Episode 2 戦塵相剋 -Conflict Amid War Dust- Part 8
補助系統の点検を一通り終え、交換の必要な部品番号を端末へ打ち込んだところで、ようやく彼は一度だけ腰を上げた。背中を伸ばすと、骨の節々が遅れて痛みを思い出す。脚の古傷も、こういう時だけ律儀に存在を主張してきた。立ったまま短く息を吐き、次の区画へ向かおうとして――ふと足を止める。
少し離れた仮設照明の外縁。
瓦礫の影と影のあいだに、見覚えのある背中が立っていた。
コンラート・ヴェルナーだった。
第一陣で市街へ突入した機体乗りの多くが、今は応急処置か報告か、あるいは次の出撃準備に追われている。その中で彼だけが、ほんのわずかに本流から外れた場所へ立っているのが、妙に目についた。
軍服の肩口は煤で薄く汚れ、片袖には乾いた埃がこびりついている。大きな損傷はなさそうだったが、戦場から戻った人間特有の、まだ身体のどこかが前線に残っているような硬さが抜けていない。照明の下に半分だけ出た横顔は、いつも以上に彫りが深く見えた。
何をしている、というほど不自然ではない。
ただ、誰とも話していない。
それが今の橋頭保では逆に不自然だった。
コンラートは視線を遠くへ向けていた。
崩れた通りの先、仮設幕の向こう、あるいはそのさらに奥。ユリウスの位置からでは、彼が何を見ているのかは分からない。だが、見ているというより、何かから目を離せずにいるような立ち方だった。
ユリウスはしばらく迷った。
声をかける理由はある。
今日の戦闘のことを聞くこともできる。
損傷機の状態確認という名目でもいい。
だが、それら全部が取ってつけた言い訳に思えた。
結局、何も言わずに通り過ぎることもできた。
その方が自然だったかもしれない。
それでも、さっきから胸のどこかに引っかかっている感覚があった。橋頭保に入ってから見てきたもの――補給線、偵察機、損傷機、仮設灯、そしてこの街のまだ死にきっていない気配。その全部の中で、コンラートの一人きりの背中だけが、妙に生っぽく見えたのだ。
「……無事だったんですね」
気づけば、そう声をかけていた。
コンラートはすぐには振り向かなかった。
数秒遅れて、面倒そうに肩だけ動く。
「見りゃ分かるだろ」
「まあ」
「なら確認するな」
いつもの調子だった。
ぶっきらぼうで、会話を膨らませる気がまるでない。
それでも、ユリウスは少しだけ安心した。
少なくとも、声の張りは失っていない。
「第一小隊、かなり奥まで入ったって聞きました」
「聞いたままの通りだ」
「損耗は」
「ゼロじゃねえ」
「……そうですか」
短い返答のたび、橋頭保の夜が少しずつ重くなる。
遠くで何かが落ちる鈍い音がした。
工兵が瓦礫を退かしているのか、まだ崩れきっていない壁が自重に負けたのか。いずれにせよ、この街ではもう、ただの物音にも理由が多すぎる。
ユリウスはコンラートの隣まで行くことはせず、少し距離を置いたまま立った。
「広場方面、まだ散発的にやり合ってるみたいですね」
「死に損ないが残ってる」
コンラートはそこで初めて、わずかに視線を動かした。
「橋頭保なんて言い方をしてても、中身はただの前線だ」
「分かってます」
「分かってる顔じゃねえな」
そう言われて、ユリウスは口を閉じた。
たぶん、分かっているつもりでしかいないのだろう。
整備班として後から入った自分と、第一陣で砲煙の中をこじ開けた彼らとでは、見てきたものの温度が違う。
コンラートはそれ以上責めるようなことは言わなかった。
代わりに、ごく浅く息を吐く。
「……お前は後から入ったんだったな」
「ええ。護衛付きの後詰で」
「偵察機は見たか」
「さっき上を飛んでました」
「随分と神経質な飛ばし方してやがる」
その言い方に、少しだけ疲れが混じっていた。
「前回みたいなのは、もう御免だってことなんでしょう」
「御免で済めば苦労しねえ」
コンラートは壁の残骸へ背を預けるでもなく、ただそこへ立っていた。
気を抜いているようで、少しも抜いていない立ち方だ。もし今、どこかで警報が鳴れば、この人は次の瞬間には前を向けるのだろうと分かる。
ユリウスは、少しだけ言い淀んでから口を開く。
「……あの子は」
コンラートの眉が、ごくわずかに動いた。
「エルザです」
「分かってる」
「無事でしたか」
今度は、返答までに一拍あった。
「死んじゃいねえ」
「それは」
「無事って意味じゃねえ、って顔だな」
言い当てられて、ユリウスは否定しなかった。
コンラートはようやく、ほんの少しだけ視線を落とした。瓦礫の隙間にたまった黒い水溜まりでも見るような目だった。
「肩をやられた。浅い。機体も本人も、今日のうちはまだ立つ」
「……そうですか」
「運は悪くねえ」
言葉は淡泊だ。
だが、その淡泊さの奥に何かが噛んでいるのを、ユリウスは聞き取ってしまう。
今日の戦闘で、コンラートとエルザがどう動いたのか、細部まではまだ知らない。だが、無傷で済んでいないことだけは分かった。しかもその報告のされ方に、単なる部下の損耗以上の引っかかりがある。
「明日も第一波ですか」
「その予定だ」
コンラートの声は変わらない。
「広場を押さえた程度で終わりじゃねえ。橋頭保なんざ、作った瞬間から食い破られる前提で見とけ」
「……ええ」
「お前ら整備班も、眠れると思うなよ」
「最初から期待してません」
コンラートはそこで、わずかに口元を動かした。
笑ったのか、ただ鼻で息を抜いただけなのか、判然としない程度の変化だった。
「そういう顔は、少しマシだ」
「どういう顔ですか」
「仕事のことだけ考えてる顔だ」
ユリウスは返事に困る。
それは褒められているのかもしれない。
あるいは、そういうふうにしか立っていられない人間だと見抜かれているのかもしれない。
どちらにせよ、あまり気分のいいものではなかった。
その時、仮設区画の向こうから誰かの呼ぶ声が飛ぶ。
「曹長! 第一小隊の報告、まだです!」
コンラートはそちらへ顔を向けた。
現実が呼び戻すには十分な声だった。
「行けってことらしい」
「……そうですね」
ユリウスがそう返すと、コンラートは今度こそ彼の方を見た。
鋭いが、疲れている目だった。
戦場から戻ってきたばかりの人間の目。
それでも、その奥にまだ何か別の影が沈んでいるように見えたのは、ユリウスの気のせいではないだろうと思った。
「お前も寝られる時に寝とけ」
「無理なら」
「無理でも横になれ。整備兵が先に潰れたら話にならねえ」
そう言って、コンラートは踵を返す。
去っていく背中は大きくはない。
だが、瓦礫と仮設灯と煙の中を歩いていくその背中には、今日一日ぶんの戦場がまだ乗ったままだった。
ユリウスはしばらく、その後ろ姿を見送る。
橋頭保の夜は忙しく、遠くではまだ発砲音が途切れない。
偵察機の低いエンジン音も、上空で長く円を描いている。
それでも今、ユリウスの目には、ひとつだけはっきりしていることがあった。
コンラートは疲れていた。
それだけではない。
疲労とは別の何かを抱えたまま、また明日の前線へ戻っていくのだ。
そして、その何かの中心にエルザがいることも、もう疑いようがなかった。
ユリウスは端末を持ち直す。
考えるべきことは山ほどある。
損傷機の修復、部品の再配分、補給列の整理、夜明けまでに終えなければならない点検。今はそちらへ戻るべきだと分かっている。
それでも、去っていくコンラートの背中が、しばらく目から離れなかった。




