第9話 この夜のあいだだけ
足元が響く。
周囲の視線を感じ、少し緊張した。
外の暗い景色と、明るい会場。
その中間地点の通路までやってきた。
甘い花の香りが漂う。
アレンがゆっくり手を離した。
「……っ」
彼が俯いた瞬間、
怖くなり、庭園の木のそばへ身を寄せた。
けれど……彼はその後を追ってくる。
* * *
雲が月明かりを隠す。
まるで、今の彼女の気持ちのように。
リアはすかさず頭を下げ、ドレスの裾を握った。
「わ、わたし……」
声が引き攣る。
「今まで普通にお話してっ」
言葉遣い、抱擁。全てを思い出す。
「殿下に……何度も失礼なことを……」
もう、"アレン"と呼んではいけない。
「大変、申し訳ありませんでした」
視界が落ちて、自分の足元しか見えなくなった。
リアは、庶民。
しかも魔力もない。
本来なら、言葉を交わすことすら許されない相手。この場で出会うこともなかった。
……どうして気付かなかった?
第三殿下の名前には"アレン"が一部入ってる。
それだけで、分かる……わけない。
深く頭を下げたまま、動けなくなった。
教会でした約束も、
町で過ごした日々も、
お祭りの記憶も――
全部、夢だったんだ。
(……じゃあ、私は何を信じてたの?)
アレンともう、会えなくなる……。
それは、嫌だ。
だけど……
「顔を上げて」
優しい声が聞こえた。
顔を上げるか躊躇した。
暫くして、リアはそっと顔を上げる。
現実を見たくなくて――片目だけ開いた。
「そんな顔をしないで」
アレンは……悲しそうな顔をしていた。
一年ぶりに再開した、あの時の顔。
「個室でも頼めばよかった……」
「いつかは、君に話そうと思っていたんだ」
その言葉でリアも両目をぱちりと開けた。
「君が……他の形で知って、傷つく前に」
それは低く、柔らかい声だった。
* * *
風とともに高貴な香りが広がる。
知らない彼の香り。
だけど、目の前にいるのは、よく知る人。
「あの町で過ごす時間が、
いつの間にか当たり前になっていた」
——だから、言えなかった。
「僕は……あの時間に救われていた。
だからこそ言えなかった」
彼は少し俯き、声が小さくなる。
「ずっと引っかかっていた」
「嘘を……ついたことが」
この人は、嘘をつけない人だ。
リアは驚きで瞬きをする。
そんなこと無いよと伝えるかのように、首を横に振った。でも、言葉が出ない。
すると彼がぽつりと呟く。
「ただの"アレン"でいたい」
大切なものを、こぼすみたいに。
きっとそれが彼の本心。
リアの肩から力が抜け、詰まっていた声が溢れ出てきた。
もう呼べないはずの名前。
宝物を拾い上げるみたいに、もう一度その名前を呼んだ。
「アレン……」
すると彼は、悲しそうな顔をやめて、
子供のような笑顔を見せてくれた。
リアも子供みたいに笑った。
まるで、
彼との始まりを上書きするかのように。
* * *
「き、緊張しちゃった……」
「うん。君は君のままでいていいんだよ」
アレンの優しさに心が温かくなった。
同時に、抑えきれないほどの嬉しさが込み上げる。
「もしかして私だけ知ってるの?」
「……気づいてた人は、最初から気づいてるよ」
「え……?」
自分だけ知らなかったことに驚く。
「あはは。だから、町の子供達には秘密にしてくれると嬉しい。出来るよね?」
そう言って彼は同じ視線まで屈んでくれた。
安心してほっと笑った。
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会場に曲が響く。
ファーストダンスが始まった。
「僕達もあとで踊るかい?」
「私、踊れないわよ」
すると蒼白い煌めきが広がる。
リアの足元が、魔法でふわりと浮く。
「次は特別な回なんだ」
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曲が変わると、会場の中央には顔をヴェールで隠した女性達がたくさんいた。
相手は父や兄。
娘が一人前になったことを示す、
特別な踊り。
一度も踊ることがなかったリアには少し、眩しすぎる光景だった。
「素敵ね……」
すると。
アレンが魔法でヴェールを頭に被せてくれた。
「え……?」
「君も、参加する資格があるよ」
「僕は……君の兄としてでも、いいのかな」
そう言って手を差し出す。
リアは目を見開き、また細めた。
「決まってるわ。アレンはアレンよ!」
* * *
コツコツコツ……優雅にエスコートしてもらい、シャンデリアの下へ移動。
足が滑らかに動き、床には光の残像。
時より彼が頭のヴェールを軽く調整してくれた。
「……ありがとう……」
背中に優しく当てられた手は逞しく、支えてくれる安心感があった。
少しだけ恥ずかしい、でも嬉しい。
天井を見上げると、シャンデリアから光が降り注ぐように美しく反射している。
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(——あ。)
(セドリックだわ)
遠くのスペースから確かに目が合った。
目が離せなかった。
まるで、何かに反応するかのように。
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するとアレンが魔法でくるくると優雅に回転させてくれた。まるで乗り物に乗っているかのように、楽しい時間。
たった数分。
けれど、一生に一度の貴重な体験。
* * *
「楽しかった……! アレンありがとう」
「最高の思い出になったわ」
「それならよかった」
「……」
「この曲が終わるまでは一緒にいられるよ」
それは、昔話した会話と繋がっているのだろうか。
今流れている曲が終わったら、アレンは他の女性たちの元へ行ってしまう。
(今度は私が、彼を見届ける番――)
頭に乗せられたヴェールはいつの間にか消えていた。
けれどこの夜はまだ終わらない。
そう、思っていた。
彼の一歩で、全てが変わるとも知らずに。




