ少し離れた給水所にいた。
空は西から色を変え始めていた。
夏の長い日とはいえ、工場棟の壁には薄く橙色が差している。
その光の中を、粉塵がゆっくり漂っていた。
妙に穏やかな光景だった。
ユリウスは一瞬だけ、その場に戦争があることを忘れそうになった。
小さな音がした。
金属が落ちたような音。
誰も反応しない。
もう一度。
今度は少し近い。
「……?」
ユリウスが振り返る。
資材置場の奥。
積み上げられた鋼材の隙間。
何かが動いた気がした。
風か。
鼠か。
ここにはそんなものが残っているのかもしれない。
目を凝らす。
何もいない。
「ユリウス?」
リリィが呼ぶ。
「今、何か」
言葉の途中だった。
鋼材の隙間から、黒いものが飛び出した。
「敵!」
叫ぶ。
マローダー。
一体。
いや、二体。
その背後からさらに現れる。
どこに潜んでいた。
そう考える暇はなかった。
「警報!」
リリィが叫ぶ。
次の瞬間、工場敷地の各所から銃声が響いた。
一か所ではない。
北側。
東側。
工場棟内部。
貨物線側。
まるで合図を待っていたように、一斉だった。
休憩していた兵士たちが武器へ飛びつく。
「機体に戻れ!」
「搭乗員を守れ!」
「敵影多数!」
無線が一瞬で埋まる。
オルドへ向かって走る操縦士。
その進路へマローダーが飛び込む。
地上にいる。
全員が地上にいる。
ユリウスはそこで初めて気づいた。
敵が狙っているもの。
マローダーの一体が、近くにいた歩兵を無視した。
銃を持った兵士を横切る。
向かった先は、開いたままの操縦席へ戻ろうとしている搭乗員だった。
「操縦士を狙ってる!」
誰かが叫んだ。
銃声。
マローダーが倒れる。
その横を別の一体が抜ける。
また同じ方向。
偶然ではない。
敵は最初から、オルドを見ていなかった。
オルドの中にいる人間を見ていた。
「エルザ!」
コンラートの声が響いた。
ユリウスがそちらを見る。
給水所から自機へ戻ろうとしていたエルザの前に、二体のマローダーが回り込んでいた。
さらに横から一体。
彼女は拳銃を抜く。
撃つ。
一体の肩が弾ける。
止まらない。
「下がれ!」
コンラートが走る。
自分の機体とは逆方向へ。
エルザの方へ。
「コンラート!」
エルザが叫ぶ。
マローダーの背部が開いた。
黒い小さな影が零れ落ちる。
スプロウト。
コンラートがエルザへ飛びついた。
その身体を押し倒すようにして、地面へ伏せさせる。
直後。
何かが二人のいた場所を薙いだ。
鈍い音。
赤い飛沫が、夕日の中へ散った。
ユリウスには、一瞬何が起きたのか分からなかった。
「コンラート!」
エルザの声だけが、戦場の喧騒を裂いた。




