第一話 愛する予定はなかった
夜会の広間を照らす魔石灯は、磨き上げられた床に金色の光を落としていた。エレーヌはその明かりの下で、差し出された婚姻契約書に目を通す。公爵家が伯爵家の負債を肩代わりする代わりに、彼女はアシュトン・ド・ヴァレンティア公爵と一年間の契約結婚を結ぶ。期限を迎えたあと、どちらかが望めば婚姻を解消できるという取り決めだった。
「条件に異存はありません」
署名を終えたエレーヌがペンを置くと、向かいに座るアシュトンも自分の名を記した。濃い黒髪に灰青の瞳を持つ彼は、王都でも知られた冷静な公爵だ。社交界では「氷の公爵」と呼ばれているらしいが、彼の表情が崩れるところをエレーヌは見たことがなかった。
「これで、あなたの家の負債はすべて清算されます。領地の運営にも、こちらから必要な人員を送ります」
「ありがとうございます。公爵家にご迷惑をおかけしないよう、妻としての務めは果たします」
「無理をする必要はありません。契約にある範囲で、あなたが望む生活をしてください」
望む生活、と言われても、エレーヌにはすぐに思い浮かばなかった。父を亡くしてからは、領地の帳簿と社交の作法を覚えることに追われてきた。朝は生活魔法で台所の水桶を満たし、夜は執務室の魔石灯が消えるまで書類に向き合う。自分の好みを考える余裕など、ずっと後回しにしていた。
結婚式は、契約書に署名したその日のうちに執り行われた。公爵家の礼拝堂には小ぶりな魔石灯が並び、淡い光が祭壇を静かに照らしていた。参列者は両家の親族と限られた使用人だけで、華美な祝宴もない。誓いの言葉を交わすとき、アシュトンは一度だけエレーヌを見つめたが、その瞳に何が浮かんでいるのかは読み取れなかった。
そして今、エレーヌは公爵邸の寝室にいた。初夜と聞いて緊張していたものの、部屋に入って最初に目にしたのは、暖炉のそばに置かれた小さなティーセットだった。寝台脇の魔石灯は明るさを落としてあり、窓辺には強い香りの花ではなく、白い小花が一輪だけ飾られている。
「緊張していますか」
背後から声をかけられ、エレーヌは肩を揺らした。振り向くと、アシュトンが扉のそばに立っている。彼は近づいてこず、エレーヌの返事を待つように静かに見つめていた。
「少しだけ。ですが、契約ですから……必要なことでしたら、きちんと」
「必要ではありません」
予想していなかった言葉に、エレーヌは瞬きをした。アシュトンは視線を和らげ、寝台から距離を保ったまま続ける。
「今夜、あなたに何かを求めるつもりはありません。ここで休んでください。私は隣室を使います」
「でも、初夜ですのに」
「契約書に、初夜の義務は記していないでしょう」
あまりに真面目な口調だったので、エレーヌは返す言葉を失った。公爵様は契約を守る人なのだ。その誠実さにほっとする一方、彼が自分に何を期待しているのか、ますますわからなくなる。
「それから、ひとつ伝えておきます」
扉へ向かいかけたアシュトンが足を止めた。魔石灯の淡い光が、その横顔に静かな陰影を作っている。
「私は、君を愛する予定はなかった」
胸の奥が、かすかに痛んだ。契約結婚なのだから当然だと、エレーヌは自分に言い聞かせる。愛情を求めて嫁いだわけではない。家を守るために必要な選択をしただけだ。
「承知しております。私も、公爵様に愛していただこうとは思っていません」
「そうですか」
アシュトンは短く答え、それから暖炉のそばのティーセットへ目を向けた。
「蜂蜜を入れた紅茶を用意させました。君は甘いものが好きでしょう。飲んでから休むといい」
「……どうして、それを?」
エレーヌが尋ねても、彼はすぐには答えなかった。かわりに、寝室の扉を少し開け、廊下の魔石灯が差し込む明かりを確かめる。
「この邸の魔石灯は、夜中にまぶしくならないよう調整してあります。もし暗すぎるようなら、生活魔法で明かりを足せますが、あなたは強い光が苦手だと聞いています」
「そんなことまで、ご存じなのですか」
「……昔、見かけたことがあるのです」
それだけ告げると、アシュトンは扉の向こうへ消えていった。残されたエレーヌは、湯気の立つ紅茶と、白い小花を見つめる。彼は愛する予定などなかったと言った。それなのに、彼女が好む甘さも、苦手な香りも、灯りの加減まで知っている。
契約書には、一年間の期限が記されていた。
けれどエレーヌはまだ知らない。アシュトンがその一年を、彼女の隣に立つためにどれほど長く待ち続けたのかを。




