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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅱ 赫焔
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Episode 6 静水深流 -Beneath the Quiet Current- Part 3

 その沈黙を、先に動かしたのはゲルハルトだった。


 ヴィクトルが本題を切り出すより早く、軍務総監は組んでいた指をほどき、机上の書類を一枚だけ引き寄せる。紙の擦れる乾いた音が、妙に大きく響いた。


「少佐」


 呼びかけは静かだった。

 だが、その声には“これより先は私の領分だ”という、揺るがぬ線引きがあった。


 ヴィクトルは目を上げる。

 それ以上は何も言わず、相手の言葉を待った。


 ゲルハルトは書類へ視線を落としたまま続ける。


「君が何を持ってきたのかを聞く前に、こちらから確認しておくべきことがある」


 アウグストは黙っていた。

 その横顔には不快も警戒もあったが、口を挟まない。今ここでの順番を、彼も理解していた。


「レイヴンズ・コールの編制についてだ」


 その一言で、部屋の空気がわずかに変わった。


 ヴィクトルの表情は動かない。

 だが、その無表情の奥で、注意の焦点がわずかにこちらへ絞られたことだけは、アウグストにも見て取れた。


「君の部隊は、書類上は第十二独立戦闘群。だが実態としては、大隊規模編制を前提に設計された運用枠を持っている。オルド六十四機、一個大隊相当。それを小隊、中隊、大隊単位で分け、必要に応じて独立運用へ落とし込む。理屈の上ではな」


 ゲルハルトはそこで一度だけ紙を置いた。


「だが実際には、編制以来ただの一度も充足したことがない」


 それは責める言い方ではなかった。

 事実確認だった。

 それゆえに、かえって重い。


「損耗が激しすぎた。補充は追いつかず、機体も人も常に欠けた状態で回り続けた。結果として、君は少佐でありながら小隊長、中隊長、時には前衛機の役まで同時に背負わされた。整備も補給も、その場しのぎの延命措置で繋いできた。違うか」

「……違いません」


 ヴィクトルの返答は短かった。

 肯定というより、それ以外の答えを持たない者の声だった。


 ゲルハルトは頷きもせず、淡々と先を継ぐ。


「私はフォート・グラーデンにおける軍務一般、とりわけ人事と補充の最終責任を持つ立場にある。現場がどれだけ機能不全を平然と日常へ変えてしまおうと、帳簿の上ではそういうことになっている」


 ほんのわずか、皮肉のようなものが混じった。

 だがそれもすぐに消える。


「よって結論だけを言う。レイヴンズ・コールには補充を行う」


 今度こそ、部屋の空気が明確に止まった。


 アウグストがゲルハルトを見る。

 ヴィクトルは何も言わない。

 だが、その沈黙の質がほんの少しだけ変わった。


「オルド本体の再配備。予備機からの転用を含む機体補充。操縦士、整備兵、後方支援要員、通信・観測要員――必要人員も段階的に充当する。もちろん一朝一夕に完全充足とはいかん。だが、少なくとも“足りないことが前提”の部隊として放置する段階は終わりだ」


 その言葉は驚くほど真っ直ぐだった。


 飴ではない。

 恩着せがましさもない。

 ただ、長く見過ごされてきた歪みを、今ここでようやく是正の議題へ載せる、と宣言しているだけだった。


「……唐突ですね」


 先に口を開いたのは、アウグストではなくヴィクトルだった。


 声は変わらない。

 抑揚も薄い。

 それでも、その一言の奥には警戒があった。


 ゲルハルトは正面からそれを受ける。


「唐突ではない。遅すぎたのだ」


 短く、切るように言った。


「君たちはあまりに長く、“減ったままで使える部隊”として便利に扱われすぎた。損耗しても回る。足りなくても動く。だから後回しにされる。そういう悪習が積み重なった結果が今だ」


 ヴィクトルは返さない。

 しかし視線は逸らさなかった。


「もっとも」


 ゲルハルトは続ける。


「これを温情だと思う必要はない。理由は他にある」


 その一言で、話の芯が次の段階へ移った。


「オペレーション・ファントムドーンは継続される」


 今度はアウグストが息を吸った。

 彼はその可能性を予期していた。だが、予期していたことと、こうして明言されることのあいだには大きな差がある。


「掃討戦はまだ終わっていない。フォート・グラーデン奪還は一区切りに過ぎん。敵の行動様式は変化しつつあり、局地的な再侵入、指揮系統への干渉、重点施設への執着――いずれも従来より意図的だ。ならばこちらも、中途半端な再建に人員を吸われている場合ではない」


 ゲルハルトの声には、もはや会議室特有の空回りはなかった。

 机上の議論を続けていた昨夜までとは違う。

 奪還の一週間が、彼にもまた何かを決めさせたのだと分かる口調だった。


「前線は今後さらに深くなる。補修された基地を守るだけでは足りん。敵の根へ踏み込む部隊が要る。持久ではなく、継続圧迫だ。そのためにファントムドーンは止めない」


 彼はそこで、初めてヴィクトルの肩章へ視線を落とした。


「少佐。君の部隊は、そこから外さない」


 それは命令に近かった。

 いや、すでに命令だった。


 レイヴンズ・コールを補充する。

 だがそれは休ませるためでも、後方で立て直させるためでもない。

 より長く、より深く、ファントムドーンの中へ沈めるための補充だ。


 アウグストはゆっくりと口を開いた。


「今の戦況で、戦える部隊を温存する余裕はない。だが同時に、痩せ細ったまま使い潰すのも愚策だ。ならば補う。補って、なお使う」


 フォート・グラーデンの軍務一般を握る男らしい発想だった。

 冷たいが、筋は通っている。

 人事と兵站を支配する者が下す決断として、あまりに正確すぎる。


 ヴィクトルはしばらく無言だった。

 やがて、ほんのわずかに顎を引く。


「……人員の質は」

「選抜する」

「穴埋めではなく?」

「君がそれを許すようには見えん」


 そこで初めて、ヴィクトルの口元がほんのわずかに動いた。

 笑った、と呼ぶにはあまりにも薄い変化だったが、少なくとも拒絶ではなかった。


「結構です」

「まだある」


 ゲルハルトは言った。


「クラリス・フォーゲル。ユリウス・ハルトマン。リリィ・フォン・シュライフェン。この三名も、補充と同じく再編対象とする」


 そこだけ、空気が再び鋭くなる。


 ヴィクトルの視線は静かだ。

 だが、その静けさの下で何かが固く噛み合ったのを、アウグストは感じた。


「司令部預かりにはしない」


 ゲルハルトは先回りするように続けた。


「少なくとも現時点ではな。前線から切り離して中央へ送れば、余計な争奪を呼ぶ。こちらとしても面倒だ」


 面倒。

 その言葉選びは、あまりに露骨だった。

 だが露骨であるぶん、本音でもある。


「だからこそ、レイヴンズ・コール側へ戻す。ただし、完全な自由運用ではない。クラリスに関しては機体適性・神経リンクの再検査を前提とし、ユリウスとリリィには別任を含めた再評価を行う」

「監視付き、ということですか」


 ヴィクトルが問う。


「そう思いたければ思えばいい。私は管理と言うが」


 そこでゲルハルトは初めて背もたれへ寄りかかった。


「もっとも、これは君のためではない。あの三人を巡って中央の口が増える前に、現場側で運用の形を固める必要がある。それだけだ」


 ヴィクトルは何も言わなかった。


 彼が何を考えているのかは、やはり誰にも分からない。

 補充を歓迎しているのか。

 監視の色を嫌っているのか。

 それとも、すでにもっと先の何かを見ていて、今ここで提示された条件など通過点としか見ていないのか。


 その顔には、読めるだけのものが乗っていない。

 アウグストは、そこでようやく低く息を吐いた。


「……で、少佐」


 彼は肘を机へ置き、ヴィクトルをまっすぐ見た。


「こちらの話は済んだ。今度こそ聞こうか。君は何を持ってここへ来た」


 部屋の外では、リカルド・メンデスが相変わらず黙って待っている。

 少佐に付き従いながら、その胸の内までは知らない整備兵。

 噂ばかりが先に歩き、本心だけが誰にも掴めない二人組の、その片割れが。


 その事実が、かえって今この瞬間を妙に現実的にしていた。


 ヴィクトルは数秒、沈黙した。

 沈黙したまま、視線だけをほんの少し落とす。

 何かを測るように。

 あるいは、ここでようやく本題へ踏み込む距離を見極めるように。


 そして、ゆっくりと口を開いた。

 だが、ヴィクトルの口から出たのは、アウグストが期待していたような“本題”ではなかった。


「補充の件、承知しました」


 それだけだった。


 短く、平坦で、無駄がない。

 感謝も安堵も、反発も見せない。ただ、提示された条件を一度胸の中へ収めたことだけを告げる声音だった。

 アウグストの眉がわずかに動く。


「それだけか」

「今のところは」


 やはり余分な説明はない。

 何を考えているのか、どこまで見越してここへ来たのか、その奥にあるものはひとつも見せない。言葉は返ってきているのに、核心だけがするりと指の隙間を抜けていく。


 ゲルハルトは、その様子を黙って見ていた。

 読み取れないこと自体に、今さら苛立つつもりはないらしい。むしろ、読み取れないまま動いていく種類の人間だと、最初から承知しているような目だった。


「書面は後で回せ」


 軍務総監が言う。

 それは会談の終了を告げる声でもあった。


「補充、人員再編、オペレーション・ファントムドーン継続。詳細は軍務局と詰める。君の側の要求があるなら、正式な形で上げろ」


 ヴィクトルは頷いた。

 しかし、それでもなお“何を持ってきたのか”は口にしなかった。

 口にしないまま立ち上がる。


 それで十分だった。


 今ここで無理に引きずり出せる類のものではない。

 そう理解してしまえば、この沈黙もまた一種の答えだった。

 少なくとも彼は、謝罪のために戻ってきたのではない。釈明のためだけでもない。何かを腹の中に抱えたまま、それでもまずはこの場の条件と流れを見極めに来た――その程度のことだけが、逆にはっきりした。


 アウグストは椅子の背に体重を預け、低く息を吐いた。


「相変わらずだな、少佐」


 その言葉に、ヴィクトルはほんのわずかに視線を向けただけだった。

 肯定もしない。否定もしない。

 ただ、その無言が妙に彼らしかった。


 ゲルハルトが机上の帽子を手に取る。

 もう終わりだという合図だった。


「今日はここまでにしよう」


 その一言で、場の緊張が形を変える。

 解けたわけではない。

 ただ、次の段階へ押し流されただけだ。


 ヴィクトルは敬礼も最小限に済ませると、踵を返して扉へ向かった。

 重くも軽くもない足取りだった。迷いがない、という一点だけが不気味なほど明確だった。


 扉が開く。


 外には、リカルド・メンデスが静かに立っていた。

 呼ばれるでもなく、気負うでもなく、最初からそこにいるのが当然であるかのように。整備兵の顔つきで、しかし司令部の廊下にも不思議と馴染んでしまう、あの男らしい待機の仕方だった。


 リカルドはヴィクトルの顔を見る。

 だが、何も尋ねない。

 ヴィクトルも、何も言わない。


 二人はそのまま並んで歩き出す。


 肩を並べているのに、どこか距離がある。

 距離があるのに、妙に息は合っている。

 その不思議な均衡が、かえって噂の輪郭だけを濃くしていた。


 廊下の向こうへ消えていく背中を見送りながら、アウグストは小さく口の中で呟いた。


「結局、何も話していないようでいて、妙に多くを持っていきおる」

「そういう男だ」


 ゲルハルトの返答は短かった。


 軍務総監は閉じた扉をしばらく見つめ、それからようやく視線を外した。

 レイヴンズ・コールへの補充。

 ファントムドーンの継続。

 クラリス、ユリウス、リリィの再編対象としての扱い。

 決まったことはある。だが、肝心な部分は何ひとつ晴れていない。


 ヴィクトルはまだ何も明かしていない。

 それでいて、確実に何かを前へ進めている。

 そのことだけが、妙に重く室内へ残っていた。


 フォート・グラーデンの朝は、修復と再編と未決のままの案件に追われ、少しも静かではなかった。

 それでも、その喧騒の底を流れているものは、ひどく静かだった。


 目に見える形を取らぬまま、確かにどこかへ向かっている流れ。

 まだ名を持たない次の局面。

 次の嵐の、前触れのようなもの。


 静水は、深く流れていた。

ところで、書いてて思い出しました。このリリィって娘さん、十歳って設定らしいです。

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