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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅱ 赫焔
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Episode 5 余燼残響 -Echoes of Dying Embers- Part 5

 翌朝、フォート・グラーデンは奇妙な静けさの中で目を覚ました。


 それは、戦いの終わったあとの平穏ではなかった。

 嵐の中心がたまたま一瞬だけ遠のいただけの、張りつめた空白だった。


 再奪還された基地は、まだどこもかしこも応急処置の途中にあった。

 破損した区画は閉鎖されたまま、監視塔は一部が仮復旧、通信中継も完全ではない。巡回兵は夜を徹して歩き続け、医療区画では負傷者の選別がなお続き、格納庫では破壊された機材と辛うじて生き残った設備が雑然と並んでいた。


 そんな不完全な朝に、最初に異変へ気づいたのは、司令部付きの補佐官だった。


 報告書を抱えたまま司令卓へ駆け込み、半ば叫ぶように告げる。


「医療管理下にあったクラリス・フォーゲル、ユリウス・ハルトマン、後方オペレーターのリリィ・フォン・シュライフェン――所在不明です!」


 その声が、朝の重い空気を鋭く裂いた。


 一瞬、誰も意味を理解できなかった。


 所在不明。

 たったそれだけの言葉が、妙に現実味を持たずに卓上へ落ちる。


 だが続く報告が、その曖昧さを容赦なく削ぎ落としていく。


「加えて、第十二独立戦闘群レイヴンズ・コールの保有資産に異常。予備補給物資、通信機材一式、移送用車両二台、機密識別コード付き整備コンテナ、さらに戦術機動郭関連装備の一部も、記録上の搬出処理なしに消失しています!」


 空気が変わった。


 ざわめきが、遅れて爆ぜる。

 誰かが席を蹴り、誰かが端末を叩き、別の誰かは反射的に警備区画へ回線を開いた。確認命令が飛ぶ。巡回記録の再点検。監視映像の総ざらい。夜間の搬出入ログの洗い直し。怒声が、朝の司令部に一斉に満ちていく。


「どういうことだ!」

「誰がこんな規模の移送を見逃した!?」

「外部侵入か!? 内部協力者は!?」

「封鎖線の確認を急げ!」


 混乱は一瞬で司令部全域へ広がった。


 だが、その混乱が頂点へ達するより早く、奇妙な事実がひとつ、またひとつと浮上しはじめる。


 監視映像の一部は、夜間の特定時間帯だけ不自然に死角が増えていた。

 巡回表の配置には、紙の上ではごく小さな、けれど意図的としか思えない入れ替えがある。

 搬出ログそのものは残っていないのに、物資庫の開錠履歴だけは正規権限で処理されていた。

 そして何より、基地外縁部の通過記録に、ヘルダイバーズ所属部隊の限定識別信号が一度だけかすかに残っていた。


 それは外部侵入の痕跡ではなかった。

 むしろ逆だった。


 あまりにも手際がよすぎる。

 敵ではない。

 現場を知る者の動きだ。


 そう理解した瞬間、司令部の混乱は別の種類のざわめきへ変わった。


「……まさか」

「前線側が勝手に動いたのか?」

「誰の権限でだ」

「こんな規模、独断で許されるはずが――」


 許されるはずがない。

 それでも、実際に起きてしまっている。


 やがて暫定の事後報告が上がった。


 文章は簡潔だった。

 簡潔すぎるほどに。


 フォート・グラーデン再奪還後の混乱を利用し、第七機動歩兵隊ヘルダイバーズの一部部隊と、前線継続中のレイヴンズ・コール現場判断により、クラリス・フォーゲル、ユリウス・ハルトマン、リリィ・フォン・シュライフェンの三名を含む関連人員および一部装備・資産を、戦略上必要な再配置として移送した――


 署名欄にあった名前を見たとき、室内のざわめきは一度、奇妙な静けさに呑まれた。


 レオポルド・シュトラッサー。

 ヴィクトル・シュナイダー。


 どちらも、前線にいるはずの人間だった。

 どちらも、机上の手続きを信じる類ではない。

 そしてどちらも、昨夜の会議で何が起きていたかを、通信越しに察知できるだけの位置にいた。


 理解は遅れてやってきた。


 これは逃走ではない。

 誘拐でもない。

 現場側による、あまりにも強引な“回収”だった。


 司令部が結論を出せずにいるあいだに、前線側が先に答えを出してしまったのだ。

 クラリスたちをこの場所に置いておけば、いずれ政治の中心へ引きずり込まれる。

 隔離されるか、利用されるか、そのどちらかになる。

 だからその前に、現場の判断で持ち去った。


 無論、正規の手続きではない。

 命令系統を踏み越えた、明白な越権行為だった。


 だからこそ、誰もすぐには何も言えなかった。


 その沈黙を破ったのは、軍務総監ゲルハルト・ヴァイスマン将軍だった。


 彼は、朝の混乱の中でも声を荒らげなかった。

 ただ事後報告の文面を一通り読み終えたあと、机上へ紙を置き、ゆっくりと周囲を見渡した。


「追跡命令は出すな」


 短い一言だった。

 それだけで、場の空気は再び変わった。


「しかし将軍、これは明らかな――」

「分かっている」


 反論しかけた参謀の声を、ヴァイスマンは穏やかに、しかし完全に断った。


「規律違反であり、越権行為だ。手続き上はな」


 そこで彼は、ほんのわずかに間を置いた。


「だが、今ここで騒ぎ立てて何になる。前線はなお流動的だ。フォート・グラーデンは取り戻したばかりで、完全な安全は程遠い。そこへ内輪の追及を重ねて、現場に二重の混乱を持ち込むつもりか」


 誰も答えない。


 答えられない、という方が近かった。


 将軍は、報告書の署名欄へもう一度だけ目を落とした。

 レオポルド。

 ヴィクトル。

 その二つの名を見つめる目には、怒りとも諦観ともつかない、読み取りにくい色が宿っていた。


「強くは追及しない」


 その言葉は、赦しではなかった。

 今はまだ、という猶予に過ぎない。


「現場には現場の理屈がある。そう判断するだけの何かが、彼らには見えていたのだろう。ならばまず、その結果を見届ける」


 室内の何人かが露骨に不満を浮かべた。

 何人かは、逆に安堵を隠した。

 だがヴァイスマンはそれ以上、説明を重ねなかった。


 彼は知っていた。

 今この件を無理に正そうとしても、もう元には戻らないことを。

 クラリスたちは消えた。

 いや、連れ出された。

 それは単なる人員の移動ではない。昨夜の会議が宙吊りにした問題を、前線側が別の場所へ持ち去ったということだ。


 つまり、火種は消えたのではない。

 ただ、場所を変えただけだ。


 ヴァイスマンは窓の外――まだ煙の残る基地外縁を一瞥した。

 再奪還の朝だというのに、空は少しも晴れて見えなかった。


 次の嵐が、すぐそこまで来ている。


 その予感だけが、やけに鮮明だった。


 フォート・グラーデンは取り戻された。

 だが、昨夜まで司令部の机上に載っていた問題は、より厄介な形で前線へ流れ出した。

 異常な神経リンク。

 特異な新兵。

 それを政治から遠ざけようとする現場の独断。

 そして、その独断を今はまだ見逃さざるを得ないという事実。


 どれひとつとして、静かに終わる類のものではない。


 朝の司令部には、なお人の声と端末音が満ちていた。

 けれどその喧騒の底では、誰もが薄々気づき始めていた。


 これは後始末ではない。

 次の段階の始まりなのだと。


 そしてゲルハルト・ヴァイスマンは、表情を変えぬまま、その始まりの気配だけを静かに受け止めていた。

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