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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 2 戦塵相剋 -Conflict Amid War Dust- Part 1

 最初に会ったとき、怒りはもっと輪郭のはっきりしたものだと思っていた。


 胸の奥で燃え続ける火のように、形も熱も、憎むべき相手も、何もかもが明確なのだと。大切な人を奪った相手を目の前にすれば、迷いなく憎めるのだと。写真の中で隣に立っていた男。手紙の端々に名前だけが滲んでいた男。最後まで傍にいたくせに、最後までは連れて帰らなかった男。


 だから、もっと分かりやすい顔をしているものだと思っていた。


 冷酷で。

 薄情で。

 誰かの死など、どうでもいいと思っているような顔を。


 けれど、実際にフォート・グラーデンの格納庫でその男を見た瞬間、少女の胸に込み上げたのは、想像していたような綺麗な憎しみではなかった。


 鈍く、濁って、行き場の分からない怒りだった。


 彼は、写真の中にいた男より、ずっとくたびれて見えた。


 無愛想で、愛嬌もなく、立っているだけで周囲の空気を少し遠ざけるような雰囲気がある。年齢のせいか、戦場のせいか、肩の線にはもう若さ特有の軽さがなかった。視線は鋭いのに、その奥にあるものだけが妙に曖昧で、何を考えているのか少しも読めない。


 そんな男だった。


 それが、ひどく腹立たしかった。


 もっと分かりやすく憎ませてくれればいいのに、と少女は思った。写真の中の男のままならよかった。手紙の向こう側にだけいる、輪郭の定まらない誰かのままでいてくれればよかった。そうすれば、怒りはもっと単純でいられたはずだ。


 なのに現実の彼は、あまりにも普通にそこへ立っていた。


 整備兵へ短く指示を飛ばし、搬入された機材を一瞥し、誰かの挨拶に面倒そうに顎だけで返す。英雄でもなければ、怪物でもない。ただ前線に長く居すぎた軍人の顔をしていた。


 どうして、お前がそんな顔で生きているの。


 その問いだけが、少女の喉元まで何度もせり上がった。


 大切な人はもう、どこにもいないのに。


 手紙は残った。写真も残った。声を思い出すことだって、まだできる。笑った顔も、少し困ったように目を細める癖も、全部覚えている。けれど、それは全部“残っているもの”でしかない。生きてそこにいるのとは違う。


 なのに、彼は生きていた。


 フォート・グラーデンの荒んだ朝の光の下で、当たり前のように息をし、当たり前のように命令を受け、当たり前のように次の戦いの準備をしていた。


 それが許せなかった。


 いや、許せない、という言葉だけでは足りなかった。


 許せないのなら、憎めばいい。憎んでしまえば、それで少しは楽になれる。そう思っていたのに、現実はそんなふうに簡単ではなかった。


 目の前にいる彼は、あまりにも取り返しのつかない何かを背負っているようにも見えたからだ。


 その気配まで、少女の怒りを逆撫でした。


 そんな顔をするな、と心のどこかで思った。


 苦しそうな顔をするな。

 黙り込むな。

 何かを知っているような目でこちらを見るな。

 お前にそんな資格があるものか。


 大切な人を失ったのは、自分だけで十分だ。


 そう言い聞かせるほど、怒りはまっすぐな刃ではなくなっていった。切っ先を定められないまま、ただ胸の内側を焼き続ける熱になった。


 最初に交わした言葉すら、ろくに覚えていない。


 覚えているのは、彼がこちらの名前を確認したあと、一瞬だけ息を止めたこと。ほんのわずかに、目の奥が揺れたこと。けれど次の瞬間には、何事もなかったようにいつもの無愛想な顔へ戻ったこと。


 その一瞬だけで十分だった。


 ああ、この男は知っているのだと、少女は思った。


 自分が誰なのかを。

 誰の名を引きずってここへ来たのかを。

 自分の顔のどこに、あの人の面影が残っているのかを。


 それでいて、何も言わなかった。


 謝りもしない。

 弁解もしない。

 優しくもしない。

 ただ、軍人として必要なことだけを口にして、距離を取った。


 その距離の取り方が、ひどく卑怯に思えた。


 怒鳴りつけてくれたほうがまだよかった。見下してくれたほうがまだましだった。そうすればこちらも、何も考えずに嫌いになれたのに。


 なのに、彼は沈黙のまま、少女の行き場のない怒りだけをその場へ置き去りにした。


 だから少女は、その日、はっきりと思った。


 この男とは絶対に分かり合えない。


 分かり合いたくもない。


 何を知っていようと、どんな事情があろうと関係ない。あの人が戻らない以上、そんなものに意味はない。


 意味がないはずだった。


 それでも、あの時の彼の目だけが、どうしても記憶に残った。


 まるで、こちらを見ているのではなく、もっと遠い何かを見ているような目だった。

 失ったものを、いまだ手放せずにいる人間の目だった。


 そのことが、少女には何より腹立たしかった。


 お前まで同じ顔をするな。


 そう心の中で吐き捨てたはずなのに、その怒りの奥底で、もっと言葉にしづらい何かがわずかに軋んだことを、少女はその時まだ認められなかった。


 ただ一つだけ確かなのは、その出会いが、最悪だったということだけだった。


     〇


 格納庫の空気は、朝の冷たさをほとんど残していなかった。


 鋼材の匂い、機械油の匂い、焼け残った熱の匂い。補修の終わりきらない機体が並ぶその一角は、まだ戦場の延長線上にあった。人の声も、工具の打音も、すべてが乾いている。ここでは誰もが忙しく、誰もが次の出撃に間に合わせるためだけに動いていた。


 少女は、配属書類を抱えたまま立ち止まる。


 案内してきた下士官は「ここで待て」とだけ言い残し、すぐ別の呼び出しに応じて離れていった。取り残された格好だったが、不安より先に、胸の内では別のものが静かに沈んでいた。


 視線の先。

 補修架台の脇で、ひとりの男が整備兵に何かを告げている。


 顔を見た瞬間、少女は息を止めた。


 写真で知っていた。


 何度も見た。

 何度も伏せた。

 何度も、見なければよかったと思った顔だった。


 あの人の隣に写っていた男。

 手紙の端々に、ぶっきらぼうで愛想がないだの、それでも妙なところで面倒見がいいだの、そんなふうに書かれていた男。


 そして最後まで傍にいたくせに、最後までは連れて帰らなかった男。


 もっとはっきり怒れると思っていた。


 顔を見た瞬間、胸の内の答えが定まるのだと。

 憎むべき相手を前にしたなら、迷わずそう思えるのだと。


 けれど実際に目の前にいるその男は、拍子抜けするほど普通にそこへ立っていた。


 無愛想で、肩の力が抜けていて、軍服の着こなしにも妙な隙がある。英雄めいた威圧感も、怪物じみた異様さもない。ただ前線に長く居すぎた人間特有の、擦り切れた重さだけがあった。


 それが、どうしようもなく腹立たしかった。


 どうして、お前がそんな顔で生きているの。


 胸の奥から浮かび上がった問いは、けれど声にはならなかった。

 ならないまま、熱にも冷えにもなりきれない塊として沈んだ。


 その時だった。


「ヴェルナー曹長」


 通りかかった士官が声を投げる。

 男が振り向く。


「補充だ。第一小隊に回す」

「……了解」


 短く返した声は低く、想像していたよりもずっと淡泊だった。


 士官は少女の方へ顎をしゃくる。


「本日付で転属。オルド搭乗員候補、エルザ・リーデル」


 名前を告げられても、男の表情はほとんど動かなかった。

 ただ新しい補充兵の名を確認するように、一度だけ視線を寄越しただけだ。


 だが、その次の瞬間だった。


 男の目が、少女の顔を正面から捉える。


 そして、止まった。


 ほんの一拍。

 呼吸が抜けるほど短い沈黙だった。


 少女は見逃さなかった。

 目の奥が揺れた。眉がわずかに寄る。表情そのものは崩れないのに、その奥で何かが不意にこじ開けられたのが分かった。


 名前ではない。

 顔だ。


 この男は、自分の顔の中に、別の誰かを見ている。


 それが誰なのかを、少女は知っていた。

 知っているからこそ、胸の内の感情はさらに行き場を失った。


 怒りだけなら簡単だった。

 憎しみだけなら、もっと楽だった。


 けれどその視線には、少女自身ではなく、もうここにいない誰かの影が滲んでいる。そんなふうに見られることが、言葉にしがたい嫌悪と、説明しにくい痛みを同時に呼び起こした。


 士官は引き継ぎを済ませると、そのまま別の場所へ去っていく。

 あとは二人だけが、その場に取り残される。


 格納庫の天井は高く、工具音だけが遠く響いている。男は数秒黙ったあと、ようやく口を開いた。


「……エルザ・リーデル、で間違いないな」

「ええ」


 少女は答えた。

 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「本日付で第一小隊配属、です」

「聞いてる」


 彼は少女の抱えた書類へ一瞥を落とし、それきりだった。

 だが、視線を戻した先にはまだ、言葉にならない何かが引っかかっている。


 その目が、少女にはたまらなく不快だった。


 見ている。

 けれど、自分を見ていない。


 少女は唇を引き結ぶ。

 問い詰めようと思えばできた。写真のことも、手紙のことも、この男が最後まで一緒にいたことも、全部知っているのだと叩きつけることだってできた。


 けれど、しなかった。


 それを口にした瞬間、自分の中の何かが決定的に壊れてしまう気がしたからだ。

 それに、目の前の男があまりにも無防備に、昔の傷を踏み抜かれた顔をしたせいでもあった。


 そんな顔をされると、かえって責めきれない。

 責めきれない自分が、また腹立たしい。


「荷物はそっちへ置け」


 男は格納庫の奥を示す。

 少女は一拍遅れて頷いた。


「了解しました」


 返事は軍人として正しかった。

 それがかえって、自分で自分の喉を締めているような気分にさせる。


 少女は歩き出そうとして、足を止める。


「……ひとつ、質問しても」

「内容による」

「ずいぶん慎重なんですね」


 自分でも、ずるい言い方だと思った。

 真正面からは切り込まない。ただ相手の皮膚に薄く刃を当てて、反応だけを窺うような言葉。


 男は答えない。

 その沈黙が、肯定にも拒絶にも見える。


 少女はそれ以上踏み込まなかった。


「いえ。今はいいです」


 男の目が、ほんのわずかに細くなる。

 少女の言葉の奥に何かがあると察してはいるのだろう。だが、彼もまた何も言わない。


 沈黙ばかりだ、と少女は思う。


 この男は、きっと昔からこうなのだ。

 大切なことほど言葉にしない。抱え込んで、勝手に摩耗して、何も説明しないまま立っている。そんなふうにして生き延びてきた人間なのだろう。


 あの人は、そんな男のどこを信じていたのだろう。


 ふと浮かんだその疑問に、少女は自分で傷ついた。


 知りたくない。

 けれど、知ってしまっている。


 手紙の文面の端々に滲んでいた信頼。

 写真の中で不自然ではなかった距離。

 それら全部が、少女の中で綺麗に憎しみへ変わってくれない。


 だから余計に、行き場がない。


「配属の話は後で回す」


 男が低く言った。


「まずは機体を見ろ。規定と区画配置を頭に入れろ。それが先だ」

「……はい」


 また、軍務の言葉だ。


 便利な盾だと少女は思う。

 けれど同時に、その盾がなければこの男はここに立っていられないのだろうとも思ってしまう。そのことが、さらに気分を悪くした。


 少女はそれ以上何も言わず、男の脇をすり抜けるようにして歩き出した。


 すれ違う一瞬、軍服越しに感じた気配は、思っていたよりもずっと人間の体温に近かった。だから余計に腹が立った。


 怪物ならよかった。

 冷血ならよかった。

 そうすれば憎しみは、もっと綺麗な形でいられたはずなのに。


 けれど現実にいたのは、空似ひとつで感情を乱されながら、それを軍務で押し殺そうとするだけの男だった。


 そして少女自身もまた、その男を真正面から憎みきれないまま、言葉にならない感情を胸の内で持て余していた。


 最悪の出会いだった。


 背後で彼がまだこちらを見ている気配がした。

 振り返らなかった。振り返れば、自分が誰として見られているのかを確かめてしまいそうだったし、確かめたくなかった。


 だからただ、前だけを見た。


 この男とは絶対に分かり合えない。

 そう思うことでしか、今は自分を保てなかった。

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