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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 1 薄氷日和 -Days on Thin Ice- Part 3

 模擬戦闘区画の空は、ひどく白かった。


 雲がないわけではない。だが、薄く引き延ばされた膜のような曇りが、訓練場全体から色彩だけを奪っていた。フォート・グラーデン外縁に設けられた戦闘訓練区画は、実戦を想定して荒野の地形をそのまま切り取ったような造りになっている。砕けた岩塊、浅い窪地、埋設障害物、半壊した掩体の残骸。砂塵を巻けば、遠目には本戦と見分けがつかない。


 だが、これは実戦ではない。

 少なくとも、名目上は。


「開始」


 通信回線の向こうで短く告げる声と同時に、クラリスは操縦桿を握り直した。


 オルドの駆動音が、背骨の裏側へ鈍く響く。

 コックピットは密閉され、外気の乾きは遮断されているはずなのに、喉の奥は妙に乾いていた。


 前方三百。岩陰。


 ディスプレイ上の輪郭標示が一瞬だけ揺らぎ、すぐに安定する。

 コンラート機は正面から来ない。来るはずがない。あの男は、訓練でさえ真正面から付き合うような操縦をしない。


「右を警戒しろ」


 別回線で飛び込んできたユリウスの声は、短く、感情が薄かった。

 整備区画から回された補助観測席。彼は今回、機体外部の挙動監視と通信補助に入っている。


「分かってる」


 答えながら、クラリスは機体を半歩左へ滑らせた。

 その瞬間、右前方の掩体残骸の陰から、灰色の機影が低く噴き出す。


 速い。


 反応そのものは間に合った。

 クラリスは咄嗟にオルドの上体を捻り、模擬ブレードの斬線を紙一重で逸らす。だがコンラートは一撃で終わらせない。踏み込み、外し、そのまま最短の角度で二撃目を重ねてくる。経験で組み上げられた、いやらしいほど無駄のない攻めだった。


 衝撃。

 模擬弾着判定。


 左肩装甲、被弾表示。


 クラリスは舌打ちし、距離を切るため逆噴射をかけた。オルドの脚部が砂を噛み、機体が後方へ滑る。視界の端で警告表示が点滅した。


「遅い」


 コンラートの声が回線越しに響く。

 低く、抑えた、いつもの声だった。


「分かってるわよ」

「分かってるだけなら意味はねえ」


 再び接近。

 今度は正面から圧をかけるように見せて、途中で軸をずらす。フェイントではない。最初からそういう軌道なのだ。相手の視線と反応を読んだうえで、最短で死角に入る操縦。


 クラリスは追う。追いつけない。

 機体は動いている。応答も悪くない。なのに、半拍だけ遅れる。


 脳裏に、あの時の感覚がちらついた。


 あの戦場で。

 未調整の機体に半ば喰い込まれるように接続されたときの、あの異様な一体感。手足ではなく、自分の思考そのものが装甲と駆動骨格の隅々まで走っていくような、あの熱。


 けれど今はない。


 今ここにあるのは、訓練用に調整された応答曲線と、安全域に収められた制御補助と、規定値の中で整然と動くオルドだけだった。


 コンラート機の模擬ブレードが、再び視界いっぱいに迫る。


 回避。

 間に合わない。


 衝撃。


 胸部正面、致命判定。


 ディスプレイ中央に無機質な赤字が灯る。


――SIMULATED KILL


 コックピットの中に、短い沈黙が落ちた。


 数秒遅れて、訓練終了を告げる信号音が鳴る。

 クラリスは操縦桿から手を離さず、そのまま正面を見続けた。指先に、わずかに力が残っている。呼吸だけが少し浅かった。


「終了だ」


 コンラートの声は変わらない。

 勝者の高揚も、敗者への労りもない。ただ事実だけを告げる声音だった。


「……ええ」


 返した自分の声が、思ったより平板で、クラリスは少しだけ救われる。少なくとも、負けを飲み込めない子どもの声にはなっていない。


 オルドを停止モードへ移し、ハッチ解放の手順に入る。

 外気が流れ込んできた瞬間、コックピット内の熱が急に現実味を帯びた。


 訓練監視ブースの脇では、神経同期観測官イルゼ・ラインフェルト中尉が、携帯端末に表示された波形群を無表情に追っていた。階級章の新しさと張り詰めた姿勢が、まだ若い士官であることを却って際立たせている。軍装は几帳面に整えられ、癖のない所作のひとつひとつに、軍務への忠実さが滲んでいた。その横にはユリウスが立っている。彼はクラリスが降りてくるのを見たが、すぐには何も言わなかった。


 先に口を開いたのは、ラインフェルト中尉のほうだった。


「結論から申し上げます」


 声は乾いていた。

 実験報告を読み上げる時の声だ、とクラリスは思った。


「前回戦闘時に観測された異常値の再現には至っていません。今回の同期深度は全域で安全規定内。位相偏差も許容範囲内です。反応速度の上振れも限定的。通常操縦者としては優秀ですが、前回と同質の現象は確認できませんでした」


 クラリスは眉を寄せる。


「言い方を変えてもらえるかしら」

「再現していない、ということです」


 ラインフェルト中尉は端末を数回操作し、空中投影に複数のグラフを表示した。


「正式名称はシナプス位相同期システム。オルド操縦系の中核を担う同期機構です。現場では“神経リンク”、あるいは単に“リンク”“同期”と呼ばれていますが、実際に行われているのは操縦者の神経発火パターンと機体制御系の演算位相を一致させる処理です」


 空中に、人体神経網の模式図とオルドの内部制御フレームが並ぶ。

 その間を結ぶ光の線が、脈打つように明滅していた。


「人間が機体を操縦する際、問題になるのは単純な信号伝達速度ではありません。脳から四肢へ命令を送る生体側の発火と、機体側の駆動演算には根本的に別種の遅延が存在する。これをそのまま繋げば、操縦者は常に“半拍遅い身体”を動かすことになる」


 ラインフェルト中尉は、投影された波形から視線を外さず続ける。


「シナプス位相同期システムは、その遅延差を埋めるためのものです。神経パルスの発火傾向、筋出力予測、認知反応の位相偏移をリアルタイムで解析し、機体側の駆動予測演算と重ね合わせる。リンクが正常に成立している時、操縦者はオルドを“操る”のではなく、“自分の身体の延長として扱える”状態に近づく」


 ユリウスが横から、低く付け足した。


「要するに、考えてから動かすんじゃなく、動こうとした時点で機体が先回りする」

「概ねその理解で構いません」


 ラインフェルト中尉は短く頷いた。


「ただし、その先回りには限界があります。同期が浅ければ反応遅延が残り、深すぎれば逆に操縦者側へ負荷が返る。頭痛、吐き気、判断飽和、運動野の誤同調――最悪の場合、操縦者の認知そのものが機体制御へ引きずられる」


 クラリスは黙ったまま投影を見つめる。

 前回、自分の中で何が起きていたのか。その説明としては、あまりに冷たく、あまりに正確だった。


「前回あなたに起きた現象は、通常の安全域を明確に超えていました」


 ラインフェルト中尉が別の波形を呼び出す。

 今のなだらかなグラフとは違う。鋭く跳ね上がり、途中で何度も閾値線を突き抜けている。


「同期深度の異常上昇。位相偏差の強制収束。出力予測の前倒し補完。簡潔に言えば、機体側があなたへ合わせたのではなく、あなたと機体が一時的に危険域で噛み合ってしまった」

「……じゃあ今回は?」

「起きていません」


 ラインフェルト中尉は即答した。


「今回のリンクは安定しています。優秀です。ですが優秀であることと、前回の異常現象が再現されることは別問題です。あの数値は訓練環境下では出ていない。要因として考えられるのは実戦時の極度のストレス、機体側の未調整状態、操縦者の生理反応、周辺戦況による認知圧迫――複合的です。再現条件は、現時点では未確定です」


 そこでコンラートが機体脇から歩いてくる。

 ハッチを開けたまま、額の汗を拭うこともなく、投影された波形を一瞥した。


「要するに、戦場じゃないと出ねえかもしれねえってことだろ」

「可能性としては」

「曖昧ね」


 クラリスの声は静かだった。

 だが、その静けさの底にいら立ちが沈んでいるのをユリウスは聞き取る。


「前はできた。今回はできなかった。それだけでしょ」

「違います」


 ラインフェルト中尉は少しも声を荒げずに言った。


「前回は“できた”のではなく、“起きた”のです。そこを混同しないでください。意図して発動できない現象は技能ではありません。少なくとも、現段階では」


 数秒、誰も言葉を挟まなかった。


 風が訓練区画を抜け、砂を薄く攫っていく。

 投影グラフの青白い光だけが、その場に不自然な静けさを作っていた。


 クラリスは小さく息を吐く。


「……つまり私は、まだただの操縦士ってこと?」


 ラインフェルト中尉は言葉を選ぶように、ほんのわずかだけ間を置いた。


「現在の測定結果だけを基にするなら、あなたは高水準の適性を持つ操縦士です。それ以上でも、それ以下でもありません」


 その言い方は、慰めにも侮辱にも聞こえた。


 コンラートは鼻を鳴らす。


「聞いただろ。なら今日は終わりだ」

「あなたは気楽でいいわね」

「気楽じゃねえよ」


 コンラートの声は低い。

 だが怒鳴らない。怒鳴る必要がないからだ。


「再現しねえ力を当てにして戦うほうが、よっぽど気楽だ。今日負けた理由は数値じゃない。お前が迷ったからだ」


 クラリスの目が細くなる。


「迷ってなんか――」

「迷ってた」


 短く断ち切るように言って、コンラートは彼女を正面から見る。


「前と同じ何かが来るのを待ってた。来なかった。だから半拍遅れた。そんだけだ」


 訓練場の空気が、少しだけ硬くなる。


 ラインフェルト中尉は口を挟まなかった。

 ユリウスもまた、何も言わない。


 けれどその沈黙の中で、クラリスが何かを呑み込んだのが分かった。反論でも怒りでもなく、もっと別の、声にしづらい何かを。


 前回の自分は特別だったのか。

 今の自分はそうではないのか。

 それとも、特別だったという認識そのものが間違っているのか。


 彼女の顔には出ない。

 だが、ユリウスには分かる。そういう種類の揺れを、ここ最近ずっと近くで見てきたからだ。


 ラインフェルト中尉が投影を消した。


「午後に再測定を行います。次は対複数仮想目標。可能であれば位相負荷を一段階上げる。記録は司令部に提出します」


 それだけ告げると、端末を抱えて踵を返す。

 その背中には興味も失望もない。ただ軍務を正確に遂行する者の、鋭く細い緊張だけが残っていた。


 残された沈黙の中で、クラリスはまだ動かなかった。


 ユリウスは一歩だけ近づく。

 何か言うべきか迷ったが、結局、口を開いた時にはごく短い言葉しか出てこなかった。


「……水、持ってくる」


 クラリスは少し遅れて、かすかに頷く。


 それだけだった。

 それだけで充分だと、今の二人はどこかで知っているのかもしれない。

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