Episode 3 残火断層 -Residual Fire, Faultline Hearts- Part 2
借り受けた無線機は、見た目以上に重かった。
野戦用の簡易受信機。角の擦れた金属製の筐体に、折り畳まれた短いアンテナと、最低限の操作系だけが並んでいる。リリィが普段扱っている通信卓とは比べるまでもなく粗末なものだったが、前線で飛び交う短距離無線を拾うだけなら十分なのだという。
ユリウスはそれを片手に持ったまま、仮設通信所を出た。
背後で扉が閉まる。
最後まで浮かない顔をしていたリリィの姿が、妙に頭へ残っていた。
戦況を知るためなら構わない。部隊の安全に関わる情報なら、むしろ聞くべきだ。だが、人の事情を探るために使うものではない。
彼女が言っていたことは、何ひとつ間違っていない。
ユリウス自身、それくらいは分かっていた。
それでも二度目まで頼んだ。
最初に断られた時点で引いておけば、それで終わっていたはずだった。コンラートとエルザの仲が悪い。それ以上でも、それ以下でもない。戦場では気の合わない者同士が同じ部隊に放り込まれることなど珍しくないし、他人の過去へ一々首を突っ込んでいたら身が持たない。
普段の自分なら、そう考えただろう。
なのに今回は、それで済ませる気になれなかった。
外へ出ると、市街地には夜が落ち始めていた。
完全な暗闇にはまだ少し早い。西の空には鈍い赤が残り、その光を背負うように、破壊された建物の輪郭が黒く沈んでいる。数時間前まで戦闘のあった道路では、工兵隊と整備兵が忙しなく動き回り、瓦礫を退け、土嚢を積み、持ち込まれた鋼板で射撃陣地を補強していた。
昼まで敵の領域だった場所が、夕方には味方の橋頭堡へ変わる。
壁には新しい識別標識が貼られ、交差点には機関銃座が置かれ、窓を失った集合住宅の一階には通信線が引き込まれている。道路脇では損傷した装甲車が応急修理を受け、その向こうを補給車両が列を作って通り過ぎていった。
占領とは、旗を立てれば終わるものではない。
奪った土地を、次の戦闘に使える形へ作り替える。
軍隊はそうやって、戦線を少しずつ前へ押し出していく。
ユリウスは歩きながら、受信機の側面へ視線を落とした。
電源はまだ入れていない。
使うかどうか、決めかねているわけではなかった。使うつもりで借りたのだから、今さらそこを迷う意味はない。
問題は、どこまで聞くかだった。
コンラートとエルザが何を抱えているのか。それを知ったところで、自分に何ができるのか。
そこまで考えて、ユリウスは自嘲するように息を吐いた。
順序が逆だった。
何かできると分かっているから知ろうとしているわけではない。
気になったから、知ろうとしている。
それだけだ。
「……らしくないな」
小さく零した声は、近くを走った発電機の駆動音に呑まれた。
仮設宿舎として割り当てられた建物へ戻ると、内部には既に何人かの兵士がいた。
元は商店か事務所だったのだろう。割れた窓は防水布で塞がれ、商品棚らしきものは壁際へ寄せられている。床へ並べられた簡易寝具と軍用鞄だけが、そこを兵士の寝床に変えていた。
誰もユリウスを気に留めなかった。
一日の戦闘を終えた者たちは、自分の身体を休ませるだけで精一杯だった。靴も脱がずに眠っている者もいる。壁に背を預け、携行食を口へ運びながらぼんやりと一点を見つめている者もいた。
ユリウスは部屋の隅へ腰を下ろした。
受信機を膝の上へ置き、アンテナを伸ばす。
ほんの一瞬だけ指が止まり、それから電源を入れた。
小さな作動音のあと、耳元へ低い雑音が流れ込んでくる。
イヤホンを片耳だけに差し込み、周波数を合わせた。
『──第三警戒班、南側道路異常なし。交代まで十五分』
最初に拾ったのは警戒部隊だった。
ダイヤルをわずかに回す。
『こちら工兵二班。東側交差点の瓦礫撤去、予定より遅れている。重機をもう一台回せないか』
『無理だ。北側で道路を開けてる。そっちを優先する』
さらに回す。
『弾薬搬入車、識別コード確認。第二検問を通過させろ』
どれも、ごく普通の通信だった。
戦況。補給。警戒。人員配置。
誰がどこへ行き、何を運び、どこを守るのか。
昼間の戦闘とは違う、もう一つの戦争が耳の中で続いている。
ユリウスは黙って周波数を送っていった。
コンラートの所属小隊が使用している帯域は、リリィから聞いている。正確な個別周波数までは教えてくれなかった。そこだけは彼女なりに線を引いたらしい。
ならば自分で探すしかない。
受信機から流れる声が、次々と入れ替わる。
知らない兵士の声。聞き覚えのある通信兵の声。雑音。途切れた報告。また雑音。
やがて十五分ほど経った頃には、ユリウス自身、何をしているのか分からなくなり始めていた。
そもそも二人が無線を使うとは限らない。顔を合わせて話しているなら、こんなものを借りた意味すらない。
もう切ろうか。
そう考えて、ダイヤルへ伸ばした指が止まった。
『──四号機、聞こえるか』
低い男の声だった。
雑音が重なり、最初の一音は潰れている。
それでも、分かった。
コンラートだった。
ユリウスは身体をわずかに起こした。
『聞こえてる』
続いて返ってきた声にも、覚えがある。
エルザ。
二人とも通信上では落ち着いていた。昼間に見せた険悪さは感じられない。
『西側の監視はどうだ』
『異常なし。熱源反応もない。工兵がまだ道路を塞いでるくらい』
『了解した。あと三十分で交代が来る。それまで動くな』
『分かってる』
そこまで聞けば、ただの状況確認だった。
ユリウスはわずかに肩の力を抜いた。
リリィの言った通り、聞こえてくるものが戦況に関する通信であるうちは何の問題もない。むしろ今の自分にも、周辺の警戒状況を把握する意味はある。
無理に聞き続ける必要もない。
そう思ったところで、コンラートが続けた。
『……エルザ』
それまでとは声の調子が違った。
ほんの僅かだった。
階級も命令もない、ただ名前を呼んだだけの声。
だが、その違いだけでユリウスの指が止まった。
数秒、返事はなかった。
『何』
やがて返ってきた声は、先ほどまでより明らかに冷たかった。
『いや……』
『用がないなら切る』
『待て』
短い制止。
それきりコンラートは黙った。
受信機からは砂を擦るような雑音が流れている。回線は切れていない。エルザも通信を終えていないらしく、二人の間にはただ沈黙だけが残っていた。
『何なの』
先に口を開いたのはエルザだった。
『さっきから』
『……』
『言いたいことがあるなら言えば』
コンラートは答えなかった。
その沈黙に、昼間の二人の姿が重なる。
視線をぶつけるエルザと、それを避けるように何も返さなかったコンラート。
彼はいつもそうだった。
敵に対して怯む男ではない。多少の無茶なら笑ってやってのけるし、年下の兵士から何を言われても軽口の一つで返す。
それがエルザを前にした途端、ひどく鈍くなる。
『……別に』
ようやくコンラートが答えた。
『なら呼ばないで』
『悪かった』
『それも』
一拍、間が空いた。
『簡単に言わないで』
声は大きくなかった。怒鳴りもしない。
けれど、その一言だけは妙にはっきりと聞こえた。
コンラートは何も返さなかった。
ユリウスも動かなかった。
イヤホンの向こうで風の音らしきものが混じる。通信機のマイクを抜けてきた前線の夜風。同じ風が、いま自分のいる建物の隙間からも入り込んでいるはずだった。
『……もういい』
エルザが言った。
『交代まで監視を続ける。それだけでしょ』
『ああ』
『だったら、それ以外の話はしないで』
『分かった』
短い返答のあと、通信は切れた。
耳元へ残ったのは、元の砂嵐だけだった。
ユリウスはすぐには次の周波数へ移らなかった。
何か重大なことを聞いたわけではない。
誰かの名前が出たわけでもなければ、過去の出来事が語られたわけでもない。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
二人の間にあるものは、今日や昨日に生まれたものではない。
エルザはコンラートに腹を立てているのではない。もっと以前から、彼に何かを向け続けている。
そしてコンラートは、それを拒もうとしていない。
ユリウスはイヤホンを外した。
室内には、疲れ果てた兵士たちの寝息と、外で動く車両の音が戻ってくる。
受信機の電源を落とそうとして、指が止まった。
今の会話だけなら、何も分からない。むしろ聞く前より疑問が増えただけだった。
それなら。
そこで思考を切った。
これ以上は、本当にリリィの言った通りになる。
戦況ではない。任務でもない。
ただ、知りたいだけだ。
ユリウスはしばらく表示窓を見つめ、それから電源を落とした。
薄い駆動音が途絶える。
静けさが戻る。
だが、耳にはまだエルザの声が残っていた。
──簡単に言わないで。
何を。
謝罪を、なのか。
それとも別の何かを。
ユリウスには分からない。
分からないからこそ、引っかかった。
答えの出ないものを抱えたまま、彼は壁へ背を預ける。
戦場では、分からないものを放置することは危険だった。敵の位置。地形。機体の異常。補給の遅れ。原因の分からないものほど、後になって致命的な形で返ってくる。
だが、人間まで同じように考えていいのかは分からない。
コンラートも、エルザも、壊れた機械ではない。
それでも、何かが噛み合っていない。
そして、その噛み合わないままの二人が、明日も同じ戦場へ出る。
ユリウスは目を閉じた。
明日の前進開始は〇六三〇。
眠れる時間は、もうそれほど残っていなかった。




