第五話
あの日の放送から、しばらくが経った。
「流浪の男」は、なおこの放送部に所属していた。あんなことがあって居心地が悪いやら、面倒くさいやら思っても仕方ないというのに、彼はそこにいた。
──つーか俺、もうテニス飽きた。だからもういい。辞めまーす。
そう、かつてのように切り捨てられてもさもありなんと思っていたのに、無断遅刻も欠席も一度もなく、放送室の扉を開ければいつものように「お疲れ」と笑ってくれたのだ。が、それでもやっぱり雰囲気はぎこちなくて、僕もどう距離を取ればいいのか分からずにいた。
あの時の態度が、浪川くんを困らせてしまっているのではないか──そんな不安が、胸の奥でずっと疼いていた。
(……僕が浪川くんをこんなに気にしてるのは、どうしてだろう)
放送部が廃部になるのが嫌だから? それとも……。
考えて、悩んで……けれどそこから先の答えは、どうしてもまとまらなかった。
「──ねえ。江古田クン、これどうする? なんか他のと違うけど」
そんなある日の放課後。僕たちは放送室の定期清掃、過去の「放課後ラジオ」の台本の整理に当たっていた。
段ボール箱に無造作に詰め込まれた紙束を、一枚ずつ仕分けていく単純作業。古いものは既にチェックされているため、今回はここ数年分にフォーカスを当てて整頓していく。その間僕たちはずっと黙りっきりで、だけどそんな静寂を浪川くんは出し抜けに破ってみせた。
彼が僕に差し出したのは、一冊のバインダー。開いてみると、そこに入っているのは様々な種類の紙や封筒だった。中にはノートの切れ端まである。……これは、
「生徒からのお便りとかリクエストだね」
「お便り……」
「この辺り先輩が管理してたから初めて見た。これとか去年のやつだと思う。……あ」
リフィルを捲る中で、指の動きがある一枚で止まる。中に入っているのは白い封筒。差出人の名前はない。けれど僕には見覚えがあった。
「それって……」
「うん。放送部宛に届いた手紙。放送室の前に投書箱があるでしょ。そこに入れてもらえば、放送部がラジオで採用するんだけど、僕が入部した頃にはもうほとんど忘れられてたから……すごく印象に残ってる」
封筒を開くと、読みやすい字で綴られた悩みが現れた。
〝人と上手く話せません。どうすれば仲良くなれますか。〟
わずか十数文字の小さなお悩み相談は、なかなかの難問だった。だって、上手く話すことも、人と仲良くなるのも、とても難しいことだからだ。僕はそれを知っている。この内向的な人間性ゆえに、よく分かっていた。……だからだろうか。当時高校一年生の僕は、この悩みに答えたいと思ったのだ。この手紙に何度も目を通して、震える声で、でも精一杯の言葉を届けた。
あの日の放送が、記憶の彼方から蘇る。
《まず、自分の意見を持つのがいいかもしれません》
伝えたいことが分からないままだと、話したいことも分からないままだからだ。
《次に、相手を尊重すること》
「話す」という行いは、相手がいて初めて成立するものだ。そして「相手」という概念は、自分がその人と向き合おうとしない限り、現われない。
《最後に……自分の好きなこと、相手が大事にしていることに誇りを持つこと》
と言っても、それは一つ目と二つ目を意識していれば、自然にできることだった。その二つこそ、「誇りを持つ」ということだから。
《──それが、話す勇気になると思います》
あの回答は、僕なりの精一杯だった。これまでの僕が人並みに失敗して、苦労して、考えた先で得た一つの答え。
話すことは怖い。でも、伝えなければ何も始まらない。……だから、僕は放送部に入った。声なら、言葉なら、誰かに届くかもしれないと思ったから。
(……この手紙をくれた人、今はどうしてるんだろう)
ふと、そんなことを思う。思いつつ、おもむろに視線を横に流せば、隣で浪川くんが静かに僕を見ていた。
備品の詰まった灰色の背景に、彼の金髪がよく映える。いつしか目に馴染んだその光景。しかし彼の面持ちにはいつもの軽さはなく、どこか息を呑むようで。
「……よく、覚えてるね」
「うん。言ったでしょ、印象に残ってるって」
何か言いかけるも、結局閉ざされる浪川くんの唇。彼の視線が手紙と僕の顔の間を揺れては──揺れただけで、やがて背けられてしまって。
「……じゃあ、そのバインダーは部長にお願い、ということで」
「分かった」
僕は何を言及するまでもなく頷いて、そのまま作業を再開した。
◇ ◇ ◇
翌週の月曜日。昼休みの終わり頃、スマートフォンに一通のメッセージが届いた。
〝一週間、部活休みます。〟
端的な文章だった。欠席するという旨だけ、他に理由も説明もない。けれどそれだけのことで、僕は胸の奥が、急にひびが入るように痛むのを感じた。
部活を休むと言うことは、浪川くんが来ないということだ。「転部します」という文言こそないが、嫌な予感がしてたまらないのはどうしてだろうか。
来られない日があれば連絡してほしいと言ったのは自分だというのに。そしてきっと、彼はそれに従っただけだというのに。
(……僕のせい、なのかな)
あの日の責めるような言葉、視線。それらをうまく流せなかったこと。僕を見つめる、浪川くんの痛ましい表情。……全部が、頭の中でぐるぐると回る。
もし彼がこの部を辞めたいと言ってきたらどうしよう。放送部は廃部になる。でも、それだけじゃない。浪川くんと会えなくなる。こうやって、会う理由もなくなってしまう。……それはなんだか、胸が苦しい。
……嫌だ、と思う。
(……なんで?)
自分でも分からない。いや、これはいつもの僕の悪癖だ。現実から目を背けようとしている。理解を拒もうとしている。自覚するのが怖いから。浪川くんに、ここから去ってほしくないから。……だから、分からないままなのだ。
そんな不安を抱えたまま、迎えた放課後。放送室の前を通りかかった時、僕はふと、視界の端に何かが映るのを捉えた。
(投書箱……)
アクリル素材で作られた透明な箱は、生徒からのお便りやリクエストを受け取るためのものだ。最近はほとんど空っぽだったのに、今日は一通の封筒が入っていた。
差出人はなし。折り畳まれた便箋を開くと、整った字でこう書かれていた。
〝好きな人を傷つけてしまったら、どうすればいいですか。〟
「……す、好きな人?」
素っ頓狂な声が口から飛び出る。だって……「好きな人」って。これはいわゆる恋愛相談なのだろうか。放送部宛に?……僕宛に?
(いたずらとか?)
いや、仮にそうだったとしたら、もっと意味不明で、笑止千万な内容になっていただろう。何よりその筆致がふざけたものではない。とすると、これは立派なお便りに違いなく。
(……誰か、悩んでるんだ)
そう思うと、自然と顔が前を向いた。放送室へと足を踏み入れると、僕は机に向かい、原稿用紙を広げる。
「今週の『放課後ラジオ』は……これにしよう」
ペン先が紙を滑る。言葉が字という形を帯びていく。
〝好きな人を傷つけてしまったら、どうすればいいですか。〟
その問いに対する明確な答えがあったわけではない。第一、僕は恋愛なんてさっぱりだ。「好きな人」という存在に思い当たる人物がいるわけでもない。……では、答えなんて出せないのではないか。
……案外、そうでもない。
(だって、このお便りがここにある)
僕が放送部に入ったのは、誰かに自分を伝える機会が欲しかったからだ。声なら、言葉なら、誰かに届くかもしれないと思ったから。そしてそれは、このお悩み相談にも同じようなことが言える。
お便りをくれた差出人は、僕にこの悩みを伝えようとしてくれたのだ。文字なら届くかもしれないと思ったから。そして僕はたしかに受け取った。……なら、きっと僕の答えも届くはずだ。必死に考えた分だけ、きっと報えるに違いないと思った。
(考えろ、考えろ)
好きな人を傷つけてしまったら、どうすればいい?
それは、誰かの悩みへの回答であり──同時に、自分自身への問いかけでもあった。
──……僕が浪川くんをこんなに気にしてるのは、どうしてだろう。
不意に、以前思ったことが脳裏を過ぎる。
僕は浪川くんに冷たくしてしまった。彼は、今どこで何をしているのだろう。どうして休んでいるのだろう。彼は僕を、どう思っているのだろう。
(……僕は、どうすればいい?)
一瞬、筆が止まる。けれど僕は姿勢を整えると、再び淡々と、丁寧に、文を認めていった。




