第四話
浪川くんが放送部に入ってから、およそ二ヶ月が経った。
初めは戸惑いや不信感ばかりだった彼の存在は、気づけばすっかり放送部の一員になっていた。「放課後ラジオ」の台本作りも準備も、二人でやるのが当たり前になっていて、僕はそんな時間がずっと続くものだと、どこかで勝手に思い込んでいたのかもしれない。
……違和感に気づくのが遅れたのは、そのせいだったのだろうか。
「──あれ? 今日の原稿、まだもらってない」
それは終礼前の下校準備中のこと。せっせと通学鞄に教科書を詰め込んでいた僕は、ふと浪川くんから台本の原稿を受け取る予定だったことを思い出す。
忘れていたのは、今日が木曜日だったから。用事があるという理由で火曜日の部活動を欠席した彼に、僕は原稿の締め切りとして今日を設定していたわけだが、いつもと異なるスケジュールもあって、頭からすっかり抜け落ちていた。
余談だが、この状況は初めてのことではなかった。浪川くんは先々週の火曜日も部を欠席していたが、その時は翌日の放課後に「できました~」と軽いノリで原稿を持ってきてくれていた。
(忘れた……? ううん、浪川くんならありえる……か?)
でも、明日にはラジオが控えている。このままでは最悪放送に間に合わなかった。
どうにも胸騒ぎがする。嫌な予感を振り払うように、僕はすくりと席から立ち上がった。
「おっ、どうしたー? 江古田」
突然席を立った僕に、後ろの席のクラスメイトが目を丸くする。「浪川くんのところ行ってくる」と告げれば、彼は怪訝そうに「え? 浪川ってあの浪川?」と眉を顰めた。くるくる変わる表情は、暗に「大丈夫か?」と僕に心配を告げる。
「何がどういうワケで浪川んとこ行くんだよ。お前とあいつ、関係あったっけ」
「浪川くん、一応放送部だから」
「えっ!? 『流浪の男』、いま放送部いんの? どういう風の吹き回しで!?」
そんなの僕が知りたい。が、何がどうしてか、巡り巡ってこうなっている。そして僕は部長である以上、クラブのことには責任を持たなければならなかった。
めらりと使命感に燃える僕を前に、クラスメイトは「あー、まあ……程々にな」と生温かい眼差しを向ける。僕がそれにはてと首を傾げれば、彼は「なんつーかさ……」と声を潜めた。
「ほら、浪川って飽きやすいじゃん? だから……あんま期待しない方がいい、つーか。期待すると痛い目見る、というか……」
クラスメイトなりに気遣った言い回しに、僕は目をパチクリさせ、そしてそっと口角を緩める。
「……そんなこと、浪川くんが入部した時から分かってるよ」
そして僕は、それでもなお、彼とこれまで何とかやってきた。
「ちょっと行ってくるね」
原稿を受け取りに、浪川くんの教室へ向かう。廊下を歩く足取りが、いつもより少しだけ重かったが、それには気づかないフリをした。
直線距離をしばらく進んで、三教室め。浪川くんのクラスの前に立つと、扉の向こうから明るい笑い声が聞こえてきた。
終礼前に教室がざわつくのはどこも変わらない。ドアの窓から室内を覗き込めば、彼はクラスの中心にいた。彼の雰囲気によく似た、彼の友人らしい人たちに囲まれ、何やら楽しそうに話し込んでいる。その輪の中に、僕が入る余地はまったくない。……それでも、
(……原稿、もらわないと)
胸の奥がきゅっと縮むのを感じつつも、僕はぐっと息を飲み、その扉をスライドした。
「あれ、江古田クン?」
真っ先に気づいたのは浪川くんだった。口をポカンと開けては、すぐに立ち上がる。「教室来るなんて珍しい──」と言いかけ、その次の瞬間に「……あっ」と声を漏らすと、彼の表情はたちまち青ざめた。
「やべ……原稿、まだ渡してなかったよね。マジでごめん、今持ってく!」
慌てて鞄を漁り、シワの付いた紙束を引っ張り出す。その動きがあんまり必死で、急いでいたものだから、僕は思わず胸の前で手を振った。
「あ、ううん。大丈夫。ありがとう。……押しかけちゃってごめんね」
「いや、謝んないで。俺が百パー悪いから。なんか今日、色々あって──」
と、その時、唐突にも浪川くんの言葉を、取り巻きの一人が強引に遮る。「え、なに? 放送部の台本?」と、軽い口調で……面白がるように。
「浪川お前、まだあれ続けてんの?」
尋ねるその声音が、どこか乾いた響きをしていた。
「つーかさ、最近お前、放課後全然来ねぇじゃん。放送よりこっち優先しろよ、なぁ?」
「そーだよ。もっとあたしらと遊ばん? ナミいないとつまんないんだけど」
「おい、やめろって」
浪川くんが唸るような声で制する。しかし当の彼らは、どこか白けた目で僕を見ていた。その突き刺さるような視線が痛い。僕がここにいること自体が、迷惑みたいに感じられる。……まあ、実際その通りかもしれない。
鮮やかな色に染められた髪、校則違反の化粧やアクセサリー。いくつも開けられた胸元のボタンや、何重にも折られたスカートは、とても僕のような生徒に馴染みはなかったから。
「お、お邪魔してごめんね、浪川くん。……じゃあ、これで」
原稿を受け取り、僕はそそくさと教室を出ようとする。その背後では、僕をよそに彼へと話しかける声がいくつも聞こえた。
「放送部とか、よく続くよな。飽きねーの?」
「ぶっちゃけ浪川らしくねえよな。『流浪の男』の名が廃る」
「部活やんならスポーツやれよ、スポーツ。そんでまた大会制覇してさー」
「そっちのがオモロいし、もったいねえよ、才能がさ」
空気はまるで、場違いな僕を追い出そうとするかのよう。それ自体は然して気にならないが、僕のせいで浪川くんが肩身の狭い思いをしていることが、ひどくしんどかった。
(……悪いことしちゃったな)
胸がズキりと痛む。せっかくあんな楽しそうなムードだったというのに、僕が半端に介入してしまったせいで台無しになってしまった。きっと不快な思いをさせてしまったに違いない。
これがきっかけで、もし浪川くんが放送部を嫌になってしまったら──なんて、そんなことを考えるだけでまた足が重くなる。
「おい!」
去った教室から、浪川くんの苛立った声が響く。けれど振り返る勇気はなかった。僕は昔から根暗で、小心者だったから──顔を背けて、ただ無心に廊下を戻って行った。
◇ ◇ ◇
──翌日、金曜の活動日。放送室では「放課後ラジオ」の時間が、じわじわと迫っていた。
ラジオの開始時刻までに準備を整える。けれど放送室の扉は開くこともなく、静かなままだった。
(……来ない)
昨日のことがあったから、少しだけ嫌な予感はしていた。が、まさか本当に来ないとは思わなかった。
浪川くんは、きっとまた誰かに捕まっているのだろう。クラスの中心で注目を一身に浴びる姿を見れば、何もおかしいとは思わなかった。
……あの教室の空気を思い出すと、少しだけ胸がひやりとするが。
(でも……仕方ない)
僕は深く息を吸い、預かっていた原稿を手に取る。今回の台本のテーマは、以前浪川くんに勧められたバンドについて。イヤホンを借りた時に聴いた、あのメロウで奥深さのある曲を忘れられなくて、あの日以来、僕はこっそりそのバンドの曲を聴いたり、調べたりしていた。音楽に疎い僕でも、あの優しい曲調と歌声の柔らかさを好きだと思えたのだ。
だから──浪川くんがいなくても、僕はこの台本を読める気がした。
放送回線をオンにして、マイクのスイッチを入れる。
《皆さん、こんにちは。放送部の江古田です。今日も学校生活、お疲れさまでした。今回の『放課後ラジオ』は、僕が最近知った、とあるバンドのお話から始めたいと思います──》
言葉がすらすら自然に出てくる。原稿の擦り合わせはできなかったものの、バンドを知っていたおかげで内容の理解に支障はなかった。
浪川くんの書いた文章は、彼らしい軽妙さとテンポの良さがあって、文字を目で追っているとまるで隣で彼が喋っているみたいだった。僕はそのリズムに合わせてさらりと、それでいて丁寧に言葉を紡いでいく。放送は不思議なほど滑らかに、そして何事もなく進んでいった。
……やがて、ラジオはエンディングを迎える。
《──さて、そろそろ終わりの時間も近づいてきました。今回の『放課後ラジオ』はいかがだったでしょうか。また次回の放送でお会いしましょう。お相手は、放送部の江古田でした》
BGMのボリュームを下げつつ、マイクを切る。オンエアからオフエアへ、放送室に静寂が落ちた──その直後。まるですれ違うかのように、廊下を走る足音がだんだんと大きくなれば、しばらくして放送室の扉が勢いよく開いた。
そこに見えたのは、浪川くんの姿。「……終わっ、た……?」と尋ねる彼に、「うん。今ちょうど、終わったところ」と答えれば、彼は肩で息をしながら、僕の手元の台本に視線を落とした。
「……江古田クン、これ……読んだの? 一人で?」
「うん。いい原稿だったよ。浪川くんの文章、読みやすいし……何より面白かった」
「でも、ここに書いてないことも言ってたよね?」
「ああ……実は浪川くんにオススメされてから、曲とか聴いてて」
そう言うと、彼の目が一瞬だけ揺れる。鮮やかな金髪と対照的なその表情は、あらゆる感情が綯い交ぜになったかのよう。彼はそっと睫毛を震わせると、「……遅刻してごめん」と頭を下げた。
「今日も、ちょっと捕まってて……。それに昨日のことも……本当にごめん。気分悪かったよね」
「大丈夫だから。気にしないで」
僕は薄く笑った。自分でも分かるくらい、力のない笑いだった。
「浪川くんが悪いわけじゃないし。僕が、盛り上がってるところに割って入っちゃったのが悪いから」
その言葉に、彼の表情がわずかに歪む。彼は何かを言おうとその口を開きかけるが、しかし僕の顔を見てはうんと黙り込んだ。
「もし来られない日とか、遅れそうな日があったら連絡してね」
「……わかった。次からは気をつける」
放送室の外から、誰かの呼ぶ声が響く。
「おーい、浪川ー! 早く来いよ!」
「……あ。もしかして誰か待たせてる? 帰って大丈夫だよ、後やっておくから」
僕は台本を手にすると、放送機器の前から離れる。彼を視界から外し、これまでの原稿が収納された棚へと向かえば、背後では小さく息を呑む気配がした。
「じゃあ……また来週、ってことで」
その時浪川くんがどんな顔をしていたのか、何を思っていたのか、僕には分からない。けれど僕は知ろうと思わなかった。頭の中がぐるぐるして、胸の辺りが軋むようだったからだ。
瞳の奥が熱くて、どうしようか迷っていたから──ガチャンと扉の閉まる重い音が聞こえても、僕は振り返らなかったのだ。




