Episode 1 薄氷日和 -Days on Thin Ice- Part 6
コンラートはそれ以上何も言わなかった。
言わないまま、整備架台の脇に置かれた端末へ視線を落とし、そこに何か用事でもあるふうを装ってみせる。いつものことだ、とユリウスは思う。本当に触れてほしくない話題ほど、この男は雑に会話を切る。
だから、追わなかった。
追わないかわりに、ユリウスは少女の消えていった通路の先を少しだけ見た。もう姿はない。残っているのは、さっきの刺々しい声の余韻と、コンラートの一瞬だけ止まった表情の記憶だけだった。
「……で、補充兵、か」
独り言のように漏らすと、コンラートは鼻を鳴らした。
「暇なら手ぇ動かせ」
「今から動かす」
「なら余計なもん見てねえで、目の前の仕事見ろ」
追い払うような言い方だった。
ユリウスは肩をすくめ、それ以上は言わずに脇の工具台へ向かった。だが、手を動かしていても頭の片隅にはさっきの光景が残り続ける。補充兵にしては、あまりに衝突の温度が高すぎた。
工具の先端で留め具の緩みを確かめていたとき、不意に背後から軍靴の音が近づいてきた。
軽い。
だが、焦ってはいない。
振り返るまでもなく分かる。ユリウスは手を止めずに言った。
「終わったのか」
「終わったわよ」
クラリスだった。
会議室帰りの彼女は、訓練後よりは幾分ましな顔をしていたが、完全に機嫌が戻ったわけでもなさそうだった。軍帽は脇に抱え、襟元だけが少しだけ乱れている。会議中に無意識で何度か触ったのだろう。
クラリスはユリウスの横まで来ると、彼が手元から目を離さないのを見て、小さく息を吐いた。
「普通、戻ってきた相手には“どうだった”くらい聞かない?」
「顔見れば大体分かる」
「何その雑な観測」
「リリィの影響だ」
クラリスはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その反応を見て、ユリウスもようやくレンチを置く。
「で、どうだった」
「改編の話」
「やっぱりか」
そうなるだろうとは思っていた。
補充機と補充人員が入った以上、今のままの歪んだ配置で回し続けるわけがない。
クラリスは工具台の端へ腰を預ける。格納庫を吹き抜ける乾いた風が、彼女の短い髪をわずかに揺らした。
「部隊の暫定再編が正式に決まったわ。補充機を含めて運用枠を整理し直す。今までみたいな、その場しのぎの寄せ集めじゃなくて、小隊単位でちゃんと切り分けて回すって」
「珍しく真っ当だな」
「少佐も同じこと言ってた」
それは少しおかしかった。
ヴィクトルが実際にそんな言い方をしたとは思えないが、意味としては近かったのだろう。
クラリスは続ける。
「コンラートが小隊長に上がる」
「……ああ」
ユリウスはそれを聞いて、さっきの光景が一段くっきりした輪郭を持つのを感じた。単なる先輩後輩の口論ではない。指揮下に入る相手との最初の衝突だったのだ。
「正式には第一小隊長。もともと実質そういう仕事をさせられてたようなものだけど、今度は名目上も、ってことね。少佐直率の枠の下に、小隊単位で運用を組むみたい」
クラリスはそこで一度、ユリウスの顔を見た。
「あなた、何か見たの?」
「……さっき、そこの通路でな。コンラートと知らない補充兵が揉めてた」
「でしょうね」
「でしょうね、って」
クラリスは肩をすくめる。
「会議室でも少し話題になったもの。配属表を見た瞬間、整備担当の何人かが“ああ……”って顔してたわ」
「何だそれ」
「つまり、面倒そうだってこと」
ごく簡潔で、しかし非常に分かりやすい説明だった。
「名前は?」
「エルザ・リーデル。十五歳。補充のオルド搭乗員」
ユリウスは無意識にその名を頭の中で繰り返した。
エルザ・リーデル。朝、遠目に見たときより、さっき通路を横切ったときより、名前を知ったことで少しだけ輪郭が現実に寄る。
「年、同じか」
「あなたとね」
「若すぎるな」
「今さら?」
クラリスの返しは即座だった。
ユリウスは口を閉じる。
そうだ。今さらだ。
十五歳の兵士が珍しくない場所で、同い年の補充兵にだけ若すぎると言うのは、どこかずれている。
だが、口に出たものは仕方がない。
「……いや」
「分かってる。言いたいことは」
クラリスの声は少しだけ柔らかかった。
責めているわけではない。むしろ、自分も同じことを思ったのだろう。
「配属はコンラートの第一小隊」
彼女は続ける。
「少佐がそう決めたのか、上からそう降りてきたのかは分からない。でも、とにかくエルザはコンラートの指揮下に入る。しばらくは実機訓練も戦術同行も、全部あの人が面倒を見ることになる」
ユリウスはさっきの二人の間に漂っていた空気を思い出す。
「……面倒を見る、ね」
「見たのなら分かるでしょ。もう既にうまくいってない」
「うまくいってないで済む感じか、あれ」
「済まないでしょうね」
クラリスはきっぱり言った。
「エルザの方も相当よ。会議の前に一度だけ廊下ですれ違ったけど、あの目はただの新兵の反抗じゃなかった。怯えてるくせに噛みつく目」
「コンラートの方も妙だった」
「ええ。あの人が補充兵に厳しいのはいつものことだけど、あれは少し違った」
二人のあいだに、短い沈黙が落ちる。
格納庫の向こう側では、整備兵たちが補充機の最終調整に追われている。工具の打音、空圧の抜ける音、誰かの短い怒声。基地は変わらず動いているのに、その一角だけが微妙に引っかかっていた。
「少佐は他に何か言ってたか」
「言ってたわ。補充が入ったからって、部隊の質が勝手に揃うわけじゃない。だから当面は小隊ごとに練度を見ながら運用するって」
「つまり、慣熟が終わるまで面倒は現場で飲み込めってことか」
「まあ、そういう言い方もできるわね」
クラリスは帽子を持ったまま、少しだけ視線を落とした。
「あと……私にも、今までみたいな独立気味の動きは減らすって」
「それはいいことだろ」
「頭では分かってる」
「なら問題ない」
「あなた、時々ほんとに容赦ないわね」
クラリスはそう言ったが、声に棘はなかった。
むしろ、そういうふうに切ってくれる相手だからここへ戻ってきたのだと、そんな空気すらあった。
彼女はふと、ユリウスの手元を見る。
「で、あなたは何してたの」
「リリィのとこ行ってた」
「へえ」
「その“へえ”は何だ」
「別に。ただ、珍しいと思って」
「生きてるか確認しに行っただけだ」
「それで?」
「説教された」
「でしょうね」
クラリスは今度こそ、少しだけ笑った。
その笑いを見て、ユリウスは胸の奥の硬さがわずかに緩むのを感じる。訓練の敗北だの、会議だの、補充兵だの、面倒なものは山ほどある。それでも、こうして彼女が少しだけ息をつけているなら、今はそれでいいと思ってしまう。
――それが健全かどうかは、別として。
リリィの言葉が、また頭のどこかに引っかかった。
役割だけに自分を預ければ、いつか中身が空になる。
何のためにここにいるのか。
答えはまだない。
ないままでも、時間だけは勝手に進んでいく。
「クラリス」
「何?」
「エルザのこと、少し気にしておいたほうがいいかもしれない」
「コンラートの小隊なんだから、私が口を出す筋じゃないでしょ」
「そうだけどな」
「……でも、分かった」
彼女は少し考えるように言った。
「あなたがそう言うなら、一応見ておく」
「俺が言うなら、か」
「ええ。あなた、こういう時だけは妙に勘が当たるもの」
褒められているのかどうか分からない。
ユリウスは曖昧に肩をすくめるだけにした。
その時、格納庫の奥から短い電子音が鳴った。午後訓練の準備信号だ。休憩とも待機ともつかない時間が終わり、また全員が次の段取りへ押し流されていく。
クラリスは帽子を被り直し、姿勢を整える。
「……行きましょうか」
「また測定か」
「その前に機体確認。ラインフェルト中尉が待ってるでしょうし」
「それは災難だな」
「他人事みたいに言わないで。あなたも来るのよ」
「分かってる」
そう返しながら、ユリウスはふと通路の先へ視線をやる。
エルザ・リーデル。
名前を得たばかりの補充兵。
コンラートの小隊に配属された少女。
まだそれだけだ。
それだけのはずなのに、なぜか胸のどこかに小さな棘のような引っかかりが残っていた。
やがてその棘が何に繋がるのか、この時のユリウスはまだ知らない。
ただ、基地の乾いた午後の光の中で、新しく入ってきたひとつの名前だけが、妙に耳の奥へ残っていた。




