Episode 1 薄氷日和 -Days on Thin Ice- Part 5
リリィ・フォン・シュライフェンを見つけたのは、通信区画のいちばん奥、半ば個室のように仕切られた席だった。
背もたれの高い椅子に小さな身体を埋めるように座り、端末の海に囲まれている。年齢だけ見れば場違いですらある光景なのに、その中心にいる彼女は妙に馴染んでいた。青白い表示光が頬の線を冷たく縁取り、指先だけが忙しなく走っている。机の上には携行端末が二つ、紙のメモが数枚、封の切られていない栄養補助食が一本。食べる暇も惜しんでいるのか、忘れているのか、その両方かもしれなかった。
ユリウスは数歩手前で立ち止まる。
「……生きてたか」
声をかけると、リリィはすぐには振り向かなかった。
指先を止めず、画面を一枚閉じ、もう一枚のウィンドウを脇へ払ってから、ようやく顔だけこちらへ向ける。
「その言葉、再会の挨拶としてはいささか風情に欠けるのではなくて?」
「風情が必要な場所に見えるか」
「見えませんわね。ですけれど、見えないからこそ必要だとする考え方もございますわ」
「説教なら後にしてくれ」
リリィはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑った、というより、相手がいつもの調子であることを確認して緊張を解いたような顔だった。
「おや。今日は随分と率直ですのね」
「昼食のあとに遠回しな言い方をされると眠くなる」
「では簡潔に申し上げますわ。わたくしは生きておりますし、あなたも今のところは死んでおりません。世界は依然として無惨ですが、完全には終わっておりません」
大した返答ではない。
だが、その平板さが妙にリリィらしくて、ユリウスはわずかに肩の力を抜いた。
通信区画の端末列のあいだを、忙しない人影が行き交う。誰も彼らの小さなやりとりには注意を払わない。ここでは全員が何かを抱えていて、他人の顔色まで気にしている暇はないのだろう。
ユリウスは空いている補助椅子を引き、リリィの卓の横へ腰を下ろした。
「忙しそうだな」
「ええ、たいへんに。誰も彼もが“少しだけ確認したいことがある”という顔で寄ってきますの。そういう方々に限って、その“少し”の中に人一人の一日分ほどの仕事を詰め込んでいらっしゃる」
「断れ」
「立場というものをご存じ?」
「知ってる。だから言ってる」
「あなた、時折とても乱暴ですわね」
リリィはぼやきながらも、結局また端末を一枚閉じた。
今この瞬間くらいは手を止めても大丈夫だと判断したらしい。
「それで? わざわざこちらまでおいでになったのですもの、単にわたくしの生存確認だけではありませんのでしょう?」
「……いや、半分くらいはそれだ」
「まあ」
リリィは目を瞬かせる。
驚いたふりが少しだけ大袈裟だった。
「存外お優しいのですね、ユリウス」
「気持ち悪い言い方をするな」
「気持ち悪いとは何ですの。人の情というものを、あなたはもう少し信頼なさるべきですわ」
「信頼できるほど綺麗なもんじゃないだろ」
言ってから、少しだけ口の中が乾く。
自分でも思ったより硬い声が出た。
リリィはそれを咎めず、ただ静かにユリウスを見る。
その視線が妙に真っ直ぐで、ユリウスは先に目を逸らした。
「……クラリスは?」
リリィが問う。
「ヴィクトルに呼ばれた。搭乗員招集」
「では、いま一人でここへ?」
「そうなるな」
リリィは、ふむ、と小さく息を漏らした。
「それはまた、いかにも今のあなた方らしい構図ですこと」
「どういう意味だ」
「片方が呼ばれれば、もう片方は“その場にいないまま待っている”。近しいようでいて、決して同じ場所には立てない。けれど離れていると、互いに落ち着かない。簡潔に申し上げれば、たいへんに不健康ですわ」
ユリウスは眉を寄せる。
「お前、最近そういうことばっかり言うな」
「最近ではありません。以前から申し上げております。ただ、以前のあなたは聞き流し、以前のクラリスは聞いても認めませんでしたの」
それはその通りかもしれない。
ユリウスは否定せず、卓上に置かれた封も切られていない補助食へ視線を落とした。
「お前も人のこと言えないだろ」
「わたくしは少なくとも、自分がどこに縛られているかくらいは把握しております」
リリィはさらりと言った。
その声音があまりに平坦で、ユリウスは逆に返す言葉を失う。
区画の奥で、通信兵が誰かの名を短く呼ぶ声がした。
それに応じる別の声。機械の駆動音。冷却ファンの低い唸り。通信区画は休みなく動いているのに、リリィの周囲だけが妙に静かに感じられた。
「人間は、自らの役割によって救われることがありますの」
ふいに、リリィが言う。
説法の前触れだ、とユリウスは思った。
思ったが、止める気にはならなかった。どうせ止めても、彼女は別の言い方で同じことを口にする。
「ですが同時に、役割だけに自らを預ければ、容易く空っぽにもなりますわ。何かのために働く、誰かのために尽くす、それ自体は尊いことですのよ。けれど“何のためにここにいるのか”という問いを、全部役割へ丸投げしてしまえば、その役割が失われた瞬間、人は自分の輪郭まで見失ってしまう」
ユリウスは、聞き流すつもりでいた。
聞き流す。
いつものように。
リリィの言葉は時折長すぎて、時折難しすぎて、真正面から受け止めるには少し骨が折れる。
だが、その“何のためにここにいるのか”という一言だけが、妙に引っかかった。
引っかかったまま、心のどこかへ沈みきらない。
「……急にどうした」
「急ではありませんわ。むしろ継続的な観測の結果です」
「何を観測した」
「あなたを」
ユリウスは顔をしかめる。
「やめろ。気持ち悪い」
「褒め言葉として受け取ってくださいまし」
「受け取れるか」
リリィはくすりと笑い、それから少しだけ目を伏せた。
「あなたは、整備兵として動く時がいちばん呼吸が整っておりますの。機体を見ている時、損耗を読んでいる時、誰かの補佐をしている時。逆に、自分自身のことを問われると急に曖昧になる」
「そんなことは」
「ありますわ」
遮るように言われ、ユリウスは言葉を失う。
「それが悪いとは申しません。むしろ前線では、たいへんに有用な資質ですもの。自分より先に他者へ目が向く。壊れたものを直そうとする。欠けたところを埋めようとする。立派なことですわ」
リリィはそこで一度だけ言葉を切り、ユリウスを見上げた。
「ですが、あなたご自身が“何のためにそこにいるのか”を曖昧なままにしておくと、いつか他人の破損ばかり直して、自分の中身が空になる日が来ますわよ」
軽い口調だった。
説教のようでもあり、からかいのようでもある。
けれどそのどちらでもないことくらい、ユリウスにも分かった。
だから余計に、面倒だった。
「……お前、十歳のくせに言うことが年寄りじみてるな」
「年齢によって真理の価値が減ずるわけではございません」
「真理だと思ってるのが面倒なんだよ」
「面倒であっても、真理は真理ですわ」
ユリウスは小さく息を吐く。
反論しようと思えばできる。
自分は整備兵で、補助要員で、今は脚も万全ではなくて、前線で大きな役を果たせる人間ではない。だからこそ、できることをやっているだけだと。
だが、その“できることをやっているだけ”という言葉が、いまは妙に空疎に聞こえた。
自分は何のためにここにいるのか。
クラリスの隣にいるためか。
整備兵として機体を繋ぐためか。
部隊の欠けた部分を埋めるためか。
どれも間違ってはいないはずなのに、どれ一つだけでは足りないような気がする。
「……考えこんでおりますわね」
「考えてない」
「考えている方の台詞ですわね、それは」
「うるさい」
リリィはそれ以上追及しなかった。
その代わり、封の切られていない補助食を一本、ユリウスの方へ押しやる。
「差し上げます」
「要らない」
結局、ユリウスはそれを受け取った。
断るのも面倒だったし、たぶんリリィは断られても机の上に置いていくだけだろう。
「じゃあな」
「ええ。クラリスにも、あまり無理はなさらぬようにと」
「お前から言え」
「わたくしが申し上げても、あのお方は大半を聞き流しますもの」
「俺だと聞くみたいな言い方だな」
「少なくとも、あなたがそこにいるかどうかは気にしておいででしょう?」
ユリウスは答えなかった。
答えないまま立ち上がり、通信区画をあとにする。
廊下へ出ると、冷えた空気がさっきより少しだけ乾いて感じられた。
補助食の包みが制服のポケット越しに小さく角張っている。
自分は何のためにここにいるのか。
リリィの言葉が、やけにしつこく残っていた。
考えるだけ無駄だ、とユリウスは思う。
こういう問いは大抵、まともな答えを返してこない。前線ではなおさらだ。意味を探しているあいだにも、人は死ぬし、機体は壊れるし、次の命令は降ってくる。
それでも、完全には振り払えなかった。
〇
格納庫へ向かう通路に入ると、遠くから甲高い声が聞こえた。
少女の声だ、と分かる。
だが内容まではまだ聞き取れない。
続いて、低く抑えた男の声。コンラートだ。
ユリウスは自然と足を速める。
格納庫脇の補助整備区画へ差しかかったところで、ようやく全体が見えた。
新しい軍装にまだ身体が馴染んでいないような、あの補充の少女。
その前に立ちはだかるように、コンラート・ヴェルナーがいた。
「だから、勝手に触るなと言ったはずだ」
コンラートの声は怒鳴っていない。
怒鳴ってはいないが、その低さが却って空気を硬くしていた。
少女は負けじと睨み返す。
背丈の差も、階級の差も、経験の差もどうでもいいと言わんばかりの目だった。
「触っていません。ただ確認しただけです」
「確認と接触の区別もつかねえのか」
「あなたの基準で全部決めないでください」
「基準の話をしてるんじゃねえ。お前が未許可で機体に近づいたって話だ」
「自分の乗機の状態を確認することの何が問題なんです?」
「問題になる場所だから言ってる」
火花のように言葉が弾ける。
整備兵が二人ほど、少し離れた位置で露骨に関わるのを避けながら様子を窺っていた。
ユリウスは足を止める。
朝、遠目に見かけただけの少女だった。
名前も知らない。どの中隊から回されてきたのかも分からない。だが、いま目の前で交わされているやりとりには、単なる先輩後輩の摩擦では済まない熱があった。
「……あんたにだけは言われたくないんです」
少女が吐き捨てるように言う。
その一言に、コンラートの表情がほんの一瞬だけ止まった。
短い、本当に短い沈黙。
次の瞬間には、もういつもの無愛想な顔に戻っていたが、ユリウスは見逃さなかった。今の言葉は、単なる反抗ではない。何か別の棘が混じっている。
「言いたいことがあるなら、軍規に通る言い方を覚えろ」
「軍規に通れば、何を言ってもいいんですか?」
「少なくとも今のお前のそれよりは聞く価値がある」
「……っ」
少女の唇がきつく結ばれる。
悔しさか、怒りか、その両方か。握りしめた拳が小さく震えていた。
コンラートはなおも動かない。
距離を詰めるでもなく、退くでもなく、ただそこに立っている。
その姿を見ながら、ユリウスは理由の分からない居心地の悪さを覚える。
どこかで見た構図だった。
言葉が足りない大人と、感情を持て余した若者。
だがそれだけではない。二人のあいだには、説明のつかない古い軋みのようなものがあった。
少女が荒い息を整えるように一度だけ肩を上下させ、それからコンラートを睨んだまま言う。
「……本当に、最低」
それだけ言って、踵を返す。
少女はユリウスのすぐ脇を通り過ぎた。
その時だけ、彼女の横顔がちらりと見える。思ったより幼い。けれど、その目の底には年相応ではない硬さが沈んでいた。
彼女はユリウスに気づいたかもしれない。
だが、何も言わずそのまま通り過ぎていく。
あとには、何とも言えない沈黙だけが残った。
コンラートは去っていく背中を追わなかった。
追わず、ただ視線だけをその先へ向けたまま、しばらく動かなかった。
ユリウスは数秒迷ってから、ようやく口を開く。
「……何ですか、今の」
コンラートはすぐには答えない。
答えないまま、少女の消えた通路の先を見つめている。
やがて、ひどく面倒くさそうに息を吐いた。
「補充兵だ」
「それは見れば分かりますけど」
「なら十分だろ」
いつもの調子だった。
だが、その声の底に沈んでいるものだけは、いつもよりわずかに重かった。
ユリウスはそれ以上追及しなかった。
追及しても、この男は今は話さない。そういう種類の沈黙であることくらい、短い付き合いでも分かる。
格納庫の乾いた空気の中で、答えのない問いだけが妙に鮮明に残った。




