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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅲ 熾火
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Episode 1 薄氷日和 -Days on Thin Ice- Part 1

 薄い紙は、何度も開かれ、何度も閉じられたせいで、折り目のところからわずかに白く傷んでいた。


 少女は、それを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。


 部屋の中は静かだった。窓の外では風が鳴っているはずなのに、ここまで届く頃にはその音も痩せて、ただ遠くで何かが擦れているようにしか聞こえない。机の上に置かれた小さな照明だけが、紙の端を淡く照らしていた。


 もう何度読んだか分からない。


 書かれている言葉は、最初から変わっていない。

 けれど読むたびに、違う場所が痛んだ。


 最初は、ただ懐かしかった。

 次は、胸が詰まった。

 その次は、腹の底が冷えた。

 今はもう、どこがどう痛いのかすら、うまく言葉にできない。


 紙面に並ぶ文字は柔らかかった。

 あの人の字だ、とひと目で分かる、少しだけ癖のある筆致。はねるところは軽く、払いは細く、急いで書いたはずなのに、妙に整っている。読み返すたびに、その筆圧の向こう側から、書いていたときの呼吸まで伝わってくる気がした。


 元気でいること。

 心配しないでほしいということ。

 ここでの暮らしにも少しずつ慣れてきたということ。

 厳しいことは多いけれど、案外なんとかなるものだということ。


 そんなふうに、手紙にはいつだって大したことは書いていなかった。


 つらいとは書かない。

 怖いとも書かない。

 寂しいとも書かない。


 代わりに、空の色だとか、食堂の味だとか、古い機械の音がうるさいだとか、くだらない話ばかりが並んでいた。読む側を安心させるために、わざとそうしていたのだと分かっている。分かっているからこそ、余計に苦しかった。


 あのとき、止めればよかったのだ。


 軍に入ると言ったあの日。

 まっすぐに前を見たあの横顔を、無理にでも引き留めればよかった。怒ってでも、泣いてでも、みっともなく縋ってでも、行かせなければよかった。


 どうして何も言えなかったのだろう。


 応援するようなことを言ってしまった。

 気をつけて、と。

 必ず帰ってきて、と。

 そんな、何の意味もない言葉だけを渡して。


 紙を持つ指先に、わずかに力がこもる。


 少女は手紙を机に置き、その下に重ねていた一枚の写真を引き抜いた。


 少し色褪せた写真だった。


 二人が写っている。


 一人は、もう何度見ても見慣れた顔。

 そしてその隣に、あの男がいた。


 最初にその顔を見たのは、この写真だった。

 手紙の中でも、何度か名前は出ていた。ぶっきらぼうで、愛想がなくて、口も悪いくせに、妙なところで面倒見がいい。そんなふうに書かれていた気がする。文面の端々に滲む信頼が、少女には気に入らなかった。


 けれどそのときは、ただの“そこにいた誰か”でしかなかった。


 この男が、最後まで傍にいたのだと知るまでは。


 写真の中の二人は、ひどく自然に並んでいた。

 作った笑顔ではない。

 無理に寄り添っているわけでもない。

 ただ、その距離があまりにも当たり前で、だからこそ、見ているだけで胸の奥がざらついた。


 どうして、お前だけ生きているんだ。


 その問いは、何度呑み込んでも消えなかった。


 どうしてあの人が死んで、お前はそこに立っていられる。

 どうして帰ってきた。

 どうして、見殺しにした。


 手紙の中に、答えはなかった。

 写真の中にも、当然そんなものは映っていない。


 残されたのは、優しい嘘のような文面と、笑っている二人の姿だけだ。


 それがたまらなく憎かった。


 少女は写真を伏せた。

 紙の上に落ちた影が、二人の顔を飲み込む。


 忘れたことはない。

 忘れるつもりもない。


 あの日からずっと、胸の奥にはひとつの火が残っていた。

 泣き叫ぶには遅すぎて、許すにはまだ幼すぎる、行き場のない火だった。


 それでも少女は、その火を消さなかった。


 消してしまえば、本当に何も残らなくなる気がしたからだ。


 だから抱えたまま、ここまで来た。

 あの人がいた場所へ。

 あの男が、今も生きて立っている場所へ。


 会えばきっと分かると思っていた。

 顔を見れば、何かが。

 声を聞けば、何かが。

 あの日の答えが、憎しみの置き場が、見つかるのだと。


 ――けれど現実は、そんなふうに都合よくできてはいなかった。


 少女はゆっくりと目を閉じる。


 まぶたの裏に浮かぶのは、写真の中の笑顔ではない。

 今の、あの男の顔だった。


 無愛想で、鈍く、言葉が足りなくて、何を考えているのか少しも分からない目。

 あれほど憎んでいたはずなのに、向けられる視線の端々に、時折どうしようもない痛みのようなものが滲むたび、胸の奥の火はかえって濁っていった。


 そんなものはいらない。

 後悔しているような顔など、見たくなかった。


 ほしいのは言い訳じゃない。

 沈黙でもない。

 ましてや、あの人を失った痛みを共有しているような顔など。


 少女は静かに息を吸い、机の上の手紙を丁寧に畳んだ。


 紙は軽い。

 軽すぎて、こんなもの一枚では、失った重さに到底釣り合わない。


 それでも、その軽さだけが今もなお、あの人が確かに生きていた証だった。


 だから捨てられない。

 憎しみと一緒に、抱えていくしかない。


 少女は立ち上がる。


 椅子の脚が床を擦る、小さな音。

 それだけで、静まり返った部屋の空気がわずかに揺れた。


 もうすぐ呼び出しが来る。

 もうすぐ、今日も顔を合わせることになる。


 逃げるつもりはなかった。

 今さら背を向ける気もない。


 あの男が何を思っていようと関係ない。

 許すつもりは、まだ一度もない。


 ただひとつだけ。

 胸の底で、消えずに燻り続ける問いだけが、今日も少女を前へ押していた。


 ――あのとき、あなたはなぜ、あの人を置いて帰ってきたの。


「……待っててね」


 少女は小さく呟いた。


     〇


 扉を開けた瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。


 仮設宿舎の廊下には、早朝特有の乾いた静けさがまだ薄く残っていた。夜明けはとうに過ぎているはずなのに、基地の朝はいつもどこか鈍い。朝日そのものが、この場所へ差し込む前に鉄とコンクリートに一度濾され、温度も色も削ぎ落とされて届くからだ。


 少女は手紙の感触がまだ指先に残っている気がして、無意識に右手を握った。

 握りしめたところで、何かが戻るわけではない。そんなことは分かっている。


 それでも、そうせずにはいられなかった。


 廊下の先では、すでに誰かが足早に行き過ぎていく。整備兵だろうか。金属の工具箱が小さく鳴り、すぐに遠ざかった。別の区画からは、抑えた怒鳴り声と、それに混じる短い応答。起床ラッパの代わりに、この基地ではいつも人の気配が朝を連れてくる。


 少女は無言のまま歩き出した。


 宿舎棟を出ると、視界が一気に開ける。


 フォート・グラーデンの朝は、清々しいという言葉からもっとも遠い。

 高くそびえる防壁は、奪還戦の傷跡を隠しきれないまま鈍色の光を浴びていた。仮補修の継ぎ目はまだ生々しく、ところどころに残る焼痕が、つい数日前までここが炎と煙に呑まれていたことを思い出させる。見上げれば監視塔の影が細長く地面へ落ち、塔上の対空機関砲は朝の静けさと無関係に空を睨み続けていた。


 空は晴れていた。


 晴れすぎている、と少女は思う。

 雲の少ない青は、どこまでも乾いていて、そのくせ何ひとつ救ってはくれない。こんな空の下でも、人は平然と傷つき、死ぬ。知ってしまったあとでは、青空というものはただの背景でしかなかった。


 滑走路の方から、重い駆動音が響いてくる。

 振り返れば、牽引車が補給コンテナを引きずり、整備員たちが手元の端末を見ながら足早に行き交っていた。燃料の匂い、焦げた油の匂い、金属の冷えた匂い。朝の空気に混じるそれらは、この基地においては土や草の匂いよりよほど自然だった。


 少し先では、起動前のオルドが朝陽を受けて静かに並んでいる。

 白でも灰でもない、無機質な装甲の表面に、補修跡や擦過痕がうっすら残っていた。眠っているようにも見えるし、ただ次の命令を待っているだけのようにも見えた。


 その列を見たとき、少女の胸の奥で何かが小さく軋んだ。


 あの人も、こういう朝を見ていたのだろうか。


 眠りきれない目で空を見上げ、吐く息の白さに季節を知り、始まる前から終わりの気配を抱えたまま、それでも平然とした顔をして歩いていたのだろうか。


 考えたところで答えはない。

 もう聞けない。

 だから残されたものを、勝手に想像するしかない。


 少女は視線を逸らした。


 基地の中央通路には、すでに朝の流れができていた。兵士たちの歩調、整備兵の怒声、搬送車の低い振動音。どれもが乱雑なのに、全体としては妙に噛み合っている。この巨大な要塞は、誰かの安堵のためではなく、ただ“次の戦闘に間に合わせる”ために朝を迎えているのだと、その景色そのものが物語っていた。


 そして少女自身もまた、その流れの中へ組み込まれている。


 補充兵。新任。穴埋め。

 そういう名前なら、もういくつも与えられてきた。


 別に構わない、と少女は思う。

 最初から歓迎されるつもりで来たわけではない。

 ここへ来た理由は、もっと別のところにある。


 足を進めるたび、靴底の下で砂が鳴る。

 遠くでサイレンが一度だけ短く鳴って、それきり止んだ。訓練開始か、物資搬入の合図か。いずれにせよ、この基地ではあらゆる音が命令と地続きだった。


 少女は歩きながら、ふと首を巡らせる。


 その瞬間、ちょうど格納庫の前を横切っていく人影が見えた。


 見間違えるはずがない。

 無愛想で、肩の力の抜けた歩き方をしているくせに、視線だけが妙に鋭い。人混みの中でも輪郭がぶれない男だった。


 コンラート・ヴェルナー。


 胸の奥が、ひどく冷たくなる。


 写真で知った顔。

 手紙で名前だけ先に知った男。

 そして今は、同じ基地の空気を吸っている男。


 少女は反射的に足を止めかけた。

 けれど、止まらなかった。


 ここで立ち尽くすのは違う。

 目を逸らすのも違う。

 逃げるつもりで来たわけじゃない。


 男はこちらに気づいていないのか、あるいは気づいていて無視したのか、足を止めることなく格納庫の陰へ消えていく。


 その背中を見送りながら、少女はゆっくりと息を吐いた。


 朝の空気は冷たいはずなのに、喉の奥だけが焼けるように熱かった。


 ――今日も、また始まる。


 失くしたものを抱えたまま。

 許せないものを胸に残したまま。

 何ひとつ終わっていない場所で、何事もなかったように朝は来る。


 少女は制服の襟を正し、歩き出した。


 その先に待っているのが訓練でも、出撃でも、あの男との最悪な顔合わせでも。

 もう引き返す場所はどこにもない。


 フォート・グラーデンの朝は、今日も冷たく、正確に動き始めている。

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