第四話 契約が終わるその日まで
領地管理人の拘束を知らせる書簡は、朝食の席に届いた。橋の修繕費として保管されていた資金が帳簿から消えており、管理人が横領した疑いをかけられているという。エレーヌは手紙を読み終えると、すぐに首を横に振った。
「彼が横領したとは思えません。父が病床にあった頃も、管理人は領地を守るために尽くしてくれました」
「私も、彼の仕事ぶりを信頼しています。ただ、疑いを晴らすには記録が必要です」
「帳簿を確認しましょう。修繕の申請が出された時期と、資金が動いた時期を照らし合わせれば、何かわかるかもしれません」
執務室へ移ると、エレーヌは届いた帳簿を机に並べた。公爵家の書記官も交えて、支出の記録と領地管理人からの報告書を照合していく。魔石灯が窓から差す光を補い、紙面の細かな文字を照らすなか、エレーヌは父が亡くなる直前の記録に目を止めた。
「ここです。この金額は、橋の修繕費として計上されていません。けれど、同じ日に管理人から父へ、支出の承認を求める書簡が届いています」
「使途は?」
「橋の修繕ではなく、領地の冬越し用の備蓄です。前年の不作で食料が不足していた村へ、穀物を先に届けたのでしょう」
当時の領地は、冬を越すための食料さえ足りなくなっていた。管理人は父の許可を得て、修繕費として確保されていた資金の一部を備蓄の購入に回していたらしい。エレーヌは父の署名がある承認書を見つけ、胸の奥にこみ上げるものを覚えた。管理人は勝手に金を動かしたのではない。父と相談し、領民を飢えさせないために使ったのだ。
「この記録があれば、横領ではないと証明できます」
「ええ。管理人をすぐに解放するよう、領地へ知らせましょう。橋の修繕費についても、改めて必要額を用意します」
「ありがとうございます。父の判断を守ることができてよかったです」
アシュトンは、エレーヌの手元に置かれた承認書を確認し、彼女の見立てに間違いがないと書記官へ告げた。公爵家の名で領地へ送る書簡には、彼女の調査によって管理人の潔白が確認されたことも記される。エレーヌはそれを見届けてから、ようやく椅子の背にもたれた。
「あなたが気づかなければ、彼は罪人にされていたかもしれません」
「いいえ。帳簿が残っていたから、確かめることができました。それに、私ひとりでは公爵家の協力を得られなかったでしょう」
「あなたは、いつも自分の働きを小さく見積もりますね」
「そんなつもりはありません」
「なら、これから少しずつ覚えてください。あなたの判断が人を救ったのだと」
その言葉を受け取るように、エレーヌは目を伏せた。父が亡くなってから、彼女は自分にできることを探し続けてきた。誰かに必要とされるために努力していたわけではない。それでも、努力を見つけてくれる人がいると知ったことは、彼女の心を静かに満たしていた。
午後には管理人の解放が決まり、領地から無事を知らせる返事が届いた。橋の仮設工事も予定どおり始まるという。報告を受けたエレーヌは安堵し、アシュトンとともに温室へ向かった。夕暮れの魔石灯が花々を照らし、庭師の生活魔法で葉に水滴が広がる。初めて来たときと同じ景色なのに、隣を歩く彼との距離だけが、少し近くなったように感じられた。
「公爵様。先日、結婚を申し込んだのは伯爵家を救うためだけではないとおっしゃいましたね」
「はい」
「それは、私を妻にしたかったということですか」
「あなたの隣に立ちたかった。結婚を申し込んだ理由を一つ選ぶなら、それです」
アシュトンは足を止め、エレーヌを見つめた。彼の灰青の瞳には、いつもの落ち着きとともに、隠しきれない緊張があった。
「昨夜、私は君を愛する予定はなかったと言いました。あれは、嘘ではありません。あなたを知る前から、愛していると決めつけるつもりはなかった。契約を結び、あなたと暮らして、あなた自身の気持ちを確かめる前に、愛を押しつけるつもりはなかったのです」
「では、今は……?」
「今は、あなたを愛しています。昔から尊敬していたことも、隣に立ちたいと願っていたことも本当です。ただ、あなたが私をどう思うかを確かめずに、妻になったから愛してくれと言うつもりはありませんでした」
エレーヌはすぐに答えられなかった。彼の言葉は、彼女が予想していたよりも誠実で、そして少しだけ不器用だった。結婚したから愛されるのではない。契約を結んだから求められるのでもない。彼は彼女が自分を選ぶかどうかを待つために、あえて「愛する予定はなかった」と告げたのだ。
「私は、あなたの気持ちに気づいていませんでした」
「気づかれないようにしていましたから」
「それでは、気づけるはずがありません」
「その通りです。申し訳ない」
アシュトンが真面目に謝るので、エレーヌはこらえきれずに笑った。彼も、わずかに表情を緩める。その顔を見ていると、契約書に記された一年という期限が、急に惜しいもののように感じられた。
「公爵様は、私の好みも苦手なものも、ずっと覚えていてくださいました。領地の意見も聞いてくださって、私が自分の働きを小さく見積もるところまで見抜いていらっしゃる」
「ええ」
「そんなふうに大切にされたら、私もあなたを知りたくなります。契約の期間が終わる前に、あなたのことを好きになってしまうかもしれません」
「それは、私にとって望みすぎるほどの言葉です」
彼がそっと手を差し出す。エレーヌは少し迷ってから、その手に自分の指を重ねた。アシュトンは強く握らず、彼女が手を引けばすぐに離せる力加減で包み込む。その慎重さに、彼がどれだけ彼女の答えを待ってくれていたのかが伝わった。
「今夜は、隣室ではなく同じ寝室にいてもいいですか」
「はい。ただし、急に何かを決めるのではなく、まずは一緒にお茶を飲みたいです」
「蜂蜜を入れたものを用意させます」
「私の好みを、もうご存じですものね」
「ええ。けれど、これからは新しい好みも知りたい」
その夜、寝室の魔石灯は、エレーヌが自分で選んだ明るさに調整されていた。アシュトンは彼女の隣に腰かけ、二人で蜂蜜入りの紅茶を飲む。昨夜と同じ甘さなのに、今夜はその味を分け合う相手がいる。それがエレーヌには、契約書には書かれていない約束のように思えた。
一年後、契約を終える日が来たとしても、彼女はきっと彼の隣にいるだろう。そう思えるほど、アシュトンの愛情は初夜から甘く、彼女の心を急かさずに満たしていった。




