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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 4 宿痕開裂 -Scars Torn Open- Part 1

 〇四三〇。

 目を覚ました時、外はまだ暗かった。

 窓を塞いだ防水布の隙間から差し込む光もなく、仮設宿舎の中には低い寝息と装備品の擦れる音だけが残っている。

 ユリウスは寝具の上でしばらく天井を見ていた。

 眠れなかったわけではない。それでも、よく眠れたとは言い難かった。

 夜中に何度か目を覚ました。

 車両の音がした時。

 遠くで砲声がした時。

 そして、そのたびに昨日の言葉を思い出した。


 ──明日は、自分の仕事だけ考えろ。


 コンラートが何を意図してそう言ったのか、結局分からないままだった。

 忠告。

 牽制。

 あるいは、単に負傷した自分への注意。

 どれも間違ってはいないように思える。


 ユリウスは身体を起こした。

 これ以上考えても答えは出ない。

 軍靴を履き、紐を締める。

 足にはまだ僅かな違和感が残っている。走れと言われれば走れる。ただ、走り続ければ痛むだろう。

 前線へ出るつもりはなかった。

 そもそも、出る理由もない。


 自分は整備兵だ。

 壊れた機体を直し、動けない機体を回収する。

 今日もそれだけをすればいい。

 そう思いながら立ち上がった。


 外へ出ると、橋頭堡は既に動き始めていた。

 空は東の端だけが僅かに白み、街路を照らす作業灯の方がまだ明るい。幹線道路には装甲車と補給車が並び、その脇を兵士たちが忙しなく行き来している。

 昨日確保した区画を足場に、今日はさらに北へ進む。


 目標は旧工業区。

 工場や倉庫が集中し、市街地の外へ続く幹線道路と貨物線が交わる場所だった。

 そこを押さえれば、後続部隊の進出はかなり楽になる。

 逆に言えば、相手にとっても簡単には捨てたくない場所だった。

 にもかかわらず、昨夜まで敵の動きはほとんど確認されていない。


「ハルトマン」


 呼ばれて振り返る。

 エミールが整備車両の脇に立っていた。


「起きてるなら手を動かせ。油圧ホースの予備が足りない」

「昨日補充したはずです」

「一本使った。あと二本積め」

「分かりました」


 荷台へ上がる。

 工具箱。

 交換部品。

 応急補修材。

 昨日使ったものを確認し、不足分を補う。

 単純な作業だった。


 だが、こういう確認を怠れば、必要になった時に困る。

 戦闘そのものに参加しなくても、戦場にいる以上、準備を怠った結果は誰かの生死へつながる。

 ユリウスは一本ずつ部品を確認していった。

 作業に集中している間は、余計なことを考えずに済んだ。


「それ、右じゃないか?」


 声がした。

 顔を上げる。

 コンラートだった。

 操縦服姿で、片手に水筒を持っている。

 その背後には出撃準備を終えたオルドが並んでいた。


「何がです」

「ホース。そっちの箱は左脚用だろ」


 ユリウスは手元を見る。

 確かに違う。


「……見れば分かります」

「見て分かってないから言ってるんだ」

「今分かりました」

「素直じゃねえな」

「あなたに言われたくないです」


 コンラートが鼻で笑った。

 その様子は昨日までと変わらない。

 ぶっきらぼうで、余計なところに口を出す。

 ユリウスが初めて前線へ来た頃から、ずっとそうだった。

 ただ、その理由だけが以前とは違って見え始めていた。


「今日は先行ですか」

「ああ」

「旧工業区まで?」

「予定じゃな」

「エルザも」


 コンラートの表情がほんの僅かに止まった。


「……名簿見たなら知ってるだろ」

「確認です」

「なら確認できたな」


 それ以上は答えなかった。

 ユリウスも続けなかった。

 昨日までなら、もう一つくらい聞いていたかもしれない。

 だが今日はやめた。

 コンラート自身が言った。

 自分の仕事だけ考えろ。

 それに従うつもりだった。

 少なくとも今は。


「ハルトマン」

「はい」

「今日は前に出るなよ」

「昨日も言われました」

「なら覚えてるな」

「俺は整備です」

「お前はそれでも出てくるから言ってる」


 否定できなかった。

 コンラートは水筒の蓋を閉じた。


「何かあっても、後ろで待て」

「何かって?」

「戦場で何があるかなんて分かるか」

「それなら、あなたも気をつけてください」


 言ってから、少し妙なことを言った気がした。

 コンラートも同じように感じたのか、一瞬こちらを見る。

 やがて小さく笑った。


「誰に言ってんだ」

「あなたです」

「分かってる」


 踵を返す。

 数歩進んだところで、その視線が別の方向へ向いた。

 ユリウスもつられて見る。

 エルザがいた。


 自分の機体の前で整備兵と話している。

 まだこちらには気づいていない。

 コンラートは何も言わなかった。

 すぐに視線を戻す。


 だが、ほんの一瞬だけ見ていた。

 それだけだった。

 昨日から何度も目にした仕草。

 気にしていないように振る舞いながら、所在だけは確かめる。

 エルザの方も同じだった。


 少しして顔を上げた彼女の目が、コンラートの背中を捉える。

 けれど声はかけない。

 互いに見ている。

 互いに近づかない。

 それが二人の間では、当たり前になっているらしかった。

 ユリウスは視線を手元へ戻した。

 今日は自分の仕事だけ考える。

 そう決めたばかりだった。


     〇


 〇五一五。

 先行部隊が道路上へ集まり始めた。

 オルドが四機。

 その後方に装甲歩兵。

 さらに工兵隊が続く。

 コンラートとエルザは同じ小隊に組み込まれていた。

 もっとも、二機が隣り合って並ぶことはない。

 間には別の機体が入り、互いに別方向を向いて警戒している。

 部隊編成として不自然ではなかった。

 それでも、ユリウスには意図的に距離を取っているように見えた。

 リリィが通信所の入口に立っている。

 首元まで閉じた軍服の上に通信機材を掛け、手元の端末を確認していた。


「敵の動きは?」


 ユリウスが尋ねる。


「変わりません」


 リリィは画面から目を離さない。


「夜間も通信量はほとんど増えていません。偵察機も大きな部隊移動は確認していません」

「本当に撤退したのか」

「そうならいいのですが」


 そこでリリィが顔を上げた。


「昨日より静かです」

「昨日より?」

「はい」


 彼女の声に不安が混じっているように聞こえた。


「完全にいなくなったというより、こちらから見えないようにしているような気がします」

「気がする?」

「数字に出ているわけではありません」


 リリィは少し不満そうに言った。


「だから報告書には書けません」

「でも気になる」

「気にはなります」


 ユリウスは北側の道路を見る。

 その先にはまだ夜の色が残っている。

 旧工業区の煙突が、遠くに黒い影となって並んでいた。

 煙は上がっていない。

 灯りもない。

 何も動いていない。

 確かに静かだった。


「そろそろ始まります」


 リリィが言った。


 〇五三〇。

 予定時刻ちょうどに前進命令が出た。

 先頭のオルドが動き出す。

 重い足音が舗装路を震わせ、その後ろを装甲車が続く。

 コンラート機も進む。

 エルザ機も続く。

 二機はやはり離れていた。

 だが、最初の交差点へ差しかかったところで、コンラート機の頭部センサーが右へ向く。

 ほぼ同時に、エルザ機が左側の建物群へ照準を向けた。

 昨日と同じだった。

 指示はない。

 相談もない。

 それでも、互いの死角を埋めている。

 ユリウスは無線へ耳を澄ませた。


『右側、異常なし』


 コンラート。


『左もなし』


 エルザ。


『前へ出る』

『分かってる』


 それだけ。

 余計な言葉はない。

 先行部隊はそのまま北へ進んでいった。

 やがて建物の影に隠れ、機体の姿が見えなくなる。

 後方支援班にも進出命令が出た。

 ユリウスは整備車両の荷台へ上がる。

 エンジンが始動した。


 車列が動き出す。

 朝日がようやく街の端から差し込み始めていた。

 崩れた建物。

 焼けた車両。

 昨日作られたばかりの防衛陣地。

 それらが後ろへ流れていく。

 誰もまだ知らなかった。

 今日の先に何が待っているのか。

 ただ、いつも通り前へ進んでいた。

 ユリウスもまた、工具箱を足元へ置き、揺れる荷台から北の空を見ていた。

 遠くに並ぶ工場の煙突は、朝になっても黒いままだった。

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