第30話 ナギの過去
「っ……!」
足元がおぼつかない。
次の瞬間、背中が勢いよく壁へ叩きつけられた。
「がっ……!」
肺の中の空気が一気に押し出される。
息を吸う間もなくナギは一歩踏み込み、容赦なく雪斗の腹部へ蹴りを入れた。
ドンッ――。
「ぐっ……!」
激痛が全身を駆け巡り、雪斗は床へ崩れ落ちた。
咳き込みながら必死に呼吸を整えようとするが、その時間すらナギは与えなかった。
再び髪を掴まれ、顔を無理やり持ち上げられた。
目の前には、ナギの顔が…。
あまりの痛さに涙が勝手に出てくる。
「ねぇ。このまま殴り殺されちゃったらどうする?」
「……。」
その言葉を聞いた瞬間、雪斗の背筋が凍りついた。
冗談ではない。あれは本気の目だ。
能力が発動しなければ、きっと俺は殺される。
考えただけで怖くなり、鼓動が大きく脈打った。
――ドクン。
――ドクン。
胸を叩く音が、自分でもはっきり分かった。
呼吸は浅くなり、全身から冷たい汗が噴き出す。
「……あれー?これはなにかなぁー?」
雪斗が投げ飛ばされたせいで、毛布の下に隠してあった残飯が飛び散っていた。
「昨日ちゃんと食べろって言ったよねー?聞こえなかったかなー?」
「食べ……た……。」
「“全部”食べろって意味だよ!」
そう言い、ナギは雪斗を投げ飛ばした。
「……っ!!」
痛い。体はもうボロボロだ。
抵抗する力は少しも残っていない。
ナギはゆっくりと雪斗へ歩み寄ると、そのまま足で仰向けにし、胸元へ片足を乗せた。
「ぐっ……!」
体重が掛かり、息が詰まる。
「抵抗出来ないでしょー?だからご飯は食べろって言ったのにー。」
「や……やめ……。」
「怖い?痛い?やめて欲しい?でもねー……。」
(こ…殺される……)
「俺は今、すっごく楽しいよー?」
そう言い、ナギは楽しそうに笑っていた。
その様子を見た雪斗は、苦しそうに息を整えながら、ナギを睨みつけた。
「狂ってる……。」
その一言で、部屋の空気が静まり返る。
あんなに笑っていたナギの笑みが、ふっと消えたのだ。
そして足を退けたかと思えば、雪斗の首元へ手を伸ばし思い切り絞めてきた。
「……っ!?」
首を絞めたまま引き起こすと、雪斗を壁際へ強く押しやった。
「がっ……!」
あまりの苦しさに雪斗は思わずナギの腕を掴む。
だが、その手に力は入らない。
「今俺に狂ってるって言ったー?」
(どっからどう見ても、狂ってるだろう……!)
「おかしいなー。それは君たちの方じゃないのー?」
「なっ……!」
「君たちはさー…感染者を殺してるよね?でもよく考えてみてよ。怪物になったとはいえ、元は同じ人間だよー?」
「くっ……くるしっ……!」
「好きで感染したわけでもないのにさー…それなのに戦闘部隊の奴らはバッサバッサと殺していってるでしょー?」
「かっ……。」
「人間と感染者…。境界線を勝手に決めているのは君たちの方でしょー?」
「っ……!」
返事など出来るはずがない。そのまま雪斗の呼吸が途切れ、苦しそうに喉を鳴らす。
視界も滲み始めた。
「息がっ……!」
「ナギ!」
鋭い声が部屋に響いた。
ナギは首だけ振り返り、面倒くさそうにため息をつく。
「あー……。またセツくんかー……。」
セツだと分かり、ナギは雪斗の首からいきなり手を離した。
解放された雪斗はその場へ崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
セツはすぐに二人の間へ入り、ナギを睨みつける。
「絞め殺す気か!」
「これが俺のやり方だよ。心拍を上げても能力が発動しなかったでしょー?じゃあ殺されかけた時に発動するかもなーと思って。」
「確信がないのに、あんな危ないことをしたのか!?」
セツの言葉にナギは少し苛立ちを見せた。
「あのさー、セツくんは一体何に怒ってるわけー?
俺はねぇ、あの人から今日中に能力を発動させろって言われてるんだよー?だから色んな方法を試してるんだけどー?」
「それはっ……!」
「時間ないんだからさー……それに、セツくんは、この子のお世話係でしょー?」
「……。」
「だったらさー……黙って見ててよ。」
セツは何も言い返せなかった。
ナギの言っていることは正しい。
心拍を上げるだけで能力が発動するなら、きっとナギもそうしていただろう。
だが上手くいかなかった。
ナギは倒れている雪斗の身体を勢いよく蹴り、鉄格子へ叩きつける。
雪斗の全身に鈍い衝撃が駆け巡る。
「……っ!」
言葉にならない痛みに身体を丸め息を整えようとするが、思うように呼吸ができない。
ナギはゆっくりと歩み寄り、その前で足を止めた。
「起きてるー?」
返事はないが、意識はある。
雪斗は苦しげに肩を上下させていた。
ナギはしゃがみ込み、雪斗と目線を合わせる。
「少し飽きちゃったから、気分転換しよっか。」
「や……やめ……。」
ナギはその願いを聞くことなく、静かに右手を差し出した。
「今日で終わりだから、せっかくだし今まで見せてきたもの、全部まとめて見せてあげるよ。」
その瞬間――。
雪斗の視界がぐにゃりと歪む。
牢獄の景色が音もなく崩れ落ち、現実と幻覚の境界が溶けていった。
数秒後、雪斗の体がカタカタと震え出した。
その瞳は何も映しておらず、虚空だけを見つめている。
その異様な様子に、セツが眉をひそめた。
「……何を見せている。」
「んー?」
少し考えるように首を傾げると、セツににこりと笑いかけた。
「まぁ…再起不能になるくらいの幻覚かなー?」
想像もしたくない。
数秒後、ナギはゆっくりと右手を下ろした。
「はい、おしまい。」
能力を解除する。
歪んでいた空間は元に戻ったが、雪斗は戻ってこない。
震えは止まっていたが、どこまでが幻覚で、どこからが現実なのか分からなくなっていたのだ。
ナギはその様子を一瞥すると、雪斗の血で汚れた手袋を外した。
「はぁー……。オニューだったのになぁ。」
丸めた手袋を無造作に放り投げ、素手のまま思考停止している雪斗の首筋へ手を伸ばした。
「生きてるよねー?」
「馬鹿!!ナギッ!素手でそいつを触るな!!」
「えー?」
しかし、セツの警告は一瞬遅かった。
ナギの指先が雪斗の首筋へ触れたその瞬間――。
雪斗の身体が、ビクリと大きく震えたのだ。
「えっ……?」
その瞬間――景色が変わった。
先程まで地下牢にいたはずなのに、目の前は暗闇が広がっていた。
辺りを見渡すと一人の人物が見えてきた。……雪斗だ。
「え?な、なに?これ……。」
あの子は先程まで倒れていたはず…だが目の前にいる雪斗は傷もなく普通に立っている。
雪斗もナギに気付いたのか、驚いている様子だ。
ナギが雪斗の元へ走ろうとした瞬間、暗闇は音もなく崩れ去り、別の世界が広がった。
眩しい光に照らされ、ナギは思わず目を瞑ってしまう。
そしてゆっくり目を開けると、今度は目の前に小さな子供が立っていた。
痩せ細った身体に乱れた髪。
雪斗は誰かわからないのか、首をかしげてその子供を見ていた。
しかし、ナギはその子供を知っている。……いや、知っているというより、
「……俺じゃん。」
ナギの言葉は聞こえているのか、雪斗は目を見開き驚いている様子だ。
よく見れば確かに面影はある。
だがなぜ、目の前に子供時代のナギがいるのか二人共分かっていない。
そして幼いナギの前に、一組の男女が現れた。
「……!」
ナギはその二人を見た瞬間、目を逸らした。
そして怒鳴り声が響き出したのだ。
幼いナギの身体は何度も突き飛ばされ、床に転がっている。身体は痣だらけだ。
そして二人の怒号が消えた瞬間、また場面は変わった。
今度はあの男女二人が床に倒れていた。
あたりは血の海に染まっている。
そんな二人を幼いナギは見下ろしていた…その手に刃物を握りながら…。
「ははっ…。ずいぶんと懐かしいものを見せてくれるんだねー。」
雪斗はナギの方をジッと見ている。その視線にはナギも気付いている様子だった。
「見てわかるでしょー?昔の俺だよー。両親にずっと虐待されてたから殺そうとしただけ…まぁ、運がいいのか生きてたんだけどねー。」
そう言うナギの声はどこか、辛そうに聞こえた。




