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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 2 戦塵相剋 -Conflict Amid War Dust- Part 4

 作戦前夜のフォート・グラーデンは、静かではなかった。


 静寂に似たものがあるとすれば、それは音の欠如ではなく、あらゆる音が目的のために整理され切った末に生まれる、張りつめた機能性のことだった。中央棟の管制室では、壁一面の戦術表示に砲撃諸元、市街地各区画の進入予定時刻、各中隊の進発ラインが幾重にも重ねられ、通信士たちが短い応答を交わしながら最終照合を進めている。白い照明の下、端末の光だけが忙しなく瞬き、誰もが自分の前にある数値を一秒でも早く確定させようとしていた。


 その一角で、リリィ・フォン・シュライフェンは端末越しに戦域図を睨んでいた。細い指が入力面を叩くたび、砲兵部隊の射撃順序と補給動線が更新されていく。年齢に見合わぬ静けさを纏った横顔は、今夜ばかりはさらに色を失って見えたが、それでも彼女は休もうとしなかった。誰かが止めても聞かないことを、周囲の者たちはもう知っている。


 一方、格納庫では別種の慌ただしさが支配していた。


 機体下部に潜り込む整備兵。架台上で外装の締結を確認する者。補給ホースの着脱、予備部品の照合、駆動系の最終診断。半ば要塞そのもののような空間に、空圧工具の乾いた打音と、点検結果を読み上げる声が反響している。オルドの巨体は並んでいるだけで圧迫感を持つが、今夜はそれぞれが明日の市街戦へ向けて沈黙のまま牙を研いでいるようだった。


 ユリウス・ハルトマンは、格納庫中央寄りの機体脇で診断端末を閉じる。


 表示された数値に異常はない。脚部応答、駆動補助、武装接続、外部同期系――どれも規定値内。だからといって安心できるわけではないが、少なくとも今この瞬間、機体は「明日壊れる理由」を一つ減らしたことになる。


「終わった?」


 背後から声がした。


 振り返るまでもない。ユリウスは端末を脇へ抱えたまま答える。


「一通りは。あとは朝の起動前チェック」

「あなたの顔だと、全然“問題ない”ように聞こえないんだけど」

「問題がない時も、別に笑わない」


 クラリス・フォーゲルは機体の影から歩み寄ってきた。薄手の操縦用手袋を片手だけ外し、もう片方の手で襟元を整える癖は、最近さらに目立つようになっている。明日の出撃装備に近い状態まで整えられた姿は、以前よりよく似合っていた。似合ってしまうこと自体が、ユリウスには少しだけ嫌だった。


「管制室は?」

「ひどいものよ。みんな明日の朝までに世界を一回作り直すつもりみたいな顔してた」

「リリィは」

「いつも通り。倒れるまで椅子から動かない顔」


 クラリスはそう言って、ごく薄く笑った。笑いというより、そういう言い方でしか今は不安を処理できない、という種類のものだった。


 格納庫の向こうでは、補充で編入された搭乗員たちが小隊ごとに最終確認を受けている。誰もが声量を抑えているのに、全体としては常にざわめきが絶えない。明日の進攻経路、市街地内の退避線、砲撃終了から突入までの猶予、敵逆襲の想定時間。言葉の一つひとつが、すべて明日の死角に繋がっている。


 クラリスは機体脇の補助ステップへ軽く腰を預けた。


「さっき、エミール班長に聞いたわ」

「何を」

「整備班も前へ出るって」


 ユリウスは頷く。


「戦闘部隊が要地確保を確認したらな。主街路と交差点、それから仮設補給線を通せる区画。そこが取れた時点で、整備班と前進補給要員が入る」

「つまり、あなたたちも結局市街地まで来る」

「そういうことになる」


 クラリスは少しだけ目を伏せた。


「嫌な任務」

「どっちの立場でもな」

「ええ」


 短い沈黙が落ちる。


 明日の進発以降、第一波で突入する戦闘部隊と、後続で押し上げられる整備班はしばらく別行動になる。分かっていたことだ。作戦図を見れば一目で理解できる。けれど、頭で理解するのと、それを現実の時間として受け入れるのは別だった。


「……どのくらい?」

 クラリスが問う。

「状況次第だ。最短なら数時間。最悪なら丸一日以上」

「最悪って便利な言葉ね」

「戦場は大体それで説明がつく」


 クラリスは返さなかった。


 代わりに、目だけが少し揺れる。大きく崩れはしない。唇も真っ直ぐ結ばれたままだ。ただ、ユリウスには分かる。その揺れが、戦術上の確認ではなく、もっと個人的な種類のものだと。


「離れるの、嫌?」

 思っていたより先に、言葉が出た。


 クラリスは一瞬だけ眉を上げ、それから視線を逸らした。


「今さら聞く?」

「確認だ」

「確認しなくても、分かってるくせに」


 その通りだった。


 ユリウスは何も言わない。何も言わないまま、機体の装甲に残る補修痕へ視線を逃がす。整備兵としてなら、亀裂の埋め方や焼け跡の残り方をいくらでも語れる。だが今ここで必要なのは、そういう話ではない。


「……あなたが後から入るって分かってても」

 クラリスが静かに言う。

「最初の突入からしばらくは、見えない場所にいるでしょう。通信も乱れるかもしれない。砲煙と瓦礫の中で、誰がどこにいるのか分からなくなる」

「そうだな」

「それが、嫌」


 言い切ったあとで、彼女自身が少しだけ驚いたような顔をした。ここまで素直に口にするつもりはなかったのだろう。


 ユリウスは答えを探す。けれど、うまい言葉は見つからない。


 大丈夫だと言っても、明日の戦場では何の保証にもならない。

 必ず追いつくと言っても、それは約束ではなく希望にすぎない。

 だったら黙っていた方が誠実なのかもしれないが、その沈黙は彼女を余計に不安にさせるだけだ。


「……俺も」


 結局、出てきたのはそれだけだった。


「俺も、離れるのは嫌だ」


 クラリスが顔を上げる。

 その目には、驚きと、ほんのわずかな安堵が同時に浮かんでいた。


「そういうの、もっと早く言いなさいよ」

「言わなくても伝わってると思ってた」

「分かってても、聞きたい時はあるの」


 責めるような言い方なのに、声は弱かった。


 格納庫の天井灯が、二人のあいだへ白い光を均質に落としている。周囲ではまだ人が動き、工具が鳴り、誰かが点検結果を叫んでいる。こんな場所で立ち止まっていること自体が、本当は少し場違いだった。


 クラリスは一歩だけ近づいた。


「ねえ」

「何だ」

「……今だけ」


 そこまで言って、言葉を切る。

 けれど続きは、言われなくても分かった。


 ユリウスは一瞬だけためらう。

 いけない、と頭のどこかで思う。前夜の格納庫で、こんなふうに私情へ寄りかかるのは正しくない。正しくないし、明日になればそれが何かを保証するわけでもない。


 それでも、目の前の彼女の顔を見ていると、その「正しさ」は急に薄っぺらく思えた。


 ユリウスは端末を脇の工具箱へ置き、ぎこちなく手を伸ばす。


 軽い抱擁だった。


 本当に、短くて、軽い。

 身体を預けるというより、互いがそこにいることだけを確かめ合うような、頼りないほど控えめなもの。クラリスの肩は思ったより細く、制服越しに伝わる体温は、こんな格納庫の真ん中では不自然なほど人間的だった。


 クラリスは何も言わない。

 ただ一度だけ、息を浅く吐く。その呼吸がユリウスの首筋に触れて、すぐ離れた。


「……ありがと」

 彼女が小さく言う。

「礼を言われることでもない」

「じゃあ、覚えておく」


 離れると、急に周囲の音が戻ってくる。


 現実が、さっきまでより少しだけ近い。

 整備班の怒声、搬送車の駆動音、遠くの管制室から回されてくる確認通信。戦争は一秒たりとも待ってくれないのだと、基地全体が教え続けている。


「クラリス! 起動前手順の最終確認だ、来い!」


 向こうから呼ばれて、クラリスがそちらを見る。

 彼女はすぐに姿勢を戻し、短く返答した。


「今行く!」


 それから再びユリウスへ向き直る。


「市街地に入ったら、私が先」

「分かってる」

「要地確保が済んだら、今度はあなたたち」

「分かってる」

「……ちゃんと来て」

「行くよ」


 それだけで十分だった。

 たぶん、今は。


 クラリスは一度だけ頷き、踵を返す。操縦士としての背中へ戻っていくその姿を、ユリウスはしばらく見送った。呼び止めなかったし、呼び止める理由もなかった。もう言うべきことは言ったのだと思うしかない。


 その時、格納庫上部の警告灯が一度だけ低く点滅した。


 管制室から全区画へ、作戦開始前最終段階移行の通達が回る。砲兵部隊は発射準備最終工程へ。前進各隊は夜明け前待機位置への移送開始。整備班は後続支援列の再確認。


 いよいよだった。


 ユリウスは工具箱の上の端末を取り上げ、深く息を吸う。機械油と金属の冷えた匂いが肺に満ちる。その感覚が、妙に落ち着いた。


 作戦は再開される。


 砲火が夜明けの空を裂き、戦闘部隊が瓦礫の市街へ突入し、整備班はそのあとを追う。離れ離れになる時間があり、再会を保証するものは何ひとつない。それでも前へ進むしかないのが、今の自分たちの立ち位置だった。


 格納庫の奥で、オルドの起動前灯がひとつ、またひとつと点り始める。


 冷たい光の列は、まるで眠っていた獣たちが順番に目を開けていくようだった。


 ユリウスはその光を見上げる。


 明日の朝、この基地はまた戦争のただ中へ踏み込む。

 そしてレイヴンズ・コールもまた、その最前列へ押し出されていく。


 もう、始まるのだ。

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