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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 1 薄氷日和 -Days on Thin Ice- Part 6

 コンラートはそれ以上何も言わなかった。


 言わないまま、整備架台の脇に置かれた端末へ視線を落とし、そこに何か用事でもあるふうを装ってみせる。いつものことだ、とユリウスは思う。本当に触れてほしくない話題ほど、この男は雑に会話を切る。


 だから、追わなかった。


 追わないかわりに、ユリウスは少女の消えていった通路の先を少しだけ見た。もう姿はない。残っているのは、さっきの刺々しい声の余韻と、コンラートの一瞬だけ止まった表情の記憶だけだった。


「……で、補充兵、か」


 独り言のように漏らすと、コンラートは鼻を鳴らした。


「暇なら手ぇ動かせ」

「今から動かす」

「なら余計なもん見てねえで、目の前の仕事見ろ」


 追い払うような言い方だった。

 ユリウスは肩をすくめ、それ以上は言わずに脇の工具台へ向かった。だが、手を動かしていても頭の片隅にはさっきの光景が残り続ける。補充兵にしては、あまりに衝突の温度が高すぎた。


 工具の先端で留め具の緩みを確かめていたとき、不意に背後から軍靴の音が近づいてきた。


 軽い。

 だが、焦ってはいない。


 振り返るまでもなく分かる。ユリウスは手を止めずに言った。


「終わったのか」

「終わったわよ」


 クラリスだった。


 会議室帰りの彼女は、訓練後よりは幾分ましな顔をしていたが、完全に機嫌が戻ったわけでもなさそうだった。軍帽は脇に抱え、襟元だけが少しだけ乱れている。会議中に無意識で何度か触ったのだろう。


 クラリスはユリウスの横まで来ると、彼が手元から目を離さないのを見て、小さく息を吐いた。


「普通、戻ってきた相手には“どうだった”くらい聞かない?」

「顔見れば大体分かる」

「何その雑な観測」

「リリィの影響だ」


 クラリスはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 その反応を見て、ユリウスもようやくレンチを置く。


「で、どうだった」

「改編の話」

「やっぱりか」


 そうなるだろうとは思っていた。

 補充機と補充人員が入った以上、今のままの歪んだ配置で回し続けるわけがない。


 クラリスは工具台の端へ腰を預ける。格納庫を吹き抜ける乾いた風が、彼女の短い髪をわずかに揺らした。


「部隊の暫定再編が正式に決まったわ。補充機を含めて運用枠を整理し直す。今までみたいな、その場しのぎの寄せ集めじゃなくて、小隊単位でちゃんと切り分けて回すって」

「珍しく真っ当だな」

「少佐も同じこと言ってた」


 それは少しおかしかった。

 ヴィクトルが実際にそんな言い方をしたとは思えないが、意味としては近かったのだろう。


 クラリスは続ける。


「コンラートが小隊長に上がる」

「……ああ」


 ユリウスはそれを聞いて、さっきの光景が一段くっきりした輪郭を持つのを感じた。単なる先輩後輩の口論ではない。指揮下に入る相手との最初の衝突だったのだ。


「正式には第一小隊長。もともと実質そういう仕事をさせられてたようなものだけど、今度は名目上も、ってことね。少佐直率の枠の下に、小隊単位で運用を組むみたい」


 クラリスはそこで一度、ユリウスの顔を見た。


「あなた、何か見たの?」

「……さっき、そこの通路でな。コンラートと知らない補充兵が揉めてた」

「でしょうね」

「でしょうね、って」


 クラリスは肩をすくめる。


「会議室でも少し話題になったもの。配属表を見た瞬間、整備担当の何人かが“ああ……”って顔してたわ」

「何だそれ」

「つまり、面倒そうだってこと」


 ごく簡潔で、しかし非常に分かりやすい説明だった。


「名前は?」

「エルザ・リーデル。十五歳。補充のオルド搭乗員」


 ユリウスは無意識にその名を頭の中で繰り返した。

 エルザ・リーデル。朝、遠目に見たときより、さっき通路を横切ったときより、名前を知ったことで少しだけ輪郭が現実に寄る。


「年、同じか」

「あなたとね」

「若すぎるな」

「今さら?」


 クラリスの返しは即座だった。

 ユリウスは口を閉じる。


 そうだ。今さらだ。

 十五歳の兵士が珍しくない場所で、同い年の補充兵にだけ若すぎると言うのは、どこかずれている。


 だが、口に出たものは仕方がない。


「……いや」

「分かってる。言いたいことは」


 クラリスの声は少しだけ柔らかかった。

 責めているわけではない。むしろ、自分も同じことを思ったのだろう。


「配属はコンラートの第一小隊」

 彼女は続ける。

「少佐がそう決めたのか、上からそう降りてきたのかは分からない。でも、とにかくエルザはコンラートの指揮下に入る。しばらくは実機訓練も戦術同行も、全部あの人が面倒を見ることになる」


 ユリウスはさっきの二人の間に漂っていた空気を思い出す。


「……面倒を見る、ね」

「見たのなら分かるでしょ。もう既にうまくいってない」

「うまくいってないで済む感じか、あれ」

「済まないでしょうね」


 クラリスはきっぱり言った。


「エルザの方も相当よ。会議の前に一度だけ廊下ですれ違ったけど、あの目はただの新兵の反抗じゃなかった。怯えてるくせに噛みつく目」

「コンラートの方も妙だった」

「ええ。あの人が補充兵に厳しいのはいつものことだけど、あれは少し違った」


 二人のあいだに、短い沈黙が落ちる。


 格納庫の向こう側では、整備兵たちが補充機の最終調整に追われている。工具の打音、空圧の抜ける音、誰かの短い怒声。基地は変わらず動いているのに、その一角だけが微妙に引っかかっていた。


「少佐は他に何か言ってたか」

「言ってたわ。補充が入ったからって、部隊の質が勝手に揃うわけじゃない。だから当面は小隊ごとに練度を見ながら運用するって」

「つまり、慣熟が終わるまで面倒は現場で飲み込めってことか」

「まあ、そういう言い方もできるわね」


 クラリスは帽子を持ったまま、少しだけ視線を落とした。


「あと……私にも、今までみたいな独立気味の動きは減らすって」

「それはいいことだろ」

「頭では分かってる」

「なら問題ない」

「あなた、時々ほんとに容赦ないわね」


 クラリスはそう言ったが、声に棘はなかった。

 むしろ、そういうふうに切ってくれる相手だからここへ戻ってきたのだと、そんな空気すらあった。


 彼女はふと、ユリウスの手元を見る。


「で、あなたは何してたの」

「リリィのとこ行ってた」

「へえ」

「その“へえ”は何だ」

「別に。ただ、珍しいと思って」

「生きてるか確認しに行っただけだ」

「それで?」

「説教された」

「でしょうね」


 クラリスは今度こそ、少しだけ笑った。


 その笑いを見て、ユリウスは胸の奥の硬さがわずかに緩むのを感じる。訓練の敗北だの、会議だの、補充兵だの、面倒なものは山ほどある。それでも、こうして彼女が少しだけ息をつけているなら、今はそれでいいと思ってしまう。


 ――それが健全かどうかは、別として。


 リリィの言葉が、また頭のどこかに引っかかった。


 役割だけに自分を預ければ、いつか中身が空になる。

 何のためにここにいるのか。


 答えはまだない。

 ないままでも、時間だけは勝手に進んでいく。


「クラリス」

「何?」

「エルザのこと、少し気にしておいたほうがいいかもしれない」

「コンラートの小隊なんだから、私が口を出す筋じゃないでしょ」

「そうだけどな」

「……でも、分かった」


 彼女は少し考えるように言った。


「あなたがそう言うなら、一応見ておく」

「俺が言うなら、か」

「ええ。あなた、こういう時だけは妙に勘が当たるもの」


 褒められているのかどうか分からない。

 ユリウスは曖昧に肩をすくめるだけにした。


 その時、格納庫の奥から短い電子音が鳴った。午後訓練の準備信号だ。休憩とも待機ともつかない時間が終わり、また全員が次の段取りへ押し流されていく。


 クラリスは帽子を被り直し、姿勢を整える。


「……行きましょうか」

「また測定か」

「その前に機体確認。ラインフェルト中尉が待ってるでしょうし」

「それは災難だな」

「他人事みたいに言わないで。あなたも来るのよ」

「分かってる」


 そう返しながら、ユリウスはふと通路の先へ視線をやる。


 エルザ・リーデル。

 名前を得たばかりの補充兵。

 コンラートの小隊に配属された少女。


 まだそれだけだ。

 それだけのはずなのに、なぜか胸のどこかに小さな棘のような引っかかりが残っていた。


 やがてその棘が何に繋がるのか、この時のユリウスはまだ知らない。

 ただ、基地の乾いた午後の光の中で、新しく入ってきたひとつの名前だけが、妙に耳の奥へ残っていた。

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