第38話 初めての情報分析部
第39話は5日か6日に更新予定です。
今日は退院の日。
長かった入院生活も、ようやく終わりを迎えた。
体はまだ完全に治ったわけではない。
激しい運動や戦闘はしばらく禁止されている。
それでも古川からは、「日常生活を送る分には問題ないでしょう」と退院の許可が下りたのだ。
荷物…といっても、入院中に使っていた日用品が入った小さなバッグが一つだけ。
“ 本当に無茶だけはしないでくださいね”
“まだ骨も筋肉も完全には回復していません。痛みが出たら、すぐに連絡してください。いいですね?”
古川から何度も言われた言葉を思い出し、雪斗は病室を後にした。
「ひとまず、部屋に戻るか……。」
雪斗はエレベーターへ乗り込むと、自分の部屋があるB2階へボタンを押す。
ゆっくりと扉が閉まり、静かに上昇していく。
「戻る前に、コーヒーでも飲もっかなぁ。」
B2階に降り、そのまま奥へ進む。ラウンジへ入ると、自動販売機の前に立ち、迷うことなくブラックコーヒーのボタンを押した。
ガコンッ
出てきた缶を手に取り、いつも座っている大きなソファへ腰掛けた。
腰を下ろすと、体がゆっくりと沈み込む。
ラウンジにある高級ソファは相変わらず座り心地が良い。
「…うま。」
ブラックコーヒーを飲みながらぼんやりしていると、ラウンジの扉が開いた。
「あれ?雪斗くんだ。」
聞き慣れた声に顔を上げると、そこにいたのは第二部隊隊員の宮下琴音だった。
「あ、琴音さん。お疲れ様です。」
休みなのだろうか。私服姿の琴音が嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきた。
「退院したんだね!おめでとう!」
「ありがとうございます。」
琴音も自動販売機で飲み物を買い、雪斗の向かいにあるソファへ腰掛けた。
そして二人は他愛もない話を交わしながら、穏やかな時間を過ごした。
「そういえば…琴音さんって第二部隊所属でしたよね?」
「うん。そうだよ。」
「橘隊長ってどこにいるか分かります?」
雪斗は気付かなかったが、一瞬だけ琴音の表情が曇った。
「…どうして?」
「お礼が言いたくて。結局、一度もお見舞いに来なかったし。…もしかして俺を助けに来た時に、何か怪我でもしたんですか?」
「…時間の問題だから、いつかは知ることになるでしょうけど…。」
「?」
「橘隊長は、藤堂さんと一緒にいると思う。情報分析部で一緒に仕事してるはずだよ。」
そう言う琴音の顔は少し曇っていた。
「分かりました。後で行ってきます。」
(様子が変だ…。やっぱり何かあったんだな…。)
コーヒーは本来、急いで飲む様なものではない。
しかし、琴音の言葉がどこかひっかかり雪斗は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「じゃあ、俺はこれで。失礼します。」
「うん。あ、情報分析部はB11階だからね。」
「分かりました。ありがとうございます。」
雪斗が立ち上がりゴミ箱へ缶を入れると、琴音へ振り返ることなくラウンジを後にした。
一度部屋へ戻り、入院グッズの入ったバッグを乱暴に置くと、また部屋を出る。
そしてエレベーターへ向かい、情報分析部のある階を目指した。
――B11、情報分析区画。
エレベーターは、止まることなくB11階に到着した。
雪斗は少し緊張しながら、一歩廊下へ足を踏み出した。
聞こえてくるのは、どこかで鳴り続ける電子音と、規則正しく響くキーボードの打鍵音。
廊下の先には大きな自動扉があり、その上には『情報分析室』と記されたプレートが掲げられていた。
雪斗はそのまま扉へ進み、横に設置されている認証装置を確認する。
(…あ。腕輪ないんだった。)
どうしようかと少し悩んでいると、中から知らない人が出てきた。きっと情報分析部の職員だろう。雪斗を見るなり驚いた顔をしている。
雪斗の存在は、第零区画にいる人間で知らない人はいない。あまり良い意味ではないが有名人だ。
目の前の職員が驚いている間に、ササッと中へ入る。
「あっ!」という声が聞こえたが無視を決め込み奥へ進んだ。
「……すげ。」
自然と声が出た。
ここへは初めて来るが、部屋の中は想像以上に広かった。
壁一面には巨大なモニターが何枚も並び、日本地図や各地の監視カメラ映像、感染反応、隊員の位置情報などが絶え間なく映し出されている。
中央には長いデスクが整然と並び、分析員たちが複数のモニターへ向かって休むことなくキーボードを叩いていた。
「北関東エリア、異常なし。」
「第三監視区画、映像更新します。」
「回収部隊よりデータ受信。」
短く的確な報告だけが飛び交い、誰一人として無駄話をしていない。
意外と慌ただしい…。
まるで施設全体の神経が、この部屋へ集まっているような感覚だった。
(ここが……情報分析部か。)
戦闘部隊とはまるで違う空気に、雪斗は思わず周囲を見渡す。
部屋の最奥にある、一段高くなったスペースに、他より一回り大きなデスクが置かれていた。
そこに座る一人の男が、ゆっくりと顔を上げ雪斗を見つめる。
「……おや。」
眼鏡の奥の鋭い瞳が雪斗を捉えると、男は作業していた手を止めゆっくり立ち上がった。
(この人は確か…。)
情報分析部責任者――藤堂亮介だ。
「君…どうやって入ったんです?」
思わぬ質問に雪斗は目を丸くする。
「情報分析部は入室認証が必要です。君の新しい腕輪は今日渡す予定だったのですが…。」
「えっと…中から人が出てきたので、扉が開いた時にササッと…。」
「……。」
藤堂は無言で雪斗を睨んでいる。
ダメだとは思っていたが、そこまで睨むほどなのか。
その視線に耐えきれなくなり、思わず謝罪した。
「…すみません。」
「まったく…。勝手に認証を通されては困ります。何のための認証装置だと思っているのですか。」
「はい……。」
「それで?情報分析部に何の用ですか?」
「あ、橘隊長がここにいるって、琴音さんから聞いて…。」
“橘隊長”その名前が出た途端、藤堂は少し眉を上げたが雪斗は特に気付かず大人しく藤堂の返事を待った。
「…橘隊長なら奥にいます。」
藤堂は部屋の最奥にあるデスクへ視線を向ける。
「!ありがとうござ――」
「ただ……。」
雪斗の言葉を遮り、藤堂は真面目な表情で静かに話しを続けた。
「少し驚くかもしれませんが…。」
雪斗はその言葉の意味が分からず、小さく首を傾げる。
そのまま藤堂に促され、雪斗は部屋の奥へと歩き出した。
(…!いた。)
目の前には、数人の分析員と何かを話し合っている橘の姿があった。
「橘隊長!」
雪斗が思わず声を上げる。
するとその声に反応し、橘はゆっくりとこちらへ振り向いた。
「……。」
目は合わない。いや、こちらを向いているはずなのに、視線がどこか定まっていなかった。
その瞳の色は――変わっていた。
誘拐される前の色ではない。絶対に。
光を失ったような灰色の瞳だ。
(……え。)
雪斗の呼吸が止まる。
「その声は…雪斗くんかな?」
橘は少し困ったように笑った。
どこか申し訳なさそうな、その笑顔が胸を締め付ける。
橘は一度だけ目を伏せるような仕草を見せ、小さく笑った。
「橘隊長…その目…。」
「……ごめんね。君が気にするんじゃないかと思って、お見舞いにも行かず避けちゃった。」
「何が…あったんですか……?」
雪斗の声は震えていた。
いい話でないことは確実だったからだ。
「僕の能力が【索敵】なのは知っているだろう?でも、本来の【索敵】では過去に残った痕跡までは追えない。だから……僕は賭けに出たんだ。」
「賭け…?」
「小倉主任が開発した、能力増幅試薬を投与したんだよ。」
「は…?何それ……。名前からして、絶対ヤバいやつじゃないですか…。」
「ははは…。そうだね。でも、結果は成功だったよ。能力は飛躍的に強化された。君が残した痕跡を辿ることができたし、索敵範囲も何倍にも広がったんだ。精度だって以前とは比べものにならなくてね。」
まるで自慢話でもするように、橘は嬉しそうに語る。
だが、雪斗は少しも笑えなかった。
その瞳が…一度も雪斗を写していないからだ。
「じゃあ…その目は?ただ色が変わっただけなんですか?」
橘は困った顔をしたまま何も答えない。
その沈黙が、何よりの答えでもあった。
「……橘隊長!!」
思わず声を荒らげてしまう。
「…勘違いしないでほしいは、僕はこの目になったことを後悔してない。結果的に雪斗くんを助けられたからね。」
「じゃあ…目は…。」
恐る恐る聞いてくる雪斗に、橘は数秒黙った後、静かに答えた。
「あぁ。両目とも、失明したよ。」
「…………っ!!」
頭の中が真っ白になった。
言葉が出ない。
(失明……?薬のせいで……?)
「何かを得るには、何かを失う。元々、この能力の代償自体、視力だったんだ。力を使いすぎると視界がぼやけるし、昔は両目とも2.0だった視力も、年々落ち続けていたんだ。だから、薬を使わなくても……いずれ見えなくなる運命だったんだよ。」
(違う…。)
雪斗は拳を握り締め、震える声で橘に話す。
「目が悪くなるのと…全く見えなくなるのは、全然違うでしょ…。なんで…なんで、そんなことまでして……!」
「君を見つけたかったからだよ。一週間、寝る間も惜しんで、皆んな血眼になって君を探してた。でも、誰にも見つけられなかった。」
「だからって……!」
「雪斗くん。結果的に僕は何も見えなくなった。でも、その代わりに得たものもあるんだよ。」
「は……?」
「今は能力を発動しなくても、生きている人の気配が分かるんだ。誰が、どこにいるのか…生体反応として、常に感じ取れるようになった。」
(何言って…。)
「だからね。真っ暗になったわけじゃない。僕には、僕なりの世界がちゃんと見えてるんだよ。」
橘は前と変わらない笑顔を雪斗に向けていた。だが逆にその笑顔が、雪斗には痛々しく見えて仕方なかった。
――『莫大な人員と時間を費やしたんだ。それに……無傷で済まなかった隊員もいる。』
雪斗の脳裏に、あの日の会議で篠崎に言われた言葉が蘇る。
(そうか…あれは橘隊長のことだったんだ。)
胸が締め付けられる。
生体反応は分かるといっても、景色が見れるわけじゃない。相手の表情だって分からない。
(俺…とんでもないことを、橘隊長にさせてしまったんだ…。)
「雪斗くん。」
橘が声を掛けるが、雪斗の耳に入らない。
きっと雪斗なら気にして落ち込んでしまう。だからなるべく体調が回復してから、この事実を伝えようとしていたが…。
「どのタイミングで言ってもダメそうだったね…。」
二人の様子を見ていた藤堂が、自身のメガネをクイッと上げながら口を開いた。
「橘隊長。ここは少し、私に任せていただいても?」
「え?藤堂さんに?」
「えぇ。ですから橘隊長は仕事へ戻ってください。」
「いや、でも…。」
「なかなかの衝撃ですよ。目が見えないというのは。彼にも少し時間が必要でしょう。」
藤堂に言われ、橘は何も言えなくなってしまった。
雪斗の表情は分からない。だが、動揺し落ち込んでいるのは何となく分かる。
「…分かりました。任せます。」
橘はそれだけ言うと、分析員たちの方へ向き直り、再び仕事の話をし始めた。
「一ノ瀬くん。少し場所を変えましょうか。」
「え…?」
「少し考える時間も必要でしょう?」
藤堂との絡みは今までなかった為、その提案に少し驚く。だがここにいても、前のように橘隊長と話せるか分からない。雪斗は力なく頷き、藤堂の後をついて行った。
情報分析室を出て廊下を進み、突き当たりにある一枚の重厚な扉の前で足が止まった。
プレートには、『機密資料保管庫』と記されている。
(何ここ…。)
藤堂は腕輪を認証装置へかざすと、電子音が鳴り重たいロックが解除された。
扉が開くと、その奥は薄暗く、無数の書架と厳重に管理された資料が並ぶ空間が広がっていた。
「どうぞ。入ってください。」
「えっと…ここは……?」
雪斗は辺りを見回しながら、ゆっくりと部屋に入っていく。
藤堂は雪斗の前を歩きながら答えてくれた。
「機密資料保管庫です。名前の通り、この施設の機密資料が保管されています。」
壁一面に並ぶ書架に、厳重に施錠された保管棚。
古い紙の匂いと、空調の低い音だけが静かに響いている。
そのまま奥へ進むと、資料の閲覧スペースなのだろう。
小さな机と、二人掛けのソファが置かれていた。
B2ラウンジにある、あの高級ソファとは比べものにならないほど質素なものだった。
「さぁ、座ってください。…何もお出しできませんが。」
「あぁ…はい。」
藤堂が向かいの席を示す。
「この階は機密資料を扱う関係で、飲食は禁止されています。なので、喉が乾いたら別の階へ行ってください。」
「分かりました…。」
ゆっくりソファに腰を下ろす。
「……っ。」
(か、硬い……。)
思わず顔が引きつってしまう。沈み込むどころか、木の板に座ったような座り心地だ。
ラウンジの高級ソファに慣れてしまったせいか、その差は歴然だった。
「居心地はあまり良くないかもしれませんが、我慢してください。」
「なんでこのソファ、こんなに硬いんですか…?」
「以前の情報分析部責任者の好みが硬めのソファでしたので。今年度の予算が余れば、買い替えを検討しています。」
(ずっと座ってられない硬さが好みって…。)
「少し待っていてください。」
そう言うと、藤堂は書架の奥へ姿を消す。
一人取り残された雪斗は、ぎしりと音を立てるソファにもたれた。
(場所を移した方がいいのは分かるけど…もっと他にあっただろう……。)
病み上がりの体には、この硬さが妙に堪える。
数分後。
藤堂が厚みのある黒いファイルを抱えて戻ってきた。
机の上へゆっくり置くが、ドンッと重い音が響いた。
「これは……?」




