3
キシュの繋がりが乱れ、断たれた。
燃え盛る炎はキシュの精神を衝き、崩した。
アシャンの心に入って来る情報のほとんどは混乱し、恐怖に満ちている。それは人の悲鳴や泣き声のようなものだ。キシュ自身だけでなく、アシャンの心もかき乱す。
炎は今だ燃え続け、キシュに恐怖を与え続ける。このまま手をこまねいていることは出来なかった。
ラハシ達が張り巡らせ、繋がっている“網”に、ジヤが激しい意志の力が投ぜられた。その響きは、全てのラハシに伝わる。張り巡らされた“網”は、ラハシ同士の心を繋いでいる。とはいえ、会話をするような詳しい意志を伝えることは出来ない。しかし、この状況でジヤから太鼓を打つような激しい響きを受け取った時、ラハシたちは皆、彼の意図を理解した。
キシュを、鎮めるのだ。
元々、ラハシは恐慌に陥ったキシュをなだめ、落ち着かせる技を持っている。それは、『鎮めの唄』と呼ばれていた。
それは、キシュガナンの地において、個々のラハシの力、技量によって使われてきた。狩猟、戦場、生活の場といった状況で発揮される技だったが、いずれにしてもこの戦いのような、大規模で異常な場面を想定していない。
そもそもラハシがそのような状況に遭遇してこなかったために仕方のない事なのだが、現実に敵が恐ろしい炎の技を使ってくる以上、想定していなかったと言っても何の解決にもならない。ラハシ達は敵の攻撃に対処するべく、『鎮めの唄』を工夫、発展させた。
それには、アシャンが重要な役割を果たした。
キシュの深奥に触れた感覚、シアタカたちを助けるために、繋がりを受け付けなかった群れを鎮めた経験。それらは、キシュとより深く繋がるために大きな力となる。ユハはラハシ達の中核となり、導く役目を受け持っていた。
アシャンは心の奥深くに沈み込んだ。
念をめぐらせ、キシュへ繋がる糸を太く、強くする。それは、揺らぐ水面に糸を垂らして模様を描くような感覚だ。刺繍を施した透かし模様の飾り布のようであり、虫さえ通さぬような細かい網目の巨大な網のようでもあった。その繋がりは、これまでのしなやかさを失い、脆くも崩れようとしている。
僅かに遅れて、他のラハシ達がその網へ“形”を送り込んできた。
戦列に立つジヤとラハシ達は、敵の脅威という想念を。
後背で繋がっているラハシ達は、キシュガナンが外界から見たキシュという心象を。
それぞれのラハシ達が発したそれぞれの“形”は、まるで泡粒のように方々へ飛び散ろうとする。
頭の内側から強まる圧迫されるような感覚。痛みが徐々に強まる。それに耐えながら、アシャンは散らばろうとする形を集め、まとめ、束ねる。硬直していた繋がりへ、しなやかさと震えを与える。そして、網のように広がり絡み付く力でキシュへ結びつけた。
その際に、自分の形もそこに強く重ねる。それは、己の絶望に寄り添ってくれたキシュから感じた形だ。キシュに人の心は理解できない。しかし、アシャンという存在の苦悩を感じ取り、憂い、支えになろうとしてくれた。それは、絶望の沼の中に沈み込んでいたアシャンにとって、大きな希望となったのだ。
ラハシ達はアシャンの力に上乗せして、途切れていた個々の繋がりを結び付けていく。新しく編まれたばかりの頼りない網を伝って、キシュに形が送り込まれた。
その形は、キシュに雷に打たれたかのような衝撃を与える。
キシュの個体各々が“我に返った”。
次々にキシュは恐慌から立ち直っていく。散らばった小石をかき集めて枠にはめるように、キシュの意志が繋がり、束ねられていった。
キシュが一斉に動きを止めた。微かに体が上下前後し、触角が動いてはいるが、足を止め、その場に立ち尽くしている。
先刻までの、四散し、混沌とした無秩序な群れではない。
シアタカはジヤに顔を向けた。ジヤは半ば忘我の表情で、砂に突き立てた槍に身を預けている。
ジヤの宣言通り、ラハシたちがキシュの混乱を立て直すために奮闘してくれているのだ。
今は、彼らの力を信じて待つしかない。
振り返れば、歩兵たちの前に煙の壁が生まれている。二手に分かれたもう一隊の空兵たちが煙幕を投下したのだ。
ウルスの地やその周辺では、古くから地中から染み出る“燃える水”、石油を原料とした兵器が使われてきた。ウル・ヤークス軍も例外ではない。自分たちを襲った炎漿のように直接被害を与えるものもあれば、煙幕のように敵を攪乱、妨害するために用いてきた。
ウル・ヤークス軍は自分たちの早い足を活かすために、炎漿や煙幕を使ってカラデア連合軍の攪乱、分断を狙ってきたのだろう。
キシュとキシュガナンの動きが止まっている間にも戦いは続く。
戦場という異常な場所で、何もせずにじっと待つことは難しい。焦燥と恐怖が苦痛となって戦士たちを苛む。その苦痛は、前進にしろ後退にしろ、人々をその場から追い立てようとする。古今東西の将たちは、そんな自軍の兵をその場に留まらせることに苦心してきた。
シアタカは戦士達の心の乱れを感じながらもキシュたちを注視した。
そんな中、戦場に喚声が響き渡った。その声は、甲高い恐鳥の鳴き声と武具の鳴る音を伴っている。シアタカはそちらに顔を向けた。
キシュガナンがいる位置からは正反対、横に長く広がった戦場の端と端。
恐鳥を駆る重装騎兵が凄まじい速度で駆けて行く。
「騎士シアタカ! 紅旗衣の騎士です!」
悲鳴にも似た叫び声をあげたのはウィトだ。
先頭を駆ける巨躯の騎士がこちらを一瞥する。跨っている恐鳥がまるで雛鳥のように見える巨躯を見間違えるはずがない。
「団長……」
ウィトの声が畏怖の感情で震えている。
紅旗衣の騎士たちは、煙の壁目掛けて一直線に駆けて行く。そして、号令一下、投槍を投じた。投槍の雨が煙の向こうに飛び込み、次々と悲鳴が上がる。
「シアタカ! 本陣を衝かれる!」
エンティノの焦燥に満ちた叫び。
投槍の後を追って、騎士たちはそのまま煙の壁の向こうへ消えていく。
次の瞬間、うなじが泡立つような異様な感覚に襲われて、シアタカは振り返った。
硫黄のような匂いが漂い、未だ消えない炎の壁の中から、驢馬ほどの大きさの黒い巨体が次々と飛び出した。それはまるで、踊る焔から生まれ出たようだった。
その姿は犬のようだったが、炭のように黒い体をしており、その表面を陽炎が揺らめいている。目は赤く輝き、小さく開いた口からも、吐息とともに青白い火が漏れ出していた。この突如現れた超自然の獣を見て、戦士たちに動揺が広がる。
この獣は、“黒の猟犬”と呼ばれていた。シアタカのいた戦場でも、何度か黒の猟犬が召喚されたことがある。重装騎兵を上回る衝撃力をもった恐ろしい相手だ。
炎から現れた合計十頭の獣は、立ち止まることなくそのまま駆け出した。
黒犬たちは、通り道にいる戦士たちに襲い掛かることはなく、凄まじい迅さで駆け抜ける。
シアタカは、迫る黒の猟犬に向かうと、機を計って刀で切りつけた。
手に伝わって来る異様な感触。確かに硬い物体に刀身が触れた反動を感じていながら、同時に水を切ったような不確かな感触も伝わって来る。本来ならば大きな傷を付けているはずだが、猟犬はさして傷を負ったようには見えず、その勢いは衰えない。
猟犬は、そのままシアタカに構うことなく駆け抜けていった。
ほぼ同時に、エイセンが雄叫びと共に大槍を振るうが、その疾走を阻むことは出来ない。
「こいつ、刃が通らんぞ!
エイセンが驚愕の声で叫んだ。聖別されたシアタカの刀でも、そこまで傷を負わせることができなかった。おそらく、正面から立ち向かって首を断つなどしなければ殺せないだろう。だとすれば、アムカム銅を鍛えたとはいえ戦士の槍では、半ば幽世に身を置く黒の猟犬を傷付けることはできない。
そのまま黒煙の壁へと駆けて行く魔物たちを見て、シアタカは悟った。
紅旗衣の騎士を金槌とし、黒の猟犬を釘としてカラデア軍の陣営に深く打ちこむつもりだ。黒の猟犬は長く現世に留まることは出来ないが、本陣を喰い破るには十分な時間はある。
あっという間に、猟犬の群れは煙の中へ跳び込んでいく。
シアタカは戦場の彼方に視線を向けた。味方の騎兵たちはウル・ヤークス軍を相手に奮戦している。すぐに本陣へ戻ることなどできない。焦燥の火が頭の奥を焼くような感覚。しかし、それに支配されてはいけない。
口を噤んだままこちらを見つめるハサラトと目があった。ハサラトは小さく頷く。
一瞬の逡巡を振り払って、シアタカはすぐに決断した。
「キシュを置いていくぞ! 同胞を救うんだ!」
手綱を引き恐鳥を反転させたシアタカの声に、戦士たちは一瞬ざわめいたが、決意に満ちた表情で頷く。そして、すぐに動き始めた。
ウァンデやエイセンたちの指示に従い、戦士たちは改めて隊列を組む。ここからの戦いは、キシュに頼ることは出来ない。ただ、戦士たちの武勇だけで切り抜けるしかない、不利な状況だったが、戦士たちの士気は高かった。
ジヤたちに数人の付き添いを残して、戦士たちは素早く準備を終えた。
「我らはすでに、キシュに劣らぬ一つの群れだ! 誰よりも早く駆け、迫り、貫く嵐のごとき刃の群れ! 戦士たちよ! 恐れるな!」
刀を掲げたシアタカに応じて、戦士たちは雄叫びを上げた。
暗い水面から跳ね上がった魚の群れのように、投槍の波が黒煙の向こうから、柄をしならせながら飛来した。
その投槍は狙いを定めて投じたものではなかった。身構え、心構えていたなら躱したり防ぐことができただろう。しかし、押し寄せてくる煙によって目や喉を傷めていた兵士たちは、どこからくるのか分からない凶器に反応することができない。密集していた兵士たちは、まともに喰らうことになった。
凄まじい威力の刃は、盾や兜を貫き、守りを固めていたはずの兵たちをいとも容易く薙ぎ倒す。投槍の数はそう多くはないが、その凄まじい威力は兵士たちを震え上がらせた。
煙の向こうから聞こえてくる喚声と、鉄と砂の鳴る重い音。
姿が見えないことで、恐怖はいや増し、兵たちに重くのしかかる。迫り来る音と同胞の上げる悲鳴と苦悶の声に挟まれて、兵たちは激しく動揺した。
カラデア歩兵の戦列に乱れが生じる。
まずい。
危惧を覚えたキエサが指示を出そうとしたその瞬間。
黒い壁の向こうから、刀槍を構えた悪夢が現れた。
恐鳥に跨った紅旗衣の騎士たちは、一斉に喚声を上げると再び投槍を放つ。初めの攻撃が広い範囲に放たれたものであったことに対して、この攻撃は一点に向かって塊のように放たれた。
狙われたのは戦陣の中央部分だ。
凄まじい威力の投槍を集中して受けたことで、兵たちはまるで吹き飛ばされるように一度に倒れる。それが止めになった。共にならぶカラデア、ユトワ、鱗の民の中でも、カラデア兵たちは耐えることができなかったのだ。恐怖に支追い立てられたカラデア兵たちが、迫る脅威から逃れようと、武器を投げ捨て、背を向ける。僅かながらに踏み止まる勇敢な兵たちと入り乱れ、陣形が大きく崩れた。
キエサは、兵たちに生じた混乱を歯噛みしながら見た。そして、叱咤も指示も出せぬまま、凄まじい速度で敵が肉薄する。
騎士たちは号令一下、流れるように集うと矢のように一つとなった。
鱗の民が凄まじい咆哮を上げた。騎士の突撃を阻もうと、逃げ惑うカラデア兵をかき分けながら、改めて隊列を組み直そうと試みている。同時に、ユトワの兵たちも同じように穿たれた空隙を埋めようと踏み止まっていた。
乱れ、崩れた陣形の空隙に、紅旗衣の騎士が錐のように食い込んでいく。鱗の民の兵たちも抗うが、彼らは戦陣の中では少数だ。壁を作ろうとするも間に合わず、騎士たちは穴を穿った。統制を失った兵たちは為す術もなく蹂躙され、道が切り拓かれていく。そう厚くはない陣形は喰い破られて、騎士たちはすぐに兵たちの背後へと駆け抜けた。
騎士たちが砂丘の斜面を駆けあがる。
千年木の影が四体、横合いから阻もうと丸い巨体を弾ませるようにして駆ける。
その動きに呼応して、数十騎の騎士たちが隊列から離れると、精霊たちの方向へ広がった。素早く弓を構え、矢を放つ。それを受けた千年木の影は衝撃を受けたように身をよじった。
しかし、精霊たちは動きを止めない。丘の上の本陣の前に壁となって立ち塞がる。
騎士たちは、喚声と共にその壁へと恐鳥を駆った。
先頭を駆ける一際巨躯の騎士が、長大な槍を掲げる。それを迎え撃つ千年木の影も、両腕を大きく広げた。
巨躯の騎士は、雄叫びと共に振り下ろされる精霊の腕へ槍を叩きつけた。千年木の影は大きく仰け反る。同時に、他の騎士たちも、次々と他の精霊たちへ襲いかかった。
千年木の影は、取り囲む騎士たちへ鉤爪を振るうが、彼らは巧みに恐鳥を操ってそれを躱す。そして、代わる代わる槍を繰り出し、矢を放った。その技量の高さを見て、キエサは思わず唸る。
精霊たちが騎士たちを食い止めている間に、士気を保っている兵士たちがまとまり始めた。これで敵に立ち向かえる。キエサの心に希望が宿った瞬間。
煙の壁の向こうから、再び何かが飛び出した。
それは、煙がそのまま実体を得たような、黒い巨大な犬たちだ。犬の周囲の大気は蜃気楼のように揺らぎ、その目は赤く輝いている。突如姿を現わした恐ろしい獣に、兵士たちが驚きと恐怖の声を上げた。
あれは、この世のモノではない。キエサは直感した。
犬たちは一切立ち止まることなく、恐ろしい速さで駆ける。あの獣たちがどこを目指しているのか、それは明らかだ。
精霊と騎士たちの戦いへ向かい、そこに加わることなく足元をすり抜ける。
千年木の影が阻もうと鉤爪を伸ばすが間に合わない。
すぐにここに来る。キエサは覚悟を決めて剣を抜く。
「来るぞ、キエサ!! 備えろぉ!!」
吼えるようなワアドの声。
「はい! カナムーン、皆を守ってくれ!!」
キエサはカナムーンに顔を向け、叫んだ。




