第二話 あなたを見つけた日のこと
翌朝、エレーヌは窓辺の魔石灯が消える前に目を覚ました。昨夜は紅茶を飲んだあと、アシュトンが用意してくれた寝室で一人きりで休んだ。彼が隣室にいると思うと落ち着かない気もしたが、強い香水の匂いもなく、灯りも柔らかく調整されていたおかげで、いつの間にか眠りに落ちていた。
身支度を整え、寝室の水差しに生活魔法で水を満たす。伯爵家では水汲みも掃除も、できるところは自分で魔法を使って済ませてきた。公爵邸の侍女たちは手伝うと申し出てくれたが、簡単なことまで頼むのは気が引けて、エレーヌはいつもの癖で手を動かす。
朝食の席に向かうと、アシュトンはすでに食堂にいた。窓から差す朝日を受けた銀器がきらめき、壁の魔石灯は明るさを落としている。彼は新聞から顔を上げ、エレーヌの姿を認めると、椅子を引いて迎えた。
「よく眠れましたか」
「おかげさまで。紅茶も、とてもおいしかったです」
「それならよかった」
それだけの会話なのに、アシュトンの声は昨夜より少し柔らかく聞こえた。食卓には焼きたてのパンと卵料理、果物が並んでいる。エレーヌがパンに手を伸ばすと、彼は給仕に目を向けた。
「ジャムは、杏のものを」
「はい、旦那様」
侍女が差し出した小皿には、鮮やかな橙色のジャムが添えられていた。エレーヌは手を止める。彼女が好むのは杏のジャムだった。甘さが控えめで、少し酸味がある。けれど、それを公爵に伝えた覚えはない。
「公爵様は、私の好みをどこでお知りになったのですか?」
「昔、あなたが選んでいるのを見ました」
「私が?」
「王都の慈善院で、寄付品の仕分けをしていたときです」
記憶の底に、あの日の光景がよみがえる。父が亡くなる前、エレーヌは母に連れられて慈善院を訪れたことがあった。寄付された食料や衣服を仕分け、子どもたちに渡す品を整える仕事を手伝った。帰り際、余ったパンにつけるために杏のジャムを選んだのを覚えている。
「あのとき、公爵様もいらしたのですか」
「公爵になる前です。父に同行していました。あなたは、ほかの人が帰ったあとも、帳簿の数を確かめていた」
「数が合わない品がありましたから。子どもたちに渡すものですし、間違いがあってはいけないと思って」
「そういうところを見ていました」
アシュトンは淡々と答えたが、その視線はまっすぐエレーヌに向けられていた。彼女は返す言葉を探し、結局、ジャムをパンに塗る。小さなことを覚えていた理由を尋ねたかったのに、食堂には給仕もいて、うまく聞き出せなかった。
朝食の後、エレーヌは公爵邸の執務室へ案内された。邸内の廊下には魔石灯が等間隔に設置され、窓のない場所も明るく保たれている。侍女が手のひらをかざすと、壁際の灯りがふわりと強まり、彼女は「これも生活魔法の一種でございます」と説明した。
執務室には、すでに領地の帳簿が何冊も積まれていた。アシュトンは契約結婚の条件について、生活費や使用人の配置、伯爵家への援助を改めて説明する。彼の説明は明快で、こちらから尋ねる前に必要な情報をそろえてくれていた。
「伯爵家の領地を立て直すため、私にできることがあれば協力したいと思っています。帳簿を見せていただけますか」
「もちろんです。あなたが望むなら、領地の会議にも参加してください」
「妻だから、という理由ででしょうか」
「あなたが領地のことを理解しているからです。肩書きではなく、あなた自身の判断を聞きたい」
エレーヌは公爵を見つめた。契約のために迎えた妻へ、ここまで率直に裁量を認めるものなのだろうか。彼は彼女の努力を見ていたと言った。けれど、ただ昔の姿を覚えていただけで、そこまで信頼できるものなのかはわからない。
「わかりました。まずは帳簿を確認させてください。気になる点があれば、質問してもよろしいですか」
「そのために用意しました」
アシュトンが机の上の書類を彼女の前へ滑らせる。その手元に、エレーヌは小さな傷を見つけた。紙で切ったような浅い傷だが、指先に赤い線が残っている。
「お怪我をなさっています」
「大したことはありません」
「それでも、手当てを」
エレーヌが生活魔法で清潔な水を作ろうとすると、アシュトンは一瞬だけ目を見開いた。彼女は水を小皿に受け、清めの魔法をかけた布を差し出す。彼はそれを受け取りながら、どこか懐かしそうに目を細めた。
「あなたは、昔から誰かの怪我を見過ごせない」
「そんなことは……」
「慈善院でも、指を切った子どもの手当てをしていました。自分の手袋を破いて包帯にしていた」
「覚えていらしたのですね」
「忘れられませんでした」
静かな言葉が、執務室に落ちた。窓辺の魔石灯が日光に負けないほどの明るさで燃えている。エレーヌはアシュトンの顔を見たが、彼はすぐに視線を帳簿へ戻した。
「あなたは、私が思っていたよりずっと昔から、私を見ていたのですね」
「そうです」
「それなのに、昨夜は愛する予定がなかったと」
「……愛するつもりがなかった、というのは正確ではありません」
アシュトンの声が、わずかに低くなる。エレーヌが問い返す前に、彼は帳簿を開いて話を変えた。
「まずは領地の収支を見てください。あなたの知っていることと照らし合わせれば、改善できる点があるはずです」
「公爵様」
「仕事の話をしましょう。あなたが望んだことです」
そう言われると、エレーヌはそれ以上追及できなかった。帳簿に目を落としながらも、彼の言葉が心に残り続ける。愛するつもりがなかった、というのは正確ではない。その真意を聞くには、まだ早いのだろうか。
アシュトンは、彼女がページをめくる音を聞きながら、胸の内に沈めた過去を思い返していた。あの日、慈善院の庭で、子どもたちに囲まれて笑う彼女を見た。公爵家の後継として父の隣に立つ自分には、彼女へ声をかける理由すらなかった。
結婚を申し込んだのは、伯爵家を救うためだけではない。彼女の努力を知る自分が、今度こそ隣に立ちたいと思ったからだ。
そのことを告げるには、契約結婚という言葉が、あまりにも都合よく彼の本心を隠してくれていた。




