Episode 4 宿痕開裂 -Scars Torn Open- Part 1
〇四三〇。
目を覚ました時、外はまだ暗かった。
窓を塞いだ防水布の隙間から差し込む光もなく、仮設宿舎の中には低い寝息と装備品の擦れる音だけが残っている。
ユリウスは寝具の上でしばらく天井を見ていた。
眠れなかったわけではない。それでも、よく眠れたとは言い難かった。
夜中に何度か目を覚ました。
車両の音がした時。
遠くで砲声がした時。
そして、そのたびに昨日の言葉を思い出した。
──明日は、自分の仕事だけ考えろ。
コンラートが何を意図してそう言ったのか、結局分からないままだった。
忠告。
牽制。
あるいは、単に負傷した自分への注意。
どれも間違ってはいないように思える。
ユリウスは身体を起こした。
これ以上考えても答えは出ない。
軍靴を履き、紐を締める。
足にはまだ僅かな違和感が残っている。走れと言われれば走れる。ただ、走り続ければ痛むだろう。
前線へ出るつもりはなかった。
そもそも、出る理由もない。
自分は整備兵だ。
壊れた機体を直し、動けない機体を回収する。
今日もそれだけをすればいい。
そう思いながら立ち上がった。
外へ出ると、橋頭堡は既に動き始めていた。
空は東の端だけが僅かに白み、街路を照らす作業灯の方がまだ明るい。幹線道路には装甲車と補給車が並び、その脇を兵士たちが忙しなく行き来している。
昨日確保した区画を足場に、今日はさらに北へ進む。
目標は旧工業区。
工場や倉庫が集中し、市街地の外へ続く幹線道路と貨物線が交わる場所だった。
そこを押さえれば、後続部隊の進出はかなり楽になる。
逆に言えば、相手にとっても簡単には捨てたくない場所だった。
にもかかわらず、昨夜まで敵の動きはほとんど確認されていない。
「ハルトマン」
呼ばれて振り返る。
エミールが整備車両の脇に立っていた。
「起きてるなら手を動かせ。油圧ホースの予備が足りない」
「昨日補充したはずです」
「一本使った。あと二本積め」
「分かりました」
荷台へ上がる。
工具箱。
交換部品。
応急補修材。
昨日使ったものを確認し、不足分を補う。
単純な作業だった。
だが、こういう確認を怠れば、必要になった時に困る。
戦闘そのものに参加しなくても、戦場にいる以上、準備を怠った結果は誰かの生死へつながる。
ユリウスは一本ずつ部品を確認していった。
作業に集中している間は、余計なことを考えずに済んだ。
「それ、右じゃないか?」
声がした。
顔を上げる。
コンラートだった。
操縦服姿で、片手に水筒を持っている。
その背後には出撃準備を終えたオルドが並んでいた。
「何がです」
「ホース。そっちの箱は左脚用だろ」
ユリウスは手元を見る。
確かに違う。
「……見れば分かります」
「見て分かってないから言ってるんだ」
「今分かりました」
「素直じゃねえな」
「あなたに言われたくないです」
コンラートが鼻で笑った。
その様子は昨日までと変わらない。
ぶっきらぼうで、余計なところに口を出す。
ユリウスが初めて前線へ来た頃から、ずっとそうだった。
ただ、その理由だけが以前とは違って見え始めていた。
「今日は先行ですか」
「ああ」
「旧工業区まで?」
「予定じゃな」
「エルザも」
コンラートの表情がほんの僅かに止まった。
「……名簿見たなら知ってるだろ」
「確認です」
「なら確認できたな」
それ以上は答えなかった。
ユリウスも続けなかった。
昨日までなら、もう一つくらい聞いていたかもしれない。
だが今日はやめた。
コンラート自身が言った。
自分の仕事だけ考えろ。
それに従うつもりだった。
少なくとも今は。
「ハルトマン」
「はい」
「今日は前に出るなよ」
「昨日も言われました」
「なら覚えてるな」
「俺は整備です」
「お前はそれでも出てくるから言ってる」
否定できなかった。
コンラートは水筒の蓋を閉じた。
「何かあっても、後ろで待て」
「何かって?」
「戦場で何があるかなんて分かるか」
「それなら、あなたも気をつけてください」
言ってから、少し妙なことを言った気がした。
コンラートも同じように感じたのか、一瞬こちらを見る。
やがて小さく笑った。
「誰に言ってんだ」
「あなたです」
「分かってる」
踵を返す。
数歩進んだところで、その視線が別の方向へ向いた。
ユリウスもつられて見る。
エルザがいた。
自分の機体の前で整備兵と話している。
まだこちらには気づいていない。
コンラートは何も言わなかった。
すぐに視線を戻す。
だが、ほんの一瞬だけ見ていた。
それだけだった。
昨日から何度も目にした仕草。
気にしていないように振る舞いながら、所在だけは確かめる。
エルザの方も同じだった。
少しして顔を上げた彼女の目が、コンラートの背中を捉える。
けれど声はかけない。
互いに見ている。
互いに近づかない。
それが二人の間では、当たり前になっているらしかった。
ユリウスは視線を手元へ戻した。
今日は自分の仕事だけ考える。
そう決めたばかりだった。
〇
〇五一五。
先行部隊が道路上へ集まり始めた。
オルドが四機。
その後方に装甲歩兵。
さらに工兵隊が続く。
コンラートとエルザは同じ小隊に組み込まれていた。
もっとも、二機が隣り合って並ぶことはない。
間には別の機体が入り、互いに別方向を向いて警戒している。
部隊編成として不自然ではなかった。
それでも、ユリウスには意図的に距離を取っているように見えた。
リリィが通信所の入口に立っている。
首元まで閉じた軍服の上に通信機材を掛け、手元の端末を確認していた。
「敵の動きは?」
ユリウスが尋ねる。
「変わりません」
リリィは画面から目を離さない。
「夜間も通信量はほとんど増えていません。偵察機も大きな部隊移動は確認していません」
「本当に撤退したのか」
「そうならいいのですが」
そこでリリィが顔を上げた。
「昨日より静かです」
「昨日より?」
「はい」
彼女の声に不安が混じっているように聞こえた。
「完全にいなくなったというより、こちらから見えないようにしているような気がします」
「気がする?」
「数字に出ているわけではありません」
リリィは少し不満そうに言った。
「だから報告書には書けません」
「でも気になる」
「気にはなります」
ユリウスは北側の道路を見る。
その先にはまだ夜の色が残っている。
旧工業区の煙突が、遠くに黒い影となって並んでいた。
煙は上がっていない。
灯りもない。
何も動いていない。
確かに静かだった。
「そろそろ始まります」
リリィが言った。
〇五三〇。
予定時刻ちょうどに前進命令が出た。
先頭のオルドが動き出す。
重い足音が舗装路を震わせ、その後ろを装甲車が続く。
コンラート機も進む。
エルザ機も続く。
二機はやはり離れていた。
だが、最初の交差点へ差しかかったところで、コンラート機の頭部センサーが右へ向く。
ほぼ同時に、エルザ機が左側の建物群へ照準を向けた。
昨日と同じだった。
指示はない。
相談もない。
それでも、互いの死角を埋めている。
ユリウスは無線へ耳を澄ませた。
『右側、異常なし』
コンラート。
『左もなし』
エルザ。
『前へ出る』
『分かってる』
それだけ。
余計な言葉はない。
先行部隊はそのまま北へ進んでいった。
やがて建物の影に隠れ、機体の姿が見えなくなる。
後方支援班にも進出命令が出た。
ユリウスは整備車両の荷台へ上がる。
エンジンが始動した。
車列が動き出す。
朝日がようやく街の端から差し込み始めていた。
崩れた建物。
焼けた車両。
昨日作られたばかりの防衛陣地。
それらが後ろへ流れていく。
誰もまだ知らなかった。
今日の先に何が待っているのか。
ただ、いつも通り前へ進んでいた。
ユリウスもまた、工具箱を足元へ置き、揺れる荷台から北の空を見ていた。
遠くに並ぶ工場の煙突は、朝になっても黒いままだった。




