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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 2 戦塵相剋 -Conflict Amid War Dust- Part 6

 前線到達時には、夜明けはすでに終わっていた。


 だが朝は来ていない、と誰もが思った。


 空は白んでいる。光もある。雲の輪郭さえ見えている。にもかかわらず、市街地一帯を覆うのは朝の清澄ではなく、砲煙と粉塵が混ざり合った薄灰の膜だった。砲兵部隊が叩き開いた進入路は、地図の上では整然とした線として示されていたはずなのに、現実の街はもっと乱雑で、もっと執拗に人の侵入を拒んでいた。崩れた高架、斜めに傾いたビル壁、火を噴き続ける燃料車両の残骸。道路は道路の形をしているだけで、すでに街路としての秩序を失っている。


 その上空を、なおも輸送ヘリの編隊が通過していく。


 低空。高速。無数。


 灰の空を擦るようにして飛ぶ機影は、まるで巨大な鳥の群れだった。ヘルダイバーズを含む四個師団規模のヘリボーン部隊が、主力オルド部隊の後方から順次投下位置へ向かっている。回転翼の唸りは市街の残響と混ざり、爆ぜる火と崩れる瓦礫の音を一段上から押さえつけていた。


 その地上を、オルド部隊が進む。


 総数五百機弱。レイヴンズ・コールを含むそれらの機影は、砲撃で切り裂かれた市街外縁へ楔のように食い込み、主街路と交差点を踏み潰しながら前へ出ていた。鋼の脚が瓦礫を噛み砕き、崩れた舗装を踏みしめるたび、地面そのものが鈍く揺れる。時折、まだ息のある敵火点が建物の陰から反撃を吐くが、それはもう線ではなく点だった。点を潰し、点を踏み越え、鋼の列は止まらない。


 第一中隊左翼。交差点第三区画。


 コンラート・ヴェルナーの機体は、半壊した商業ビルの影を舐めるように進みながら、前方の交差点中央へ視線を固定していた。主街路は砲撃で抉られ、真ん中が浅い谷のように沈んでいる。左右の建物も無事ではない。だが完全に崩れていないからこそ厄介だった。崩れ残った壁、ぶら下がった梁、割れた窓の奥の暗がり――どこから火を吹かれてもおかしくない。


『第一小隊、速度を落とすな。右斜線の死角を切る。二番機、前へ出ろ』


 コンラートの声は短い。


 感情を削った、現場用の声だった。


 彼の指示に従い、二番機が半歩前へ出る。だが、その挙動はわずかに硬かった。操縦そのものが乱れているわけではない。けれど経験の浅さは、機体の重心移動ひとつで透ける。


 エルザの機体だった。


 彼女は返答を一拍遅らせた。


『……了解』


 声は平静だった。

 平静であろうとしている、と言い換えてもよかった。


 実戦は訓練と違う。そういう言葉はもう何度も聞いた。だが、耳で知るのと、コックピットの中でそれを骨へ刻みつけられるのとは別だった。市街地の視界は狭く、前も後ろも定まらない。砲煙は流れるのに、建物の谷間に沈んだ粉塵は残り、距離感だけを狂わせる。ここでは遠くを見るほど危険で、近くを見るほど遅れる。


 エルザは照準補助を切り替えながら、歯を食いしばった。


 怖い。

 その感覚自体は否定できなかった。


 それでも、怖いことをコンラートに悟られるのだけは嫌だった。


 彼の指揮下に入ってから、まともに交わした言葉の大半は命令か確認だった。必要以上に近づいてこないくせに、必要以上に目だけは離さない。その距離感が、エルザにはずっと苛立たしかった。訓練でも移動でも、彼は彼女を「新任の部下」として扱っている。そう扱おうとしている。けれど、顔を向けられるたび、そこに別の誰かの残像が揺れるのをエルザは見てしまう。


 それが何より気に障った。


『三番機、左窓列。動いた』


 前方から僚機の警告が飛ぶ。


 次の瞬間、ビル三階部分の割れた窓列が閃いた。遅れて敵火点の掃射。コンクリート片がはじけ、街路の片側が白く煙る。


『伏せるな、抜けろ!』


 コンラートの怒声に近い命令が落ちる。


 エルザは反射的に機体を前へ滑らせた。遮蔽物へ寄るのではなく、あえて射線の外へ抜ける。頭では理解していた。市街戦で半端に止まれば、次弾の的になる。分かっている。分かっているのに、怖いという感覚は別の場所で足首を掴んでくる。


 遅れた。


 ほんの半拍。


 その半拍の遅れが、オルドという大きすぎる身体では致命的になる。


 左肩を掠める衝撃。警告音。視界端に赤い損傷表示が跳ねた。深刻ではない。だが、軽傷でもない。装甲表層を削られ、姿勢制御がわずかに乱れる。


 エルザの呼吸が浅くなる。


『……くっ』


『姿勢を立て直せ。視線を上げるな、左に流せ!』


 また彼の声だ。


 命令は正しい。正しすぎて腹が立つ。


 エルザは唇を噛み、指示どおりに機体を流した。コンラート機が一歩前へ出る。迷いのない踏み込みだった。次の瞬間、彼のオルドが上体を捻り、模擬ではない実弾を短く吐く。対抗火点の窓列が弾け、残っていた壁ごと崩れ落ちる。火線は途切れた。


『一番機より全機。交差点中央を取る。四番機は右へ回り込め。二番機はそのまま俺の後ろにつけ』


 その「二番機」が自分だと分かった瞬間、エルザの眉が寄った。


『単独で動けます』

『聞いてねえ。つけ』


 切って捨てるような返答。


 エルザの胸の奥で、別の熱が立ち上がる。

 恐怖ではない。

 少なくとも、それだけではない。


『足手まとい扱いですか』

『今は部下扱いだ』


 コンラートは振り返らない。

 振り返りもせず、前方へ火線を送りながら言う。


『勘違いするな。ここでお前の感情を拾ってる余裕はない』

『なら、最初からそう言えばいいでしょう』

『言ってる。聞いてないのはお前だ』


 それきり通信は切れた。


 エルザは視界の中央で揺れる彼の背を見つめる。

 守られている。

 そう認識した瞬間、吐き気に似た嫌悪が込み上げた。


 違う。

 守られたいわけではない。

 あの人の代わりとして扱われたいわけでもない。


 なのに現実には、彼の機体が彼女の前へ出ている。瓦礫の間を先に踏み、死角を潰し、敵火点を切っている。その事実が、ありがたさより先に屈辱として胸へ刺さる。


 交差点中央へ出た時、視界が一気に開けた。


 大通りの向こう。

 砲撃で半ば崩れた市庁舎らしき建物。

 その屋上付近に、まだ残っていた敵機が一瞬だけ姿を現す。


『上だ!』


 誰かが叫ぶ。


 敵火線が降った。

 今度は散弾ではない。狙いの定まった長い一撃。交差点中央を押さえ込むような射線だった。


 コンラートは即座に反応した。


『散れ! 三番、右! 四番、伏角取れ! 二番――』


 そこまで言って、彼の声が一瞬だけ詰まる。


 エルザの機体が、逆へ動いたからだった。


 指示された方ではない。

 彼女は敵火点の仰角を見たうえで、崩れた噴水基部の陰へ機体を滑り込ませていた。そこは半壊しているが、敵の射角から一番外れる位置でもある。


 コンラートの言うとおりに動くことだけが正解ではない。

 そう示したかったのかもしれない。

 あるいはただ、自分で選びたかっただけかもしれない。


 いずれにせよ、その判断は間違っていなかった。


 敵火線は彼女の頭上を掠めて広場奥へ流れ、空いた瞬間を逃さず、第三中隊側から割り込んだ火力支援が屋上を吹き飛ばした。市庁舎上部が崩れ、敵火点は沈黙する。


 一瞬の静寂。


 その中で、コンラートの声だけが低く落ちた。


『……今のは悪くない』

『上から物を言わないでください』

『上だ』


 即答だった。


『今はな』


 エルザは返せなかった。


 それは事実だった。

 事実だからこそ、反発したくなる。


 広場の反対側では、ヘルダイバーズを乗せた先行ヘリボーン部隊が順次降下を始めていた。回転翼の風圧が粉塵を巻き上げ、索降ワイヤーが次々と垂れる。黒い影がそこから地上へ降り立ち、オルド部隊の切り開いた区画を歩兵が埋めていく。街は今や完全に戦場だった。空も、地上も、建物の中身も、全部が別の論理で動いている。


『第一小隊、広場確保を維持。後続歩兵の展開完了まで持ちこたえろ』


 全体回線からヴィクトルの声が落ちる。


 コンラートは短く応答し、機体を半歩前へ出した。

 エルザもまた、自分の機体を彼の斜め後方へつける。


 不本意だった。

 だが今は、それが一番合理的だと分かってしまう。


 コンラートもまた、その配置を修正しなかった。


 砲煙はまだ街区の向こうで立ちのぼり続けている。

 ヘリの回転翼音は断続的に空を切り裂き、歩兵の展開報告が通信回線を埋めていく。主街路は取った。交差点も押さえた。けれど、市街戦では確保と維持は別の意味を持つ。街は、取った瞬間から奪い返そうとしてくる。


 そのただ中で、エルザとコンラートは並んで立っていた。


 味方として。

 小隊長と部下として。

 けれどそれだけでは済まない何かを、互いの胸の奥へ押し込めたまま。


 戦塵は、まだ晴れない。


 そして二人の相剋もまた、始まったばかりだった。

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