Episode 6 静水深流 -Beneath the Quiet Current- Part 1
一週間後。
フォート・グラーデンは、奪還された基地というより、どうにか崩壊を先送りにしている巨大な工事現場に近かった。
主防壁は仮補修の継ぎ目をあちこちに残したまま鈍く陽を返し、砲座のいくつかは未だ沈黙している。格納庫群では破損した搬送レールの交換作業が続き、通信中継棟では徹夜続きの技術兵が端末に齧りつき、夜を跨いだ野戦病院の前では担架が絶え間なく行き来していた。再奪還の達成感は、とうに修復資材の不足と人手の欠乏の中へすり潰されている。
そのうえ、ファントムドーンの作戦はまだ終わっていなかった。
前線では継続的な掃討戦と対抗展開が続き、司令部は基地修復と戦線統制を同時に回さねばならない。補給計画は毎日書き換えられ、部隊配置は三時間ごとに更新される。昨日の正解が今日には破綻している。そんな状況が、この一週間、ただひたすら続いていた。
フォート・グラーデン司令部は、目に見えない疲労で軋んでいた。
基地司令アウグスト・ラインハルトは、第三司令室へ差し込む朝の鈍い光の中で、新しい被害報告書へ視線を落としていた。机上に積まれた文書の束は、整理されているようでいて、実際には“崩れていない”だけの均衡で成り立っている。傍らでは軍務総監ゲルハルト・ヴァイスマンが無言のまま端末の表示を追っていたが、その沈黙の硬さだけで、彼もまたほとんど休んでいないことが知れた。
そのとき、扉が叩かれた。
三度。
短く、迷いのないノックだった。
「入れ」
アウグストが顔も上げずに答える。
開いた扉の向こうに立っていた伝令兵は、しかし普段の報告とは明らかに異なる顔をしていた。困惑と、わずかな緊張と、どこか信じ難いものを見たあとのような目つきが混ざっている。
「失礼します。司令、総監殿」
「何だ」
ゲルハルトが先に問い返す。
伝令兵は一度だけ息を呑み、それから言った。
「……第十二独立戦闘群関係者を名乗る二名が、司令部正面区画へ到着しています」
アウグストの手が止まった。
ゲルハルトの視線だけが、ゆっくりと伝令兵へ向く。
「名を」
「ヴィクトル・シュナイダー大尉。ならびに、リカルド・メンデス曹長です」
沈黙が落ちた。
それは、たった一瞬のことだった。
だがその短い無音の中に、伝令兵は自分がとんでもない報告をしているのだという確信を深めていく。
アウグストがようやく顔を上げた。
その表情には露骨な不機嫌も驚愕もなかったが、わずかに瞼の奥が冷たく細まっていた。
「……誰がいると言った?」
「ヴィクト──」
「正面から?」
「はっ」
「何食わぬ顔で?」
思わず漏れたようなアウグストの一言に、伝令兵は返答に窮した。
だが返せないということが、むしろ答えそのものだった。
正面から。
堂々と。
隠れるでもなく、言い訳を先に寄越すでもなく、何事もなかったかのように現れたのだ。
アウグストは背もたれへ深く身を預けた。
数拍遅れて、小さく鼻で息を吐く。
「図太いにも程があるな」
「あるいは、こちらの反応を見に来たか」
ゲルハルトの声は低く、いつも通り平坦だった。
だが、その平坦さの下に、わずかに興味に近い色が混じっているのをアウグストは聞き逃さなかった。
「どちらにせよ、追い返すわけにはいくまい」
「いずれ来るとは思っていたが……予想よりずっと早いな」
アウグストは机上の報告書を閉じた。
一週間前のあの“移送”――いや、現場側の強引な持ち去りは、まだ正式な決着を見ていない。司令部は追及を強めなかった。少なくとも表向きには。だが、それは見逃したのではなく、戦況と修復を優先したにすぎない。
つまり、この訪問は、保留されていた問題が、向こうから歩いて戻ってきたということだった。
「会う」
ゲルハルトが言った。
短い。
それで十分だった。
「この場で、か」
「いや」
彼は一度だけ考えるように視線を落とし、それから静かに続ける。
「第三応接室へ移せ。人目のある場所では余計な耳が増える。今の基地には、噂に飢えた者が多すぎる」
それは事実だった。
フォート・グラーデンは今、修復中であると同時に、異様に情報に飢えた場所でもある。誰がどこで何をしたのか。どの部隊が戻り、誰が戻らないのか。何が決まり、何が隠されているのか。そうした断片だけが兵たちのあいだを飛び交い、疲労した基地の空気をさらに濁らせていた。
ヴィクトル・シュナイダーの帰還など、その最たる燃料になる。
「分かった」
アウグストが立ち上がる。
椅子が低く軋んだ。
「それで、その二人は今どんな顔をしている」
半ば独り言のような問いだった。
だが伝令兵は真面目に答えた。
「……落ち着いております」
「落ち着いている、か」
アウグストは苦く笑うでもなく、ただ繰り返した。
当然だろう。
そうでなければ来ない。
逃げる者の顔ではない。隠れる者の足取りでもない。こちらがまだ完全な結論を出せないことを分かったうえで、それでも先に面会を取りに来たのだ。そこにあるのは度胸というより、現場側の論理に対する確信だ。
ゲルハルトは無言のまま軍帽を手に取った。
その動作だけで、部屋の空気がひとつ引き締まる。
「行くぞ、アウグスト」
「言われずとも」
二人は連れ立って部屋を出た。
司令部の通路は、朝だというのに薄暗かった。
節電のために落とされた照明の合間を、補修灯の白い光が点々と繋いでいる。行き交う兵たちは慌ただしく資料や資材を運んでいたが、総監と基地司令の姿を認めるとすぐに壁際へ寄り、沈黙のまま敬礼を送った。
その視線の先に、自分たちが今から会いに行く相手の名が浮かんでいることを、アウグストは感じ取っていた。
第三応接室の前で、二人は足を止める。
扉の向こうには、ヴィクトルとリカルドがいる。
一週間前、司令部の手から三人とレイヴンズ・コールの戦力・資産を掠め取っていった側の人間。
しかも今、逃走の釈明ではなく、面会のために自ら戻ってきた。
アウグストは扉の把手へ手をかけながら、横目でゲルハルトを見た。
「さて」
彼は低く呟く。
「今度は、何を持ってきたのやら」
ゲルハルトは答えなかった。
ただ、その沈黙の奥で、次の嵐の匂いをすでに嗅ぎ取っているような目をしていた。
扉が開く。
そして、何食わぬ顔で椅子に座る二人の男が、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。




