Episode 1 薄氷日和 -Days on Thin Ice- Part 2
同じ朝でも、格納庫側の空気は宿舎棟とは別の生き物のようだった。
冷えた風は通っているはずなのに、ここでは油と熱の匂いが先に立つ。整備架台の金属音、搬送台車の車輪が擦れる音、遠くで誰かが怒鳴り、それに短く応える声。人が起きるのではなく、機械が先に目を覚ます場所だった。
ユリウス・ハルトマンは、片脚にわずかな重さを残したまま、その通路をゆっくり歩いていた。
傷は塞がっている。
少なくとも、軍医はそう言った。
日常動作に大きな支障はない。補助具も、常時必要というわけではない。ただ、長く歩けば鈍い痛みが芯に残り、咄嗟に踏み込む動作では、まだ以前のように身体がついてこない。治った、と言い切るには早い。だが戦場では、その“早い”を待ってくれる者はいない。
だから結局、彼は戻ってきていた。
以前と同じ場所へ。
以前と同じようでいて、決して同じではない立場へ。
その半歩後ろを、クラリス・フォーゲルが歩いている。
彼女の歩調は静かだった。軍靴が床を打つ音に無駄がなく、姿勢も崩れていない。遠目に見れば、何事もなかったかのような顔で、何事もなかったかのように歩いていた。
だが、ユリウスは知っている。
彼女が夜をうまく眠れていないことも。
リンク試験のあとは必ず顔色が悪くなることも。
機体の起動音を聞いた瞬間だけ、呼吸が一拍ずれることも。
知っていて、何も言わない。
クラリスもまた、ユリウスの脚が冷えた朝ほどわずかに重くなることを知っているはずだったが、それを指摘することはなかった。
今の二人のあいだには、そういう沈黙が増えていた。
奪還戦のあと、しばらくのあいだ彼らは部隊の誰よりも忙しく、そして誰よりも曖昧な場所へ置かれていた。
クラリスは戦闘記録の提出、神経リンクの再測定、軍医と技術士官による問診、機体適性の確認、非公開の聴取。
ユリウスは負傷後の経過観察に加えて、整備班への復帰調整、戦闘時の行動報告、現場で見たことの聞き取り、補修区画の手伝い。
そしてその合間に、二人は妙に一緒にいた。
待合室で。
廊下で。
書類を渡される机の前で。
誰かの呼び出しを待つ短い時間の中で。
リリィが司令部や通信区画で政治と戦況の濁流に呑まれていたころ、ユリウスとクラリスはもっと狭く、もっと個人的な場所で足止めされていたのだ。
クラリスは一人で技術区画へ行くことを嫌がった。
嫌がる、というほど露骨ではない。ただ、ユリウスが別方向へ行こうとすると、何も言わずに視線だけで追った。
ユリウスもまた、彼女を一人で行かせることに妙な落ち着かなさを覚えていた。
結局、呼ばれない限り二人は同じ椅子の列に座り、同じ時刻に食堂へ行き、味のしない食事を向かい合って口へ運んだ。会話は多くなかった。必要なことだけを言い、それ以上は互いに踏み込まない。けれど、離れて過ごすよりは、その沈黙のほうがまだましだった。
あまり健全な形ではない、とユリウスは思うことがある。
自分がいないとクラリスは不安定になるのではないか。
クラリスの様子を見ていないと、自分のほうが落ち着かなくなるのではないか。
答えは出していない。
出したところで、今さらどうしようもないことも分かっていた。
「……また考えごと?」
前を見たまま、クラリスが言った。
ユリウスはわずかに目を細める。
「してない」
「してる顔よ」
「お前は人の顔を何だと思ってる」
「少なくとも、分かりやすいほう」
淡々とした応酬だった。
昔のように棘があるわけではない。かといって、甘さがあるわけでもない。
言葉そのものより、そのやりとりが続いていることのほうが、二人には自然だった。
格納庫脇の通路へ差しかかったとき、クラリスがふと視線を横へ流した。
「……見ない顔」
ユリウスもつられるようにそちらを見る。
中央通路の向こう、朝の流れの中を一人の少女が歩いていた。軍装はまだ新しく、歩き方にはわずかな硬さがある。背筋だけは妙に強情そうに伸びていて、それが却って場慣れしていなさを際立たせていた。
補充か、とユリウスは思う。
最近この基地では、人が増えたり減ったりする速度が速すぎる。知らない顔を見るたびに逐一気にしていてはきりがない。昨日までいた者が今日はいなくて、今日来た者の名を覚える前に明日には別の場所へ送られることもある。
「新しい操縦士かしら」
「かもな」
「ずいぶん若く見えるけど」
「ここじゃ珍しくもない」
自分で言ってから、その言葉の冷たさが少しだけ喉に引っかかった。
珍しくない。
だから何だというのか。
ユリウスが視線を戻すと、クラリスもそれ以上は追わなかった。少女はただ朝の通路を横切っただけの、まだ名前も役割も知らない影にすぎない。今この瞬間の二人にとって重要なのは、もっと別のところにあった。
今日のクラリスには午前の再測定が入っている。
そのあと、調整中のオルドの挙動確認。
ユリウスは整備班の補助に入りながら、必要ならその試験にも立ち会うことになっていた。
「また嫌な顔してる」
「してない」
「してるわよ。測定室に連れていかれる前の囚人みたいな顔」
「お前こそだろ」
クラリスはそこで、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったというには薄い。だが、まったく笑っていないわけでもない。奪還戦のあとでそういう顔を見せるのは、少し久しぶりだった。
「……今日、終わったら」
クラリスが言いかけて、言葉を止める。
「何だ」
「別に。ただ……時間があるなら、格納庫にいて」
「いつもいるだろ」
「そうだけど」
そこで彼女は一度だけ視線を逸らした。
「ちゃんと、いるって分かってるほうが……やりやすいから」
その言い方が、自分でも気に入らなかったのだろう。
語尾がわずかに硬かった。
ユリウスは返事をする前に、ほんの一瞬だけ息を止める。
それは依存だ、と言えばたぶん正しい。
だが、自分が同じことを少しも思っていないかと問われれば、答えに詰まる。
「分かった」
「……うん」
それだけで会話は終わる。
だが、その短いやりとりの中に、ここ最近の二人の関係がほとんどすべて詰まっていた。
互いの傷を治せるわけではない。
救えるとも限らない。
それでも、相手が視界にいることだけで、どうにか立っていられる。
脆い、とユリウスは思う。
危うい、とも。
けれど今はまだ、その危うさを手放すほうがよほど怖かった。
通路の向こうでは、さっきの見知らぬ少女の姿はもう見えなくなっていた。
気にも留めないまま、二人はそのまま歩を進める。
補修の匂いが残るフォート・グラーデンの朝。
奪還の余熱も、喪失の残響も、誰の傷も、何ひとつ片付いてはいない。
それでも基地は動き続ける。人が歩き、機体が整備され、命令が配られ、次の戦いに間に合うように今日が押し進められていく。
その流れの中で、ユリウスとクラリスもまた、まだ名前も知らない新しい誰かと、いずれ交わることになる。
だがこの時の二人は、まだ知らなかった。
あの小さな影が、やがて自分たちの均衡を静かに揺らし、遠くない未来にひとつの死と、ひとつの決意へ繋がっていくことを。




