第三話 契約の外にあるもの
帳簿を確かめ始めてから、三日が過ぎた。エレーヌは午前中を公爵邸の執務室で過ごし、午後には伯爵家の領地から届いた報告書にも目を通した。数字を追ううち、領地の収入が減った理由は作物の不作だけではないとわかってきた。街道沿いの橋が傷み、荷車が遠回りを強いられている。修繕の申請は何年も前から出ていたのに、予算が別の用途へ回されていたのだ。
「この橋を直せば、領地から王都へ運ぶ荷の時間も短縮できます。通行税の収入も戻るはずです」
「その通りです。伯爵家では、修繕費を捻出できなかったのですね」
「はい。父が病に倒れてから、目の前の支払いを優先せざるを得ませんでした」
アシュトンは報告書に目を通し、すぐに領地管理人へ指示を書きつけた。必要な資材と人員を手配し、工事が始まるまでの仮設橋も用意するという。エレーヌが驚いたのは、その決断の早さだけではなかった。彼は彼女の提案を、妻の思いつきとして扱わず、領地を知る者の意見として受け止めている。
「あなたが見つけた問題です。あなたにも、工事の進み具合を確認してもらいたい」
「私がですか?」
「ええ。現地を知っているのはあなたですから」
「公爵家の方々は、契約結婚の妻が領地に口を出すことを不審に思うかもしれません」
「不審に思う者がいるなら、私が説明します。あなたの判断には、その価値がある」
迷いのない言葉に、エレーヌの胸が熱くなった。家を守るために学んできたことを、役に立つと言ってもらえたのは初めてだった。伯爵家では、彼女の意見が必要とされることはあっても、その努力そのものを認められることは少なかったのだ。
「ありがとうございます。必ず、最後まで確かめます」
「ええ。期待しています」
その日の午後、エレーヌはアシュトンとともに公爵邸の温室を訪れた。領地管理人へ届ける書類を整えるため、執務室を離れて気分転換を勧められたのだ。温室の天井には小さな魔石灯が埋め込まれ、陽が傾いても花々を柔らかく照らしている。庭師が生活魔法で水を撒くと、細かな水滴が葉の上で光った。
「この花は、夕方になると香りが強くなるのですね」
「ええ。香りの強い花は苦手だと聞いていたので、あなたを案内する場所から外していました」
「それも、昔からご存じだったのですか?」
「慈善院の庭で、あなたが香りの強い花を避けていたのを見ました」
エレーヌは足を止めた。彼は何をどこまで覚えているのだろう。寄付品を仕分けていたことも、杏のジャムを選んだことも、子どもの手当てをしたことも。彼女自身が忘れかけていた些細な場面を、アシュトンは年月を越えて抱えていた。
「公爵様は、私に何かを期待していたのですか」
「いいえ。あなたが何かをしてくれると期待していたわけではありません」
「では、どうしてそこまで……」
「見ていたかったからです」
あまりにも率直な答えに、エレーヌは視線をさまよわせた。アシュトンは困らせるつもりなどないようで、ただ事実を述べた顔をしている。けれど、彼女の胸には小さな波が広がった。契約相手として必要な情報を集めた、というだけでは説明できない言葉だった。
「公爵様は、私を好きだったのですか?」
「……昔から、あなたを尊敬していました」
「尊敬、ですか」
「あなたは、自分が報われるかどうかに関係なく、目の前のことに誠実でした。私はそれを見て、あなたの隣に立てる人間になりたいと思った」
アシュトンはそこで言葉を切った。温室の魔石灯が、彼の灰青の瞳に淡く映っている。エレーヌは答えられなかった。尊敬という言葉は、愛とは違う。けれど、彼がそこまで長く彼女を見ていたことは、簡単には受け流せなかった。
「結婚を申し込んだのは、伯爵家を救うためだけではありません」
「それは……」
「あなたに、ようやく隣に立つ機会をもらえたと思ったのです」
彼は、契約結婚を望んだ理由を話している。そう理解しても、エレーヌにはその言葉が、契約書には書かれていないもののように感じられた。彼女が黙っていると、アシュトンはそれ以上を求めず、温室の出口へと歩き出す。
「すぐに返事をする必要はありません。私があなたを見ていた時間を、同じだけ返してほしいとも思っていません」
「そんなふうに言われたら、かえって気になります」
「それは、申し訳ないことをしました」
いつもよりわずかに困ったような表情に、エレーヌは思わず笑みをこぼした。アシュトンはその笑顔を見て、ほんの一瞬だけ目を細める。彼女が笑ったことを大切に受け取るような仕草だった。
夜、エレーヌは寝室の魔石灯を自分で調整した。生活魔法で灯りを少し弱めると、淡い光が部屋の隅に落ち着く。彼女は机の上に置かれた帳簿を閉じ、今日聞いた言葉を思い返した。
契約のために必要な知識なら、いつか忘れてもおかしくない。けれどアシュトンは、彼女が誰かのために動いた姿も、好きなものも苦手なものも、何年も覚えていた。
彼の言う「尊敬」がどんな想いなのか、エレーヌにはまだわからない。ただ、契約結婚の夫に向けるには、彼の視線はあまりにも優しかった。
翌朝、領地から届いた知らせが、その静かな戸惑いを破ることになる。修繕を始めた橋の近くで、伯爵家の管理人が不正を疑われ、身柄を拘束されたというのだ。




