Episode 6 静水深流 -Beneath the Quiet Current- Part 2
扉が開く。
第三応接室の空気は、外の慌ただしさとは別の意味で張りつめていた。
戦後の仮設司令室らしく、部屋そのものは質素だった。壁のひびは急ごしらえの補修材で埋められ、照明は一段落とされ、窓の外にはまだ足場材の影が見える。それでも応接室という名目だけは守られていて、中央には低い机、その左右には向かい合う形で椅子が並べられていた。
その片側に、ヴィクトル・シュナイダーは座っていた。
立っていない。
待たされている苛立ちを見せることもなく、かといって恐縮した様子もなく、ただそこにいる。
脚を組むでもなく、背を深く預けるでもなく、肘掛けに腕を置くでもない。無駄を削いだ姿勢だった。戦場のままの軍装には修理痕があり、左胸のあたりには乾ききらない擦過傷の跡も見える。前線から直接来たのだと、見れば分かる格好だった。
何食わぬ顔で、という伝令の報告は、あながち間違っていない。
ヴィクトルは少佐だ。
本来であれば、レイヴンズ・コール――第十二独立戦闘群という名で呼ばれてはいても、その母体はオルド六十四機編成の大隊規模部隊である。一小隊四機、一中隊十六機、四個中隊で一大隊。理屈の上では、それだけの戦力を統括する立場にある人間だ。実際には損耗が激しすぎて、編成以来ただの一度も充足を満たしたことはない。名だけが大きく、実数は痩せ細り、気づけば少佐自らが最前線で機体を駆っている。そんな歪んだ現実の中で、それでもなお“少佐”という階級だけは彼の肩に残っていた。
その少佐が、ここへ戻ってきている。
アウグストは扉の脇で一度だけ立ち止まり、それから中へ入った。
後ろに続くゲルハルトは、扉の開いた一瞬だけ、廊下のさらに向こうへ視線を走らせる。
そこには、もう一人いた。
リカルド・メンデス。
壁際に静かに立ち、腕を後ろで組んだまま、こちらへ視線だけを向けている。整備兵の軍装は前線の砂と油に汚れており、袖口にはまだ煤が残っていた。呼ばれればすぐ動ける位置にはいる。けれど最初から部屋へ入るつもりはないらしい。その振る舞いはあまりにも自然で、司令部の構造にも、この部屋の空気にも慣れすぎていた。
リカルドは整備兵だ。
階級差を思えば、少佐と同格の会談に列席する理由はない。理屈の上ではそうだ。だが実際には、彼がヴィクトルに付き従って司令部へ顔を出すことは珍しくない。会議の場に座ることはない。口を挟むこともない。ただ廊下の外や待機室で、当然のように待っている。その距離感の妙さが、かえって人の口を動かした。
あの二人はただならぬ関係だ――と。
もちろん、それは軍のどこにでもある、疲弊と閉塞が生み出した噂の一つに過ぎない。
だが噂とは、否定されないまま長く続くと、事実とは別の重さを持ちはじめるものだった。
ゲルハルトは一瞬だけその整備兵を見たが、何も言わなかった。
扉は静かに閉じられる。
リカルドは外に残された。
これで部屋の中には、基地司令アウグスト・ラインハルト、軍務総監ゲルハルト・ヴァイスマン、そしてヴィクトル・シュナイダー少佐の三人だけになった。
「少佐」
先に口を開いたのはアウグストだった。
声音は穏やかだったが、その穏やかさには刃があった。
「こうして正面から戻ってくるあたり、ずいぶん余裕があるように見える」
「余裕があるように見えたなら、結構です」
ヴィクトルは即答した。
言い返し方があまりにも迷いなく、かえって作った余裕なのだと分かる。だがその作為を隠す気もないらしい。
アウグストは苦くもなく、怒りもなく、ただ事実として見つめ返した。
「釈明に来たのか」
「必要ならします」
「必要なら、か」
短いやり取りの間にも、室内には妙な静けさが沈んでいた。
前線から戻ってきた人間特有の、空気の密度が違う感じだ。司令部で磨耗した神経と、前線で削れた神経は似ているようでいて、別種の硬さを持つ。そのぶつかり合いが、まだ言葉になる前から場を圧していた。
ゲルハルトは、ヴィクトルの正面に腰を下ろした。
帽子を机上へ置き、指を組む。
「では聞こう、少佐。君は一週間前、正式な決裁を待たず、クラリス・フォーゲル、ユリウス・ハルトマン、リリィ・フォン・シュライフェン、ならびに第十二独立戦闘群の一部資産・装備を、現場判断でフォート・グラーデンから移送した」
抑揚の少ない声だった。
責めるというより、確認する声色だ。
「事実か」
「事実です」
「レオポルド・シュトラッサー中佐と共謀してか」
「協議して、です」
そこだけ、ヴィクトルはわずかに言葉を選んだ。
アウグストの眉が動く。
共謀ではなく協議。
命令逸脱であることは変わらないのに、その一語にだけ現場側の意地が滲んでいた。
「言い方を飾るな」
「飾ってはいません、司令。あれは現場側の判断です」
「司令部判断を無視してな」
「司令部判断が存在しなかったので」
その一言で、部屋の温度が一段下がった。
アウグストの眼差しが鋭くなる。
だが、ヴィクトルは逸らさない。
確かにその通りだった。
司令部は保留した。
結論を先送りにした。
そして、その空白のあいだに前線側が動いた。
だからこの言葉は挑発であると同時に、事実でもあった。
しばし沈黙が続く。
最初にそれを破ったのは、やはりゲルハルトだった。
「君は、あの三人を“守った”つもりか」
問いの形をしていた。
だが、その実態はもっと別のものに近い。
見極めだ。
ヴィクトルが何を信じ、どこまで自覚してやったのかを、静かに測っている。
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
一拍。
そして、短く息を吐く。
「守る、という言葉は好きではありません」
「ほう」
「司令部に残せば、いずれ囲われるか、掲げられるか、そのどちらかだった。現場に連れていけば少なくとも、自分で立つ余地は残る。そう判断しました」
「クラリス・フォーゲルにか」
「三人にです」
ユリウスも。
リリィも。
そう言外に含めた答えだった。
ゲルハルトはわずかに目を細めた。
「後方オペレーターまで?」
「リリィは記録を見ていました。事情を知りすぎていた。残しておけば、あれもまた議論の材料にされる」
整然とした口調だった。
感情的ではない。
だからこそ重い。
アウグストが机を指で一度叩く。
「君は少佐だ。現場判断の重さくらい承知しているはずだ」
「承知しています」
「ならば聞こう。どこまでを持っていった?」
ヴィクトルはそこでようやく、ほんの少しだけ椅子へ深く腰を預けた。
「人員三名。オルド関連装備一式のうち、必要最低限。補給物資は三日分を基準に追加確保。通信機材、医療資材、整備コンテナ一基、移送車両二台」
淡々とした報告だった。
必要最低限、と彼は言った。
だが必要最低限がその規模なら、最初から相応の準備をしていたことになる。
つまり、衝動ではない。
昨夜の議論を聞いて思いついた“逃走”ではなく、ある程度の見込みの上で組まれた策だ。
アウグストもそこへ気づいたらしい。
口調がさらに低くなる。
「最初から、持ち出すつもりでいたな」
「必要になれば、そうする準備はしていました」
「必要になると、いつ判断した」
「会議が終わった時点で」
「結論は出ていなかった」
「ええ。だからです」
また、その言い方だった。
部屋の外では、誰かの足音が一度だけ近づき、すぐ遠ざかっていく。
リカルドがまだそこにいるのだろう。
扉一枚隔てた向こうで、いつものように待機しているだけで、この場へ口出しすることはない。
それがかえって、奇妙な現実味を持っていた。
ヴィクトルだけが戻ってきたわけではない。
ヴィクトルと、それに付き従う整備兵。
そしてその背後にある、痩せこけた大隊規模部隊の残り火。
名だけは大きく、実数は足りず、それでも戦い続けるレイヴンズ・コールそのものが、この部屋の前まで来ているのだ。
ゲルハルトはそのことを考えていた。
口にしないまま。
「それで」
彼は静かに言った。
「君は今、何を持って戻ってきた。謝罪か、報告か、あるいは別の要求か」
ヴィクトルの視線が、ほんのわずかだけ重くなる。
これまでの応答より、わずかに深い沈黙が置かれた。
アウグストはその変化を見逃さなかった。
つまり本題は、まだここからだ。
ヴィクトル・シュナイダー少佐は、独断専行の後にただ頭を下げに来たわけではない。
何かを持ってきた。
何かを突きつけに来た。
その予感が、部屋の空気をさらに細く、鋭く張りつめさせていく。
そして扉の外では、リカルド・メンデスが、何も言わずにそこに立ち続けていた。
あまりにも自然に。
まるで最初から、こういう日のためにそこにいることに慣れているかのように。




