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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅱ 赫焔
58/60

Episode 6 静水深流 -Beneath the Quiet Current- Part 2

 扉が開く。


 第三応接室の空気は、外の慌ただしさとは別の意味で張りつめていた。

 戦後の仮設司令室らしく、部屋そのものは質素だった。壁のひびは急ごしらえの補修材で埋められ、照明は一段落とされ、窓の外にはまだ足場材の影が見える。それでも応接室という名目だけは守られていて、中央には低い机、その左右には向かい合う形で椅子が並べられていた。


 その片側に、ヴィクトル・シュナイダーは座っていた。


 立っていない。

 待たされている苛立ちを見せることもなく、かといって恐縮した様子もなく、ただそこにいる。

 脚を組むでもなく、背を深く預けるでもなく、肘掛けに腕を置くでもない。無駄を削いだ姿勢だった。戦場のままの軍装には修理痕があり、左胸のあたりには乾ききらない擦過傷の跡も見える。前線から直接来たのだと、見れば分かる格好だった。


 何食わぬ顔で、という伝令の報告は、あながち間違っていない。


 ヴィクトルは少佐だ。

 本来であれば、レイヴンズ・コール――第十二独立戦闘群という名で呼ばれてはいても、その母体はオルド六十四機編成の大隊規模部隊である。一小隊四機、一中隊十六機、四個中隊で一大隊。理屈の上では、それだけの戦力を統括する立場にある人間だ。実際には損耗が激しすぎて、編成以来ただの一度も充足を満たしたことはない。名だけが大きく、実数は痩せ細り、気づけば少佐自らが最前線で機体を駆っている。そんな歪んだ現実の中で、それでもなお“少佐”という階級だけは彼の肩に残っていた。


 その少佐が、ここへ戻ってきている。


 アウグストは扉の脇で一度だけ立ち止まり、それから中へ入った。

 後ろに続くゲルハルトは、扉の開いた一瞬だけ、廊下のさらに向こうへ視線を走らせる。


 そこには、もう一人いた。


 リカルド・メンデス。


 壁際に静かに立ち、腕を後ろで組んだまま、こちらへ視線だけを向けている。整備兵の軍装は前線の砂と油に汚れており、袖口にはまだ煤が残っていた。呼ばれればすぐ動ける位置にはいる。けれど最初から部屋へ入るつもりはないらしい。その振る舞いはあまりにも自然で、司令部の構造にも、この部屋の空気にも慣れすぎていた。


 リカルドは整備兵だ。

 階級差を思えば、少佐と同格の会談に列席する理由はない。理屈の上ではそうだ。だが実際には、彼がヴィクトルに付き従って司令部へ顔を出すことは珍しくない。会議の場に座ることはない。口を挟むこともない。ただ廊下の外や待機室で、当然のように待っている。その距離感の妙さが、かえって人の口を動かした。


 あの二人はただならぬ関係だ――と。


 もちろん、それは軍のどこにでもある、疲弊と閉塞が生み出した噂の一つに過ぎない。

 だが噂とは、否定されないまま長く続くと、事実とは別の重さを持ちはじめるものだった。


 ゲルハルトは一瞬だけその整備兵を見たが、何も言わなかった。

 扉は静かに閉じられる。

 リカルドは外に残された。


 これで部屋の中には、基地司令アウグスト・ラインハルト、軍務総監ゲルハルト・ヴァイスマン、そしてヴィクトル・シュナイダー少佐の三人だけになった。


「少佐」


 先に口を開いたのはアウグストだった。

 声音は穏やかだったが、その穏やかさには刃があった。


「こうして正面から戻ってくるあたり、ずいぶん余裕があるように見える」

「余裕があるように見えたなら、結構です」


 ヴィクトルは即答した。

 言い返し方があまりにも迷いなく、かえって作った余裕なのだと分かる。だがその作為を隠す気もないらしい。


 アウグストは苦くもなく、怒りもなく、ただ事実として見つめ返した。


「釈明に来たのか」

「必要ならします」

「必要なら、か」


 短いやり取りの間にも、室内には妙な静けさが沈んでいた。

 前線から戻ってきた人間特有の、空気の密度が違う感じだ。司令部で磨耗した神経と、前線で削れた神経は似ているようでいて、別種の硬さを持つ。そのぶつかり合いが、まだ言葉になる前から場を圧していた。


 ゲルハルトは、ヴィクトルの正面に腰を下ろした。

 帽子を机上へ置き、指を組む。


「では聞こう、少佐。君は一週間前、正式な決裁を待たず、クラリス・フォーゲル、ユリウス・ハルトマン、リリィ・フォン・シュライフェン、ならびに第十二独立戦闘群の一部資産・装備を、現場判断でフォート・グラーデンから移送した」


 抑揚の少ない声だった。

 責めるというより、確認する声色だ。


「事実か」

「事実です」

「レオポルド・シュトラッサー中佐と共謀してか」

「協議して、です」


 そこだけ、ヴィクトルはわずかに言葉を選んだ。


 アウグストの眉が動く。

 共謀ではなく協議。

 命令逸脱であることは変わらないのに、その一語にだけ現場側の意地が滲んでいた。


「言い方を飾るな」

「飾ってはいません、司令。あれは現場側の判断です」

「司令部判断を無視してな」

「司令部判断が存在しなかったので」


 その一言で、部屋の温度が一段下がった。


 アウグストの眼差しが鋭くなる。

 だが、ヴィクトルは逸らさない。


 確かにその通りだった。

 司令部は保留した。

 結論を先送りにした。

 そして、その空白のあいだに前線側が動いた。


 だからこの言葉は挑発であると同時に、事実でもあった。


 しばし沈黙が続く。


 最初にそれを破ったのは、やはりゲルハルトだった。


「君は、あの三人を“守った”つもりか」


 問いの形をしていた。

 だが、その実態はもっと別のものに近い。

 見極めだ。

 ヴィクトルが何を信じ、どこまで自覚してやったのかを、静かに測っている。


 ヴィクトルはすぐには答えなかった。

 一拍。

 そして、短く息を吐く。


「守る、という言葉は好きではありません」

「ほう」

「司令部に残せば、いずれ囲われるか、掲げられるか、そのどちらかだった。現場に連れていけば少なくとも、自分で立つ余地は残る。そう判断しました」

「クラリス・フォーゲルにか」

「三人にです」


 ユリウスも。

 リリィも。

 そう言外に含めた答えだった。


 ゲルハルトはわずかに目を細めた。


「後方オペレーターまで?」

「リリィは記録を見ていました。事情を知りすぎていた。残しておけば、あれもまた議論の材料にされる」


 整然とした口調だった。

 感情的ではない。

 だからこそ重い。


 アウグストが机を指で一度叩く。


「君は少佐だ。現場判断の重さくらい承知しているはずだ」

「承知しています」

「ならば聞こう。どこまでを持っていった?」


 ヴィクトルはそこでようやく、ほんの少しだけ椅子へ深く腰を預けた。


「人員三名。オルド関連装備一式のうち、必要最低限。補給物資は三日分を基準に追加確保。通信機材、医療資材、整備コンテナ一基、移送車両二台」


 淡々とした報告だった。

 必要最低限、と彼は言った。

 だが必要最低限がその規模なら、最初から相応の準備をしていたことになる。


 つまり、衝動ではない。

 昨夜の議論を聞いて思いついた“逃走”ではなく、ある程度の見込みの上で組まれた策だ。


 アウグストもそこへ気づいたらしい。

 口調がさらに低くなる。


「最初から、持ち出すつもりでいたな」

「必要になれば、そうする準備はしていました」

「必要になると、いつ判断した」

「会議が終わった時点で」

「結論は出ていなかった」

「ええ。だからです」


 また、その言い方だった。


 部屋の外では、誰かの足音が一度だけ近づき、すぐ遠ざかっていく。

 リカルドがまだそこにいるのだろう。

 扉一枚隔てた向こうで、いつものように待機しているだけで、この場へ口出しすることはない。


 それがかえって、奇妙な現実味を持っていた。


 ヴィクトルだけが戻ってきたわけではない。

 ヴィクトルと、それに付き従う整備兵。

 そしてその背後にある、痩せこけた大隊規模部隊の残り火。

 名だけは大きく、実数は足りず、それでも戦い続けるレイヴンズ・コールそのものが、この部屋の前まで来ているのだ。


 ゲルハルトはそのことを考えていた。

 口にしないまま。


「それで」


 彼は静かに言った。


「君は今、何を持って戻ってきた。謝罪か、報告か、あるいは別の要求か」


 ヴィクトルの視線が、ほんのわずかだけ重くなる。

 これまでの応答より、わずかに深い沈黙が置かれた。


 アウグストはその変化を見逃さなかった。


 つまり本題は、まだここからだ。


 ヴィクトル・シュナイダー少佐は、独断専行の後にただ頭を下げに来たわけではない。

 何かを持ってきた。

 何かを突きつけに来た。


 その予感が、部屋の空気をさらに細く、鋭く張りつめさせていく。


 そして扉の外では、リカルド・メンデスが、何も言わずにそこに立ち続けていた。

 あまりにも自然に。

 まるで最初から、こういう日のためにそこにいることに慣れているかのように。

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