Episode 2 戦塵相剋 -Conflict Amid War Dust- Part 6
前線到達時には、夜明けはすでに終わっていた。
だが朝は来ていない、と誰もが思った。
空は白んでいる。光もある。雲の輪郭さえ見えている。にもかかわらず、市街地一帯を覆うのは朝の清澄ではなく、砲煙と粉塵が混ざり合った薄灰の膜だった。砲兵部隊が叩き開いた進入路は、地図の上では整然とした線として示されていたはずなのに、現実の街はもっと乱雑で、もっと執拗に人の侵入を拒んでいた。崩れた高架、斜めに傾いたビル壁、火を噴き続ける燃料車両の残骸。道路は道路の形をしているだけで、すでに街路としての秩序を失っている。
その上空を、なおも輸送ヘリの編隊が通過していく。
低空。高速。無数。
灰の空を擦るようにして飛ぶ機影は、まるで巨大な鳥の群れだった。ヘルダイバーズを含む四個師団規模のヘリボーン部隊が、主力オルド部隊の後方から順次投下位置へ向かっている。回転翼の唸りは市街の残響と混ざり、爆ぜる火と崩れる瓦礫の音を一段上から押さえつけていた。
その地上を、オルド部隊が進む。
総数五百機弱。レイヴンズ・コールを含むそれらの機影は、砲撃で切り裂かれた市街外縁へ楔のように食い込み、主街路と交差点を踏み潰しながら前へ出ていた。鋼の脚が瓦礫を噛み砕き、崩れた舗装を踏みしめるたび、地面そのものが鈍く揺れる。時折、まだ息のある敵火点が建物の陰から反撃を吐くが、それはもう線ではなく点だった。点を潰し、点を踏み越え、鋼の列は止まらない。
第一中隊左翼。交差点第三区画。
コンラート・ヴェルナーの機体は、半壊した商業ビルの影を舐めるように進みながら、前方の交差点中央へ視線を固定していた。主街路は砲撃で抉られ、真ん中が浅い谷のように沈んでいる。左右の建物も無事ではない。だが完全に崩れていないからこそ厄介だった。崩れ残った壁、ぶら下がった梁、割れた窓の奥の暗がり――どこから火を吹かれてもおかしくない。
『第一小隊、速度を落とすな。右斜線の死角を切る。二番機、前へ出ろ』
コンラートの声は短い。
感情を削った、現場用の声だった。
彼の指示に従い、二番機が半歩前へ出る。だが、その挙動はわずかに硬かった。操縦そのものが乱れているわけではない。けれど経験の浅さは、機体の重心移動ひとつで透ける。
エルザの機体だった。
彼女は返答を一拍遅らせた。
『……了解』
声は平静だった。
平静であろうとしている、と言い換えてもよかった。
実戦は訓練と違う。そういう言葉はもう何度も聞いた。だが、耳で知るのと、コックピットの中でそれを骨へ刻みつけられるのとは別だった。市街地の視界は狭く、前も後ろも定まらない。砲煙は流れるのに、建物の谷間に沈んだ粉塵は残り、距離感だけを狂わせる。ここでは遠くを見るほど危険で、近くを見るほど遅れる。
エルザは照準補助を切り替えながら、歯を食いしばった。
怖い。
その感覚自体は否定できなかった。
それでも、怖いことをコンラートに悟られるのだけは嫌だった。
彼の指揮下に入ってから、まともに交わした言葉の大半は命令か確認だった。必要以上に近づいてこないくせに、必要以上に目だけは離さない。その距離感が、エルザにはずっと苛立たしかった。訓練でも移動でも、彼は彼女を「新任の部下」として扱っている。そう扱おうとしている。けれど、顔を向けられるたび、そこに別の誰かの残像が揺れるのをエルザは見てしまう。
それが何より気に障った。
『三番機、左窓列。動いた』
前方から僚機の警告が飛ぶ。
次の瞬間、ビル三階部分の割れた窓列が閃いた。遅れて敵火点の掃射。コンクリート片がはじけ、街路の片側が白く煙る。
『伏せるな、抜けろ!』
コンラートの怒声に近い命令が落ちる。
エルザは反射的に機体を前へ滑らせた。遮蔽物へ寄るのではなく、あえて射線の外へ抜ける。頭では理解していた。市街戦で半端に止まれば、次弾の的になる。分かっている。分かっているのに、怖いという感覚は別の場所で足首を掴んでくる。
遅れた。
ほんの半拍。
その半拍の遅れが、オルドという大きすぎる身体では致命的になる。
左肩を掠める衝撃。警告音。視界端に赤い損傷表示が跳ねた。深刻ではない。だが、軽傷でもない。装甲表層を削られ、姿勢制御がわずかに乱れる。
エルザの呼吸が浅くなる。
『……くっ』
『姿勢を立て直せ。視線を上げるな、左に流せ!』
また彼の声だ。
命令は正しい。正しすぎて腹が立つ。
エルザは唇を噛み、指示どおりに機体を流した。コンラート機が一歩前へ出る。迷いのない踏み込みだった。次の瞬間、彼のオルドが上体を捻り、模擬ではない実弾を短く吐く。対抗火点の窓列が弾け、残っていた壁ごと崩れ落ちる。火線は途切れた。
『一番機より全機。交差点中央を取る。四番機は右へ回り込め。二番機はそのまま俺の後ろにつけ』
その「二番機」が自分だと分かった瞬間、エルザの眉が寄った。
『単独で動けます』
『聞いてねえ。つけ』
切って捨てるような返答。
エルザの胸の奥で、別の熱が立ち上がる。
恐怖ではない。
少なくとも、それだけではない。
『足手まとい扱いですか』
『今は部下扱いだ』
コンラートは振り返らない。
振り返りもせず、前方へ火線を送りながら言う。
『勘違いするな。ここでお前の感情を拾ってる余裕はない』
『なら、最初からそう言えばいいでしょう』
『言ってる。聞いてないのはお前だ』
それきり通信は切れた。
エルザは視界の中央で揺れる彼の背を見つめる。
守られている。
そう認識した瞬間、吐き気に似た嫌悪が込み上げた。
違う。
守られたいわけではない。
あの人の代わりとして扱われたいわけでもない。
なのに現実には、彼の機体が彼女の前へ出ている。瓦礫の間を先に踏み、死角を潰し、敵火点を切っている。その事実が、ありがたさより先に屈辱として胸へ刺さる。
交差点中央へ出た時、視界が一気に開けた。
大通りの向こう。
砲撃で半ば崩れた市庁舎らしき建物。
その屋上付近に、まだ残っていた敵機が一瞬だけ姿を現す。
『上だ!』
誰かが叫ぶ。
敵火線が降った。
今度は散弾ではない。狙いの定まった長い一撃。交差点中央を押さえ込むような射線だった。
コンラートは即座に反応した。
『散れ! 三番、右! 四番、伏角取れ! 二番――』
そこまで言って、彼の声が一瞬だけ詰まる。
エルザの機体が、逆へ動いたからだった。
指示された方ではない。
彼女は敵火点の仰角を見たうえで、崩れた噴水基部の陰へ機体を滑り込ませていた。そこは半壊しているが、敵の射角から一番外れる位置でもある。
コンラートの言うとおりに動くことだけが正解ではない。
そう示したかったのかもしれない。
あるいはただ、自分で選びたかっただけかもしれない。
いずれにせよ、その判断は間違っていなかった。
敵火線は彼女の頭上を掠めて広場奥へ流れ、空いた瞬間を逃さず、第三中隊側から割り込んだ火力支援が屋上を吹き飛ばした。市庁舎上部が崩れ、敵火点は沈黙する。
一瞬の静寂。
その中で、コンラートの声だけが低く落ちた。
『……今のは悪くない』
『上から物を言わないでください』
『上だ』
即答だった。
『今はな』
エルザは返せなかった。
それは事実だった。
事実だからこそ、反発したくなる。
広場の反対側では、ヘルダイバーズを乗せた先行ヘリボーン部隊が順次降下を始めていた。回転翼の風圧が粉塵を巻き上げ、索降ワイヤーが次々と垂れる。黒い影がそこから地上へ降り立ち、オルド部隊の切り開いた区画を歩兵が埋めていく。街は今や完全に戦場だった。空も、地上も、建物の中身も、全部が別の論理で動いている。
『第一小隊、広場確保を維持。後続歩兵の展開完了まで持ちこたえろ』
全体回線からヴィクトルの声が落ちる。
コンラートは短く応答し、機体を半歩前へ出した。
エルザもまた、自分の機体を彼の斜め後方へつける。
不本意だった。
だが今は、それが一番合理的だと分かってしまう。
コンラートもまた、その配置を修正しなかった。
砲煙はまだ街区の向こうで立ちのぼり続けている。
ヘリの回転翼音は断続的に空を切り裂き、歩兵の展開報告が通信回線を埋めていく。主街路は取った。交差点も押さえた。けれど、市街戦では確保と維持は別の意味を持つ。街は、取った瞬間から奪い返そうとしてくる。
そのただ中で、エルザとコンラートは並んで立っていた。
味方として。
小隊長と部下として。
けれどそれだけでは済まない何かを、互いの胸の奥へ押し込めたまま。
戦塵は、まだ晴れない。
そして二人の相剋もまた、始まったばかりだった。




