Episode 2 戦塵相剋 -Conflict Amid War Dust- Part 9
報告を終えても、夜は少しも静かにならなかった。
橋頭保の外縁では断続的に発砲音が響き、仮設照明の白い光が瓦礫と煙をまだらに照らしている。上空では長距離偵察機のエンジン音が低く尾を引き、遠くでは工兵隊が何か重いものを動かすたび、崩れた街そのものが軋むような音を立てた。
戦闘は終わっていない。
ただ、昼より少しだけ息を潜めているだけだ。
コンラートは仮設幕舎の裏手、照明の届ききらない壁際で足を止めた。
誰もいない。
正確には、誰もこちらを気にしていない。
それでよかった。
軍服の襟元をわずかに緩め、ようやく息を吐く。肺の奥に溜まっていた熱が、夜気に触れて少しだけ冷える。だが、頭の中はまるで冷えなかった。
目を閉じれば、昼の戦場より先にあの顔が浮かぶ。
横顔。
目元。
歯を食いしばった時の頬の線。
振り向きざまに灯る、あの強情な目。
空似だ、と最初は思った。
それだけのはずだった。
戦場では、死んだ人間に似た顔くらい珍しくもない。長く生き残っていれば、嫌でもそういう錯覚は増える。若い兵士の顔に昔の誰かを見ることも、一度や二度ではなかった。
だから今回も、そのはずだった。
なのに、違った。
似ている、で済ませるにはあまりにも近すぎた。
顔立ちそのものではない。全部が同じわけでもない。けれど、ふとした角度で、ほんの一瞬だけ、時間の奥から引き剥がしてきたみたいに重なる。
それがたまらなく悪かった。
「……やめろ」
声に出していた。
誰へ向けた言葉か、自分でも分かっている。
あの少女ではない。
自分自身だ。
重ねるな。
見るな。
思い出すな。
そう言い聞かせても、戦場では人間の頭は都合よくできていない。むしろ逆だった。死に近い場所ほど、過去は妙に鮮明になる。忘れたはずの声、指先の温度、もう二度と見られないと思っていた表情が、砲煙の隙間から勝手に戻ってくる。
今日もそうだった。
二番機が半拍遅れた時。
敵火線が交差点を薙いだ時。
あの機体が射線の端で揺れた時。
心臓が、ひどく古い傷の痛み方をした。
あれは部下が死にかけたからじゃない。
いや、それだけじゃない。
死なせたくなかった。
それは事実だ。小隊長として当然の反応だ。だが、そこに別の感情が混じった瞬間、自分で自分がひどく嫌になった。
守るな。
特別扱いするな。
あれはあいつじゃない。
分かっている。
分かっているから余計に厄介だった。
あの少女は、あの少女だ。
口の利き方は最悪だし、命令を聞く顔をしながら、心の中では一歩も退いていない。こちらを見る目には露骨な反発がある。たぶん嫌われている。理由もなく、というほど子供でもない。何かある。こちらに向けた棘が、ただの先輩嫌いで済む種類ではないことくらい分かる。
だが、だからといって。
だからといって、そこへ昔の名前を重ねていい理由にはならない。
コンラートは壁へ背を預け、夜空を仰いだ。
空は低い。
砲煙と薄雲が混ざり、星も見えない。偵察機の航跡灯だけが、時折その暗がりの奥で小さく滲んだ。
昔のことを、もう十分すぎるほど引きずってきた。
救えなかったことも。
置いて帰ってきたことも。
その時の自分の顔も、相手の最後の声も、全部。
忘れたことはない。
忘れる気もなかった。
だがそれは、自分の中で背負うためのものであって、今いる誰かに勝手に配り直していいものじゃない。
「……分かってる」
独りでに漏れる。
分かっている。
分かっているとも。
あの少女は代わりじゃない。
埋め合わせでもない。
まして、やり直しの機会でもない。
そんなふうに考えた時点で、もう終わっている。
明日も戦う。
明後日も、おそらく。
橋頭保を広げる限り、小隊は前へ出る。そのたびに自分は指示を出し、切るべき場所を切り、守るべき順番を決めなければならない。そこに私情が混じれば、人は死ぬ。昔もそうだったし、今も変わらない。
なら、答えはひとつしかない。
小隊長として扱う。
それ以上でも、それ以下でもなく。
命令を出し、叩き込み、遅れれば怒鳴る。
危なければ切り捨てずに引っ張る。
ただそれだけだ。
それだけのはずなのに。
コンラートはゆっくりと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、今日の戦場で噴水基部の陰へ機体を滑り込ませた瞬間の動きだった。あれは悪くなかった。指示に逆らったことは気に食わない。だが判断そのものは間違っていない。あの一瞬にあった意地と、生き残ろうとする執念だけは、本物だった。
だから余計に、始末が悪い。
似ているだけの幻なら、もっと簡単だった。
だが実際のあの少女は、自分の知らない別の強さを持っている。見れば見るほど、昔の誰かに重ねること自体が侮辱だと分かる。
それでも、重なる。
勝手に、どうしようもなく。
コンラートは顔を覆うこともしなかった。そんな仕草をしたところで、何かが軽くなる年齢でもない。
「……くだらねえな」
吐き捨てるように呟く。
誰よりも自分が分かっている。
これは未練ではない。
恋情でもない。
もっと手触りの悪い、古傷の反射だ。
死者に置いていかれた人間が、たまたま似た顔を前にして、一瞬だけ足を止めている。それだけの話だ。
それだけの話で済ませなければならない。
やがて、遠くで短い警報が鳴った。
局地警戒の更新だろう。橋頭保はまだ完全に眠らない。こちらが立ち止まっているあいだにも、戦争は律儀に次の一手を運んでくる。
コンラートは壁から背を離した。
脚は動く。
頭もまだ働く。
なら十分だ。
明日も前へ出る。
小隊を連れて。
あの少女も、その中にいる。
だからもう、迷う余地はない。
あれは部下だ。
ただの部下だ。
そうでなければならない。
そうでなければ、今度こそ本当に取り返しがつかなくなる。
コンラートは軍服の襟を正し、何事もなかったような顔で光の方へ歩き出した。
夜はまだ終わらない。
そして彼の葛藤もまた、少しも終わってはいなかった。




