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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 1 薄氷日和 -Days on Thin Ice- Part 4

 昼食は、味よりも熱量を優先したようなものだった。


 フォート・グラーデンの食堂は、基地全体の喧騒から切り離された休息の場というより、兵士を次の数時間だけ動かすための補給所に近い。金属製の長机が規則正しく並び、天井の照明は白く、必要以上に明るい。食器同士が触れ合う乾いた音と、抑えた話し声と、遠くで回り続ける換気装置の低い唸りが、ひとつの平板なざわめきになって空間へ沈んでいた。


 ユリウスとクラリスは、窓際から少し離れた端の席に向かい合って座っていた。


 トレイの上には、濃い塩気だけが印象に残るスープ、固めの黒パン、豆と芋を煮た簡素な副菜、それから薄い肉片が数切れ。見た目からして前線らしい昼食だったし、実際、味も前線らしかった。悪くはない。ただ、喜ぶような余裕もない。


 クラリスはスプーンを手にしたまま、しばらく湯気の立たないスープを見ていた。


「冷めるの早いわね」

「最初から熱くない」

「夢がない言い方」

「夢で腹は膨れないだろ」


 クラリスはそこで小さく鼻を鳴らし、ようやく一口含む。

 表情は変わらない。だが、訓練場から戻った直後よりは、わずかに肩の力が抜けているように見えた。


 ユリウスはパンをちぎりながら、正面の彼女を一瞥する。


 訓練の敗北も、ラインフェルト中尉の説明も、クラリスの中で消化されたわけではない。そんなことは分かっている。分かっていて、あえて触れない。今の二人には、すぐに言葉へしないまま隣にいる、というやり方のほうがまだ馴染んでいた。


 周囲では、他の兵士たちが短い昼食を慌ただしく胃へ流し込んでいる。笑い声は時折あるが、長続きはしない。誰もが次の予定を知っていて、その合間にただ黙って食べているような空気だった。


 クラリスがフォークで肉を突きながら、ふいに言う。


「あなた、午後は整備区画?」

「そのはずだ」

「“そのはず”ね」

「変更はいつものことだろ」

「ここでは、ってつけなさいよ」


 また、そんなふうにどうでもいいやりとりを交わす。

 どうでもいい、ということにしておかないと保てない距離がある。ユリウスはそれを分かっていたし、クラリスもまた多分、同じように分かっていた。


 クラリスはスプーンを置く。


「ねえ」

「何だ」

「今日、もし私の測定が長引いたら」

「終わるまで待つ」

「……まだ何も言ってないんだけど」


 ユリウスは肩をすくめる。


「似たようなことだろ」

「……そうね」


 クラリスは少しだけ目を伏せた。

 それ以上は言わない。だが、その短い沈黙の中に“ありがとう”に近い何かが混じっていることくらい、ユリウスにも分かった。


 その時だった。


 食堂入口の脇に据えられた拡声装置が、短い電子音を鳴らす。

 ざわめきが、ほんのわずかに薄くなった。


『第十二独立戦闘群所属オルド搭乗員へ通達。繰り返す。第十二独立戦闘群所属オルド搭乗員は、第三戦術会議室へ至急集合』


 平板な音声が食堂全体へ流れ、すぐに切れた。


 クラリスの指先が、トレイの縁をわずかに叩いた。反射のような、ごく小さな動きだった。


「……至急、だって」

「聞こえた」


 ユリウスは答えながら、彼女のトレイを見る。

 食事はまだ半分ほど残っていた。


 クラリスもそれに気づき、ほんの一瞬だけ眉を寄せたあと、諦めたように息を吐く。


「最悪」

「食べてから行く気か?」

「そんな時間くれるなら、少佐は“至急”なんてつけないでしょ」


 言いながら椅子を引く。

 立ち上がる動作は素早いが、どこか落ち着かなさが残っていた。訓練後の揺れが完全には消えていないのだろう。


 ユリウスも腰を浮かせかけたが、クラリスは小さく首を振った。


「いい。あなたまで来なくて」

「別に、会議室の前までなら」

「整備兵が何しに行くのよ」

「送るくらいはできる」

「できるでしょうね。でも、しなくていい」


 言葉はいつも通りだった。

 少しだけ硬い。少しだけ強がっている。


 クラリスはトレイから視線を上げ、ユリウスをまっすぐ見る。


「……食べて。どうせまた午後も長くなるんだから」


 それは命令というより、確認に近かった。

 自分がいない間も、お前はちゃんとここに残るのだと、そう確かめるような言い方。


 ユリウスは一拍だけ黙り、それから頷く。


「分かった」

「終わったら、格納庫」

「分かってる」

「ならいいわ」


 それだけ言って、クラリスは踵を返す。


 軍靴の音が、食堂の床を乾いて打つ。

 白い照明の下をまっすぐ歩いていく背中は、遠目には何も揺れていないように見えた。だが、ユリウスには見える。肩甲骨のあたりに残った、わずかな硬さ。呼ばれるたびに彼女の中で強張る、見えづらい部分の動き。


 食堂の出口で一度だけ、クラリスは振り返りかけた。

 実際には振り返らなかった。だが、その一瞬の間だけで十分だった。


 ユリウスは何も言わず、軽く顎を引く。

 クラリスはそれを見届けたように、そのまま食堂を出ていった。


 彼女の姿が見えなくなってから、ユリウスはゆっくりと椅子へ座り直す。


 向かいの席は、急に広くなったように見えた。

 さっきまで気にならなかった換気音が、やけに耳につく。


 残されたスープはぬるかった。

 黒パンは相変わらず固い。けれど、ここで手を止めれば、きっと後で頭が回らなくなる。そういう経験則だけは、この基地へ来てから嫌というほど覚えた。


 ユリウスは無言でパンを口へ運ぶ。


 食べながら、ぼんやりと食堂の景色を眺めた。

 数列向こうでは整備兵たちが短く何かを言い合い、別の卓では歩兵が雑にスープを飲み干している。誰もが忙しい。誰もが疲れている。そのくせ基地は、こうして何事もない顔で昼を回していく。


 クラリスも、今ごろは第三戦術会議室へ向かっているのだろう。

 ヴィクトルの招集だ。十中八九、補充機の再配置か、哨戒区域の再編か、あるいは新任搭乗員を含めた運用の擦り合わせ。そのどれであっても、彼女が気を休められる類の話ではない。


 ユリウスは最後のパンを口へ押し込み、スープを飲み干した。


 腹は満たされた、とは言い難い。

 だが空にはならなかった。それで十分だ。


 トレイを返却口へ戻したあと、彼はまっすぐ食堂を出る。

 向かう先に迷いはなかった。


 リリィのいる通信区画は、食堂棟から中枢側へ二棟分離れている。

 司令部補助区画に近いその一帯は、前線基地の中でも少し空気が違う。武骨な食堂や格納庫の雑然とした喧騒に比べて、あちらには情報が集積する場所特有の張りつめ方があった。声は抑えられ、足音は早く、誰もが何かの伝達途中にいるような顔をしている。


 外へ出ると、昼の光は朝よりもいくらか強くなっていた。

 ただし暖かさはない。乾いた空気が防壁沿いを抜け、細い砂を巻き上げていく。遠くでは輸送車両が低く唸り、対空塔の影が短く地面へ落ちていた。


 ユリウスは歩きながら、無意識に通信端末へ触れる。

 クラリスからの連絡はない。今のところは、それでいい。


 その代わりに思い出すのは、ここ数日まともに顔を合わせていないリリィのことだった。ACT2後半、彼女は司令部側の動きと戦闘ログの処理に深く巻き込まれ、ユリウスやクラリスとは違う種類の忙しさの中にいた。顔を出しても、いつも机の上に端末と書類を積み上げ、子どもらしからぬしかめ面で何かを睨みつけている。あの小さな肩へどれほどのものが載せられているのか、考えたくない時がある。


 だからこそ、一度ちゃんと見ておきたかった。

 大丈夫かどうかを確認したい、というより、そうしないと自分のほうが落ち着かなかった。


 通信区画の入口前で、警備兵が一瞥を寄越す。

 ユリウスは身分証を提示し、短い確認を受けて中へ入った。


 室内は、外よりもひんやりしていた。

 機器冷却のために温度を落としてあるのだろう。並んだ端末列の上では光学表示が絶えず点滅し、奥では数名の通信兵がヘッドセット越しに短い応答を繰り返している。誰もが声量を抑えているのに、その沈んだざわめきがかえって空間全体を忙しなく見せていた。


 ユリウスはそこで一度立ち止まる。


 この雑多な機械の海のどこかに、リリィがいる。


 ――相変わらず、無茶をしていなければいいが。


 そんなことを思いながら、彼は視線を巡らせた。

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