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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 2 戦塵相剋 -Conflict Amid War Dust- Part 7

 橋頭保に到着したとき、ユリウスは最初、自分が街の中にいるのか、それとも巨大な瓦礫の墓場に踏み込んだのか判別できなかった。


 日が落ちきる寸前の空は、砲煙と粉塵に濁って鈍い鉄色をしている。夕焼けと呼ぶには赤みが足りず、夜と呼ぶにはまだ明るい、その半端な光が崩れた街区の輪郭を曖昧に浮かび上がらせていた。砲撃で抉られた道路はひび割れの走る黒い川床のように沈み込み、両脇の建物は、壁を半ば失ったまま空に向かって骨だけを晒している。割れた窓枠、崩落しかけた階段、火の気を失ってなお焦げ臭さだけを残す残骸。そのどれもが、つい数時間前までここに街としての形があったことを、かえって残酷に示していた。


 オルド部隊が切り開いた主街路の一角には、すでに仮設の照明柱と誘導灯が並べられ始めていた。工兵隊が瓦礫を押しのけ、歩兵が建物の隅々まで索敵を続け、先行した整備要員が損傷機の退避区画を急ごしらえで線引きしていく。橋頭保を確保したと司令部が判断した以上、ここはもう単なる戦闘区域ではない。守る場所であり、押し広げるための基点であり、今この瞬間から“後方”の役割まで背負わされる場所になったのだ。


 だからこそ、慌ただしかった。


 フォート・グラーデンから押し出されてきた後詰の整備・補給部隊は、護衛部隊を伴って段階的に市街外縁へ進入していた。輸送車両の低い駆動音が崩れた通りのあちこちで反響し、荷台から降ろされた弾薬箱や予備部品が手際よく積み替えられていく。補給ホースが伸ばされ、簡易発電機が起動し、負傷兵搬送用の区画と、軽損傷機の応急整備区画が仮設幕で分けられていく。人間が街を占領するとは、結局こういうことなのだとユリウスは思った。ただ敵を押し返すだけでは足りない。そこへ居座るための仕組みを、血と油の匂いが消えぬうちに押し込まなければならない。


 彼自身も、その押し込まれる歯車のひとつだった。


「そっち運べ! 地面に直置きするな、湿気で死ぬぞ!」


 エミールの怒鳴り声が、どこか近くで飛ぶ。


 ユリウスは肩に担いでいた機材箱を一度地面へ下ろし、額の汗を手の甲で拭った。橋頭保へ進出してから、まだそう時間は経っていない。なのに身体の芯には、もう一日ぶん働いた後のような重さが溜まっている。前線まで約二百五十キロ。移動そのものだけで神経を削られ、到着すれば休む間もなく区画設営と応急整備へ駆り立てられる。誰もが疲れていたが、その疲労を口にする暇はなかった。


 上空で、重く、長いエンジン音がした。


 ユリウスは思わず顔を上げる。


 崩れたビルの谷間から見える空を、細く鋭い機影が横切っていく。通常の輸送機とも攻撃機とも違う、どこか神経質な輪郭を持った長距離偵察機だった。翼下の追加ポッドと腹部下面に増設されたセンサーブロックが、照明の少ない夕空の中で鈍く光っている。


 前回の失敗を踏まえて投入された、新型の高精度レーダー搭載機。


 フォート・グラーデンとこの橋頭保のあいだを繰り返し往復し、地上だけでなく地中の不自然な空洞や移動反応まで拾い上げていると説明を受けていた。敵の奇襲は、もはや地平線の向こうからだけ来るわけではない。地面の下を潜るもの、崩れた建物の基部に貼りつくもの、瓦礫の山そのものに擬態するもの。そうした“見えない近さ”を監視し続けるために、あの機体は今夜、何度もこの空を切り返すのだろう。


 その音は、不思議な安心と不安を同時に連れてきた。


 頭上に味方の監視があるという事実は、確かに心強い。

 だが同時に、それほどまでして警戒しなければならないのだという現実もまた、耳の奥で重く響き続ける。


 ユリウスは視線を下ろした。


 目の前には、応急処置を終えたばかりのオルドが一機、片膝をつくようにして駐機している。左脚外装は焼け、肩部の補助装甲も一部剥がれ落ちているが、致命傷ではない。整備班が徹夜で繋げば、明日また前へ出せるかもしれない。そういう種類の損傷だった。


 だが、その“かもしれない”を現実に変えるには、部品も人手も時間も要る。


 今夜の橋頭保は、その足りないものを一つずつ騙し騙し埋め合わせるための場所でもあった。


「ユリウス、そっちはどうだ」


 振り向くと、リカルドが片手に端末を持ったまま歩いてきていた。軍服の袖口は煤で黒ずみ、口元には疲労の影が落ちている。それでも歩き方だけは乱れないあたりが、この男らしかった。


「脚部補助系は生きてます。駆動骨格に歪みはない。ただ肩の外装と同期補助の一部が怪しい」

「交換できるか」

「部品が届けば」

「届かせる」


 短いやり取りだった。


 それだけ言って、リカルドはまた別の区画へ向かう。今夜の彼は副班長というより、橋頭保そのものの隙間を埋めて回る人間のように見えた。


 ユリウスは端末を開き、損傷箇所を再確認する。


 だが、数字を追っているはずなのに、意識のどこかは別の場所へ引かれていた。


 第一陣で突入した戦闘部隊のこと。

 その中にいるクラリスのこと。


 橋頭保は確保された。

 司令部はそう判断した。

 だから整備・補給部隊は前進を許可された。


 その事実が、彼女がまだ生きている証明になるわけではない。

 そんなことは分かっている。


 それでも、ここまで押し上がれたということは、少なくとも前線は完全には崩れていないのだと、そう思いたかった。砲撃で作られた穴を、オルド部隊がこじ開け、そのあとへ歩兵と補給が流れ込める程度には、今夜の戦場はこちら側へ傾いているのだと。


 そう考えなければ、呼吸の置き場がなかった。


 崩れた街角の向こうから、短い発砲音が聞こえる。

 すぐに味方の制止が飛び、また沈黙が戻る。


 戦闘は終わっていない。

 初日の大勢が決しただけで、街そのものはまだ完全には死んでいないのだ。


 ユリウスはふと、足元のアスファルトへ視線を落とした。


 砲撃でめくれた舗装の隙間に、赤黒い染みがこびりついている。泥か血か、もう見分けはつかない。瓦礫の粉と油が混ざり合い、そこへ誰かの足跡が何重にも重なって、色も形も曖昧になっていた。


 橋頭保。

 そう呼べば聞こえはいい。


 だが実際には、それは人と機械と血と補給品を押し込めるために、無理やり“使える場所”へ変えられつつある戦場の一角にすぎない。街の一部を奪ったのではなく、街の死骸の中にようやく立てる場所を作っただけだ。


 その冷たい実感が、逆にユリウスの頭を冴えさせた。


 ここで感傷に沈んでも仕方がない。

 明日にはもっと前へ出る機体があり、今夜中に繋がなければならない配線があり、補給の遅れひとつで誰かの生死が変わる。


 そういう場所だ。

 そういう立ち位置だ。


 だから彼は、再び手を動かす。


 工具を取り、外装留め具を外し、損傷した補助系統の点検へ移る。指先はまだ震えていない。頭も回る。なら働ける。働けるうちは、そのことだけで十分だった。


 上空では、長距離偵察機が再び旋回していく。


 地上を睨み、瓦礫の下を透かし、フォート・グラーデンとこの橋頭保のあいだに潜む見えない脅威を探し続ける鉄の鳥。その低いエンジン音が、崩れた街の上を長く引きずっていく。


 まるで、この橋頭保そのものが眠ることを許されていないかのようだった。


 そして実際、眠ることは許されていないのだろうとユリウスは思う。


 初日の戦闘は終わった。

 だが作戦は始まったばかりだ。


 今夜、ここで築かれる橋頭保は、明日さらに前へ進むための足場になる。

 その足場を繋ぐのが自分たちである以上、立ち止まっている余裕などどこにもない。


 ユリウスは焼けた装甲へ手をかける。


 金属はまだ、ほんのりと熱を残していた。

 それは今日の戦闘の名残であり、明日の戦いの前触れでもあった。


 街は壊れていた。

 空は濁っていた。

 それでも橋頭保の灯だけが、瓦礫の中で不格好に、しかし確かに生きていた。


 その灯を消さないために、今夜もまた誰かが働き続ける。

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