Episode 3 残火断層 -Residual Fire, Faultline Hearts- Part 1
橋頭保の夜は、眠ることを前提に作られていなかった。
仮設照明の白い光が、半壊した建物の壁面へ不自然な明るさを貼りつけている。発電機の低い唸り、どこかで鳴る金属音、遠くで断続的に響く発砲。静かではない。けれど昼間のような混沌とも違う。人が生き延びるために必要な音だけが選別され、夜の中へ薄く広がっているような気配だった。
ユリウスは補修区画を抜け、橋頭保中央寄りに設けられた仮設管制室へ向かっていた。
元は商業施設だったらしい建物の一階部分を、半ば無理やり戦術拠点へ仕立て直した区画だった。割れたガラスは鉄板と防弾幕で塞がれ、吹き抜けだった空間には仮設の隔壁が何枚も立てられている。内部へ入った瞬間、外の冷えた夜気とは別種の熱が頬に触れた。端末の排熱、照明、詰め込まれた人間たちの体温。前線へ持ち込まれた情報の巣は、瓦礫の街の中でもっとも忙しなく脈打っていた。
リリィはその奥にいた。
仮設机の列のひとつに、小さな身体を沈めるように座っている。端末を二面、通信板を一面、補助紙を数枚。白灰の軍属服はきちんと整っているのに、目の下だけがわずかに暗い。胸元まで流れるくすんだ赤髪が、端末の冷たい光を受けるたび、面の一部だけ深紅に沈んだ。
十歳の少女がいる場所には見えない。
だが、今この橋頭保で彼女が最も似合う場所もまた、ここなのだろうとユリウスは思った。
「……生きてたか」
声をかけると、リリィは画面から目を離さないまま答えた。
「その挨拶、前にも聞きました」
「便利だからな」
「便利という理由で使い回すのはどうかと思いますけど、少なくともあなたがいつも通りなのは分かります」
ようやく彼女が顔を上げる。
視線は静かだった。
ただ、静かであるぶん、こちらの顔色までよく見えているのだと分かる目だった。
「何か用ですか」
「少し」
「“少し”で済む顔には見えませんけど」
ユリウスは数歩近づき、机の脇で立ち止まった。
周囲では通信士たちが絶えず回線を繋ぎ替え、戦況板へ新しい報告を打ち込んでいる。誰かの名前、区画番号、補給列の進度、散発接敵。個人の感情が入り込む余地のない言葉ばかりが、この場の空気を動かしていた。
その中で、自分の言おうとしていることだけが、妙に私的で、場違いに思えた。
だからといって、引き返す気にもなれなかった。
「無線機、借りたい」
「嫌な予感しかしませんね」
即答だった。
リリィは溜息こそつかなかったが、目元の温度だけが一段下がった。
「用途を聞いても?」
「第一小隊の回線」
「戦況確認なら、こっちで把握しています」
「戦況だけじゃない」
そこまで言ったところで、ユリウスは一度口を閉じた。
自分でも分かっている。
言い方を間違えれば、これはただの覗き見だ。
戦術上の必要という顔をしていても、結局は個人の事情へ首を突っ込むための行為に近い。
リリィは黙って待っていた。
言い逃れの余地を与えない沈黙だった。
「……エルザとコンラートが気になる」
ユリウスは言った。
「今日の戦闘でも、かなり危うかったらしい。明日以降も同じだとしたら、戦況に関わる」
「“戦況に関わる”ですか」
リリィがその言葉を小さく繰り返す。
「便利な言い方ですね」
「事実だ」
「事実であることと、それをあなたがどのくらい私情抜きで言えているかは、別問題です」
正面から刺された気がした。
ユリウスは反論しなかった。
できなかった、と言った方が近い。
リリィは端末を一枚閉じ、椅子に浅く座り直した。
「前にも似たようなことを言っていましたよね」
「……ああ」
「その時も、戦況確認の名目で個人の会話に耳を寄せようとしていた」
「今回はもっと切実だ」
「そういうところが、なおさら良くないんです」
声音は平坦だった。
けれどその平坦さの中に、彼女なりの不快がきちんと含まれていた。
「戦闘状況を把握するための傍受なら、まだ分かります。指揮系統の確認も、火線の偏りも、補給遅延も、命に直結しますから。でも、個人の事情に踏み込むための傍受は、別です」
「踏み込むつもりはない」
「じゃあ、何なんですか」
「……確認だ」
「便利な言葉ばかり使いますね、あなた」
ユリウスは机の上の地図へ目を落とした。
橋頭保の区画図。
今夜確保した通り。
まだ不安定な地下反応の記号。
そのどれもが、今この場で見るべきものとして正しい。なのに頭の奥に引っかかっているのは、第一小隊の中にある目に見えない歪みだった。
「このままだと事故になる気がする」
ユリウスは低く言った。
「ただ仲が悪いとか、そういう話じゃない。戦場で噛み合わなくなったら、周りごと持っていかれる」
「それは分かります」
リリィはあっさり頷いた。
「私も、あの二人の空気がただの不和ではないことくらいは見ています」
「なら」
「でも」
そこで彼女は言葉を切る。
「だからといって、あなたが傍受したところで何が分かるんですか」
「何か分かるかもしれない」
「それは希望ですね」
「そうかもな」
「そして、希望は盗み聞きの免罪符にはなりません」
痛いほど正論だった。
ユリウスは口を開きかけ、閉じる。
それでも引き下がる気になれない自分が、少し嫌だった。
「嫌なら断ってくれていい」
「嫌ですよ」
これも即答だった。
「かなり嫌です。というか、最初から気は進みません」
「……だろうな」
「当然です。人の会話って、戦況図よりずっと繊細ですから。軽々しく横から覗くものじゃない」
そう言いながらも、リリィはユリウスから完全に視線を外さなかった。
その目は、彼を責めているというより、測っていた。
どこまで本気で、どこまで自覚的で、どこまで危ういかを。
「それでも借りたいんですか」
「借りたい」
「後悔するかもしれませんよ」
「それでもだ」
数秒、沈黙が落ちた。
仮設管制室のざわめきが、その数秒だけ妙に遠く感じられる。誰かが回線を切り替え、別の誰かが区画名を復唱し、外では偵察機の低いエンジン音が壁越しに震えている。その全部の真ん中で、リリィだけが時間を止めたような顔をしていた。
やがて彼女は、小さく息を吐く。
「……本当に、あなたは」
「悪い」
「謝れば済む話でもないですけど」
言いながら、机の脇の小型収納箱を開けた。中から取り出されたのは、軍用の簡易受信機だった。掌に収まる程度のサイズだが、無骨な外装と周波数ダイヤルの傷が、ここが前線なのだと教えてくる。
リリィはそれをすぐには渡さない。
「条件があります」
「何だ」
「主回線には繋がないこと。あくまで補助受信だけ」
「分かった」
「記録は残さないこと」
「分かった」
「それと」
彼女の指先が、受信機を持ったまま止まる。
「これは戦況確認のために借りる。そういう建前で通します」
「……ああ」
「その建前を、あなた自身が裏切らないでください」
ユリウスはすぐには頷けなかった。
裏切らない、と言い切るには、自分の動機があまりにも曖昧だったからだ。
戦況確認。
それは嘘ではない。
だが全部でもない。
結局、彼は小さく頷くしかなかった。
リリィはそれを見て、ようやく受信機を差し出した。
「返却は夜明け前まで」
「そんなに長く借りない」
「でしょうね。長く聞いていられるほど、あなたも鈍感じゃないでしょうから」
受け取った無線機は、思っていたより冷たかった。
ただの金属の冷たさだ。
それなのに、まるでこれから触れるものの温度まで先回りして伝えてくるようだった。
「……ありがとう」
「お礼を言われる筋合いでもないです」
リリィはすぐに画面へ目を戻した。
「むしろ、これが二回目だということを少しは恥じてほしいくらいです」
「善処する」
「便利な言葉ですね」
「努力はする」
「信用しにくいです」
淡々としたやり取りだった。
けれど、そこにこれ以上の拒絶がないことだけは分かった。
ユリウスは無線機をポケットへ収める。
「リリィ」
「何ですか」
「……お前は、あの二人のことどう見てる」
その問いに、リリィの指が一瞬だけ止まった。
だが彼女はすぐに入力を再開し、画面を見たまま答える。
「見たままです」
「それじゃ分からない」
「分からないものを、無理に言葉にする趣味はありません」
それから、ほんのわずかにだけ声音が柔らかくなる。
「でも、ひとつだけ言うなら――あなたが気にしているのは、多分正しいです」
「……そうか」
「ええ。正しいからこそ、扱いを間違えると余計に壊れます」
ユリウスはそれ以上何も聞かなかった。
聞いても、たぶん同じだ。
結局は自分で見て、自分で受け止めるしかない。
「行くの?」
「ああ」
「なら、せめて戦況の方も見てきてください。個人の事情ばかり追って、肝心の前線配置を見失われたら困ります」
「分かってる」
「本当に?」
「……多分」
「先が思いやられますね」
最後の一言だけ、少しだけ呆れたように聞こえた。
ユリウスは短く息を吐いて、仮設管制室を出る。外気は冷えきっていて、室内の熱をまとった頬から一気に温度を奪っていった。橋頭保の夜はまだ終わらない。仮設灯の白、偵察機の低音、遠い散発火器音。そのすべての中で、ポケットに収めた受信機だけがやけに重く感じられた。
借りてしまった。
もう引き返せない。
それが正しいかどうかは分からない。
けれど少なくとも今のユリウスには、何も知らないまま朝を迎える方が、よほど耐えがたかった。




