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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 2 戦塵相剋 -Conflict Amid War Dust- Part 3

 ブリーフィング終了後、戦術講堂の熱気は、扉が閉じるごとに少しずつ冷えていった。


 兵たちはそれぞれの中隊へ散り、補充兵は補充兵同士で固まり、古参は古参で短い確認を交わしながら次の持ち場へ戻っていく。誰もが忙しなく動いているのに、その足取りの奥には、先ほど大型液晶に映し出された市街地の輪郭がまだ焼き付いたままだった。


 ヴィクトル・シュナイダーは、最後に戦術盤の表示が落ちるのを見届けてから講堂を出た。


 廊下は静かだった。

 中央棟のこの区画は、格納庫や整備棟のような露骨な喧騒こそないが、その代わり、あらゆる物音が一段低く、張りつめている。壁面灯の白い光が通路を均質に照らし、磨かれた床へ靴音だけを乾いて反響させていた。


 数歩進んだところで、ヴィクトルは足を止める。


 通路の途中、壁際にひとりの男が立っていた。


 ゲルハルト・ヴァイスマン。

 軍務総監は、まるで最初からそこにいることが当然だったかのような顔で、無機質な廊下の一角へ静かに立っていた。両手は背に回され、灰色がかった瞳はわずかに細められている。待ち伏せというには露骨すぎず、偶然にしては整いすぎた立ち方だった。


「少佐」


 先に声をかけたのはゲルハルトの方だった。

 抑揚の薄い、事務連絡にも聞こえる声。だが、その淡泊さの中にだけ、呼び止める意思が明確に通っている。


 ヴィクトルは立ち止まったまま、正面からその男を見る。


「総監」

「少しだけ時間をもらおう」


 許可を求める言い方ではなかった。

 ヴィクトルもまた、それを拒む理由を持たない。


「構いません」


 ゲルハルトはすぐには本題へ入らなかった。

 廊下の向こうでは補助要員が端末を抱えて行き交っているが、この一角だけが妙に切り離されたように静かだった。


「随分と大所帯になった」


 やがてゲルハルトが言う。

 視線はまだヴィクトルから外していない。


「急造にしては、よく纏めたほうではないか」

「纏まってはいません」

「君にしては控えめな評価だな」

「事実です」


 即答だった。

 そこに謙遜はない。ただ、現場の手触りとしてそう判断しているだけの声だった。


 ゲルハルトはかすかに顎を引く。


「だが動かすしかない」

「ええ」

「そのために補充した」

「知っています」


 短い言葉が往復するたび、通路の空気が少しずつ細く研ぎ澄まされていく。


 ゲルハルトは一歩も動かなかった。

 まるで壁面の一部のように静止したまま、淡々と続ける。


「君が今回の再開を快く思っていないことも、分かっている」

「そう見えましたか」

「見えなくても予測はつく」


 ヴィクトルの口元が、ごくわずかに動いた。

 笑みと呼ぶには薄すぎる変化だった。


「光栄です」

「皮肉に聞こえるな」

「そう取られるのも計算のうちです」


 ゲルハルトの目が、ほんの少しだけ細くなる。

 怒ったわけではない。むしろ、その返しを一種の確認として受け取ったような顔だった。


「君は現場側の人間だ」


 総監は言う。


「損耗を見る。補充の質を見る。疲弊した部隊をどう繋ぐかを見る。政治の言葉より、死体の数の方を信じる。そういう種類の人間だ」

「評価としては悪くない」

「称賛ではない」


 そこでようやく、ゲルハルトはわずかに壁から身を離した。


「私は軍務を預かる立場にある。補充、人事、継戦能力、指揮系統――その全体を見る。個々の感情や納得に付き合っていれば戦争は回らん。君もそれは理解しているはずだ」

「理解はしています」

「納得はしていない」

「納得は必須条件ではありません」


 ヴィクトルの声は平坦だった。

 だが、その平坦さの下にだけ、硬いものが沈んでいる。


 ゲルハルトは数秒黙った。


 その沈黙の間に、廊下の向こうを走る要員の足音が二度ほど反響し、すぐに遠ざかった。


「……少佐」


 再び総監が口を開く。


「君は私が中央の論理だけで動いていると思っているか」

「そこまで単純な方ではないでしょう」

「では、どう見ている」

「勝つために必要なものだけを残し、それ以外を切り落とす人間です」


 ためらいのない返答だった。


 ゲルハルトはその言葉を否定しなかった。

 否定しないまま、ほんのわずかに視線を落とす。


「概ね正しい」


 その認め方には感情がなかった。

 だからこそ、むしろ重い。


「君も同じだろう、ヴィクトル・シュナイダー」


 名を呼ばれた瞬間、通路の温度が一段下がったような気がした。


「君もまた、切るべきものを切る。守るべきもののためにだ。方法が違うだけで、やっていることの本質は遠くない」

「買いかぶりです」

「謙遜にしては色気がないな」


 そこで初めて、ゲルハルトの声にごく薄い乾いた響きが混じった。

 笑いではない。だが完全な無機質でもない。


「私は、ノイエ・アークの勝利を最優先する」

 総監は言った。

「個人ではなく国家。部隊ではなく戦局。目の前の損耗ではなく、その先に続く戦争全体だ」


 ヴィクトルは黙って聞いている。


「君はどうだ」


 問う声は静かだった。

 だが確認したいのは答えそのものではない。答える時の質だ、とヴィクトルには分かった。


「同じです」


 短く返す。


「俺も、ノイエ・アークの勝利を最優先する」

「迷いなく?」

「迷いはあります」

「正直だな」

「迷いがないと答える方が、不誠実でしょう」


 そこだけ、ヴィクトルの声にわずかな硬さが混じった。


「だが、優先順位は変わりません。勝つために戦う。部隊を動かすのも、そのためです」

「結構」


 ゲルハルトは頷いた。


「それでいい。私が確認したかったのはそこだけだ」


 ヴィクトルは何も言わなかった。

 確認。そう言われてしまえば、今の会話はそれ以上でもそれ以下でもない。牽制とも探りとも取れるやりとりだったが、最後に残ったのは、両者とも目指す先だけは同じだという、ひどく冷えた一致だけだった。


 総監は背筋を正し、元の距離を取り戻すように半歩退く。


「現場のことは君が最もよく知っている」

 ゲルハルトは言う。

「だが、勝たねばその知識も意味を持たん」

「肝に銘じます」

「銘じるだけで終わらせるな」


 それだけ告げると、総監は踵を返した。

 軍靴の音は小さく、一定で、迷いがない。廊下の奥へ遠ざかっていく背中は、最後まで隙を見せなかった。


 しばらくしてから、ヴィクトルはごく浅く息を吐く。


「……相変わらずだな」


 その呟きへ、少し後ろに控えていたリカルド・メンデスが肩をすくめる。


 彼は最初から数歩後方で待機していた。話の間、一度も口を挟まなかったのは立場ゆえでもあるが、あの二人のあいだへ割って入る気が起きなかったのも本音だった。


「食えない男ですね」


 率直な感想だった。

 不敬とも取れそうな言い方だが、声量は低い。ここでなら誰にも聞かれない程度の、現場側のぼやきに過ぎない。


 ヴィクトルはそれを聞いて、珍しく明確な苦笑を浮かべた。


「否定はしない」

「否定しないんですか」

「する必要がない。あの男は、実際そういう類いだ」


 そこで少しだけ間を置く。


「もっとも」

 ヴィクトルは続ける。

「向こうから見れば、俺も似たようなものだろう」


 リカルドは答えなかった。


 肯定も否定もしない。

 そうすることでしか返せない種類の言葉だと分かっていたからだ。


 ヴィクトルはその沈黙を咎めず、むしろ当然のように受け流した。

 自嘲に対して下手な慰めを差し挟まれない方が、今は都合がいい。


「行くぞ」

「了解です」


 短い応答だけを交わし、二人は廊下を歩き出す。


 中央棟の外へ出ると、乾いた風が制服の裾をわずかに揺らした。

 午後の光は白く、冷たく、基地全体を休みなく照らしている。格納庫側からは空圧工具の音が断続的に響き、整備棟では搬送車両の駆動音が重なり、通信棟の窓には忙しなく行き交う人影が見えた。


 レイヴンズ・コールは、もう止まらない。


 補充された機体が並び、再編された中隊が動き、砲撃時刻に合わせて弾薬も燃料も前へ押し出される。古参は不足を埋め、新任は配属先を叩き込まれ、誰もが自分の居場所を半ば強引に与えられていく。


 微妙な空気は消えていない。

 新旧の溝も、補充兵たちの緊張も、指揮系統の軋みも、そのまま残っている。


 それでも準備は進む。


 戦争は、人間同士の感情が整理されるのを待ってはくれない。


 フォート・グラーデンの乾いた午後のただ中で、レイヴンズ・コールは本格的に、次の作戦のために動き始めていた。

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