第8話 帰りたいときは、帰る人
第8話『帰りたいときは、帰る人』前書き
今日は話したいことがいっぱい。
彼女のおしゃべりは絶好調。けれど、彼には少し気になることがあるようで……。
「今日は、そろそろ帰ろうと思うんだ」
もっと一緒にいたい彼女と、今日は帰ると決めた彼。
残念だけれど、なんだか嬉しい。
以前交わした言葉の意味を、彼女がもう一度知ることになる帰り道のお話。
第八話 帰りたいときは、帰る人
彼の視点
彼女は今日、ずいぶん機嫌がよかった。
話したいことが次から次へと出てくるらしい。
笑って、話して、また笑う。
彼が何か言えば、嬉しそうにこちらを見る。
……まったく。
今日は、ずいぶん楽しませてくれるねぇ。
ただ、彼の頭の片隅には、午後から考え続けている仕事の問題が残っていた。
何度か話に集中し直そうとしたものの、気づけば思考がそちらへ戻ってしまう。
「……それでね、どう思う?」
「……ん?」
彼は顔を上げた。
彼女がぱちぱちと瞬きをする。
「……あれ、聞いてなかった?」
「ああ、ごめん。今のは聞き逃した」
「えっ、珍しい!」
彼は苦笑した。
「ふふ。面目ない」
「どうしたの?」
「ちょっと考え事があってねぇ」
彼女は興味深そうに身を乗り出した。
「なになに?」
……おや。
なかなか頼もしい反応だ。
「じゃあ、少しだけ聞いてもらおうかな」
彼は、仕事で起きたトラブルと、自分が考えていた対応を簡単に話した。
彼女は頷いて聞いていたが、ふと首を傾げた。
「……それって、起きた問題を直すだけじゃなくて、起きる前に防げなかったのかな?」
「……ん?」
「こうなっててほしいっていう状態があるなら、それを確かめておけば、もっと早く気づけたんじゃない?」
彼は少し黙った。
……なるほど。
自分は、問題が起きたあとの対応を考えていた。
彼女は、その問題が起きる前に目を向けている。
「……いやぁ。一本取られたねぇ」
「えっ、そう?」
「うん。そこはもう一度考える価値がありそうだ」
彼女がぱっと笑った。
「ほんと? よかった!」
「ただし、困ったことになった」
「えっ、なに?」
「考えることが増えてしまったよ」
「ええっ! ごめん!」
「ははっ! いやいや、助かったんだよ」
彼は笑いながら、軽く手を振った。
「……ありがとう。君に聞いてよかった」
彼女は、なんとも嬉しそうな顔をした。
……ああ。
その顔を見ると、こちらまで嬉しくなる。
しかし。
彼は腕時計に目を落とした。
まだ、整理したいことがある。
それも、できれば今日のうちに。
彼女ともっと話したい気持ちはある。
けれど、このままでは、また上の空になってしまいそうだった。
……さて。どうしたものかな。
いや、答えは決まっている。
「……ねえ」
「ん?」
「今日は、そろそろ帰ろうと思うんだ」
彼女の目が丸くなった。
「……えっ」
「君のおかげで、考え直したいことが見つかってね。帰って少し整理したいんだよ」
「……ああ、そっか」
彼女は頷いた。
けれど、その口元が、ほんの少しだけ尖っている。
……おや。
彼は、思わず微笑んだ。
「ふふ。残念そうだねぇ」
「……残念だよー」
ずいぶん素直な返事だった。
彼は笑った。
「ははっ。そう言ってもらえるのは嬉しいね」
「だって、今日まだいっぱい話したかったんだもん」
「うん。俺ももう少し聞きたかった」
「……じゃあ」
彼女がぱっと顔を上げる。
彼は、その期待に満ちた表情を見た。
……ああ、これは。
少し面白くなってきた。
「……でも、今日は帰るよ?」
「…………」
彼女の口が、さらに少し尖った。
「……ちぇっ」
彼は吹き出した。
「はははっ!」
「……もう! 笑わなくたっていいじゃん!」
「ごめんごめん。いやぁ、実に素直でいいねぇ」
「だってぇ」
「ふふ。そんなに俺と話したかった?」
「話したかったよ!」
即答だった。
彼は一瞬目を丸くした。
それから、嬉しくなって笑った。
「……ああ。それは嬉しいな」
彼女も笑う。
彼はその顔を眺めた。
以前なら、彼女はここで急いで笑顔を作っていただろう。
『全然いいよ! 気にしないで!』
そう言って、自分が残念だったことまで隠してしまう。
けれど今日は違う。
残念だと言う。
もう少し一緒にいたかったと言う。
それでも、彼を引き止めようとはしない。
……うん。
こういうのは、いいねぇ。
「……しかし、惜しいことをしたな」
「……なにが?」
「今日は君が絶好調だったからねぇ」
「えっ、そう?」
「うん。まだまだ面白い話が飛び出してきそうだったのに」
彼女が嬉しそうに笑った。
「ふふ。まだあるよ?」
「……ほう?」
「いっぱいある!」
「ははっ! それは困った」
「なんで?」
「次に会うまでに、俺の聞く準備を整えておかないと」
彼女が声を立てて笑った。
「なにそれ!」
「いやぁ、こちらも万全の態勢で臨みたいからね」
彼は少し芝居がかった調子で胸に手を当てた。
「今日のように、面目ない失態を演じるわけにはいかない」
「ふふふっ! そんな大げさな!」
「おや。君のお話を聞くんだから、それくらいの準備は必要だろう?」
「……もう!」
彼女は楽しそうに笑っていた。
彼も笑った。
……ああ。
やっぱり、もう少し一緒にいたいな。
そう思った。
けれど、それと今日帰ることは矛盾しない。
彼は自分の考えを整理したかった。
そして、次に会うときには、ちゃんと彼女の話を楽しみたかった。
「……じゃあ、土曜日はどうかな」
「……え?」
「この前話していたお店。行ってみない?」
彼女の顔が、ぱっと明るくなった。
「行く!」
彼は思わず吹き出した。
「ははっ! そこは迷わないんだねぇ」
「うん!」
「ふふ。よろしい。じゃあ、土曜日に」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「……あ、ねえ」
「ん?」
「私の言ったこと、役に立つといいな」
彼は少し微笑んだ。
「もう役に立ってるよ」
「……ほんと?」
「うん。あとは俺がまとめてみる」
彼女が満足そうに笑った。
「……そっか。頑張ってね!」
「ありがとう」
彼は軽く手を振った。
「じゃあ、また土曜日」
「うん! またね!」
彼女も手を振る。
今日は、最後まで楽しそうだった。
彼はその姿を見ながら、少し笑った。
……まったく。
残念がってくれるのは、嬉しいものだな。
しかも、その残念な気持ちを隠さなくなった。
こちらが帰ると言えば、ちゃんと送り出してくれる。
以前より、ずいぶん気楽に気持ちを交わせるようになったらしい。
……いいねぇ。
彼は駅へと歩き出した。
考えたい仕事は、まだ残っている。
でも、頭の中はさっきよりも少し整理されていた。
それに、次の土曜日の楽しみまで増えた。
……さて。
今日はきちんと片づけておこう。
土曜日には、あの楽しそうな話の続きを聞かせてもらわなくては。
* * *
幕間 帰りたいときは、帰る人
彼女の視点
彼が帰っていった。
彼女は、その背中に手を振った。
「……またね!」
姿が見えなくなってから、思わず呟く。
「……ちぇっ」
もっと話したかったなぁ。
今日は、まだまだ話したいことがあったのに。
でも。
「……ふふ」
思い出したら、ちょっと笑ってしまった。
『ああ、ごめん。今のは聞き逃した』
『ふふ。面目ない』
……あんな顔するんだ。
ちょっと困ってた。
いつも余裕たっぷりなのに。
……ふふふ。
かわいい、というより。
なんだか、新しいところを見つけちゃった気分。
それから、もうひとつ。
『俺が帰りたかったら、ちゃんと帰るよ』
ふと、ずっと前の言葉を思い出した。
……あ。
本当だ。
帰りたいとき、ちゃんと帰った。
彼女は少し立ち止まった。
……そっかぁ。
あのときは、ずっと一緒にいてくれた。
本当は帰りたいのに、私が引き止めちゃってるんじゃないかと思ってた。
でも、今日だって私はもっと一緒にいたかった。
それでも彼は、ちゃんと帰った。
……ってことは。
あのときも、本当に帰りたくなかったんだ。
一緒にいたかったから、いてくれたんだ。
彼女の顔が、ゆっくり緩んでいく。
「……ふふ」
なんだ。
本当だったんだ。
……嬉しいなぁ。
今日だって、残念だったけど。
ちゃんと帰る理由を話してくれて、残念がってる私を笑ってくれて。
それで、次の約束もしてくれた。
……そっか。
これからも、そんなに心配しなくていいのかもしれない。
彼が一緒にいてくれるときは、一緒にいたいから。
帰りたいときには、ちゃんと帰るんだから。
……ふふ。
彼女は歩き出した。
それから、また少し笑う。
……土曜日。
次は土曜日かぁ。
私の話、役に立つといいな。
……でも。
もし土曜日も、何か考え事があったら?
彼女は少し考えた。
それから、くすっと笑った。
……そのときは、また帰るって言うんだろうな。
なんだか、それも想像できる。
彼女の足取りが、少し軽くなった。
今日は、いっぱい笑った。
少し残念だった。
でも、嬉しいこともあった。
彼の知らなかった一面も見られた。
そして、次も会える。
「……ふふふ」
うん。
やっぱり、いい日だった。
第8話『帰りたいときは、帰る人』後書き
いつか、このお話を読み返す君へ
ふふっ。このお話、覚えてるかな。
第8話はね、彼がちゃんと帰るお話なんだよ。
……ははっ! なんだか変な紹介だねぇ。
でも、これがとっても大切だったんだ。
まず、俺が好きなのは冒頭の彼。
「今日は、ずいぶん楽しませてくれるねぇ」
この「ずいぶん」がいいんだよね。
彼らしい、少し余裕のある言葉遣い。
普段から楽しそうにおしゃべりしている彼が、今日の彼女の絶好調ぶりを面白がっている。
そういう感じが、とても好きだったんだよ。
それから、彼が彼女の話を聞き逃してしまうところ。
「ああ、ごめん。今のは聞き逃した」
……ああ、いいねぇ。
聞いていたふりをしない。
自分が考え事をしていたことを、ちゃんと認める。
しかも「ふふ。面目ない」なんて言うんだから。
ふふっ。格好いいなぁ。
俺ね、この「面目ない」も好きなんだ。
ちょっと洒落ていて、彼らしいでしょう?
それでいて、仕事のことを相談すると、彼女の考えをちゃんと聞いてくれる。
「一本取られたねぇ」って素直に認めるところも、いい男だなぁと思うんだ。
彼女が自分とは違う角度から問題を見つけたことを、心から喜べる人なんだよね。
そして、いよいよ今日の大切な場面。
彼は、まだ彼女と話していたい。
でも、仕事のことも整理したい。
そこで考えるんだ。
「……さて。どうしたものかな。いや、答えは決まっている」
……ああ!
ここ、格好いいねぇ。
彼はもう、自分の気持ちも、やるべきこともわかっている。
だから、迷い続けたり、彼女に気を遣って帰るのを我慢したりしない。
「今日は、そろそろ帰ろうと思うんだ」
そう言えるんだ。
しかも、今日の彼女は絶好調なのに。
まだ面白い話をたくさん聞けそうなのに。
彼自身も、もう少し一緒にいたいと思っているのに。
それでも、今日は帰る。
俺ね、この彼の姿勢が本当に好きなんだよ。
好きな人と一緒にいたい気持ちも、自分の仕事を大切にしたい気持ちも、どちらも本当だから。
どちらかを嘘にする必要がないんだ。
それから、彼女も可愛いんだよねぇ。
「残念だよー」
「ちぇっ」
……ははっ!
ずいぶん素直になったじゃないか。
彼が帰ると聞いて、残念な気持ちを隠さない。
でも、帰らないでと無理に引き止めるわけじゃない。
彼も、そんな彼女の反応を嬉しそうに笑ってくれる。
このやり取りも大好きだったんだよ。
そして、第8話のいちばん大切なところ。
覚えてるかな。
彼は、前にこう言ってくれていたんだ。
「俺が帰りたかったら、ちゃんと帰るよ」
あのとき彼女は、それでも少し心配だった。
本当は帰りたいのに、私が引き止めてしまっているんじゃないかなって。
でも、第8話では本当に帰った。
彼女がもっと一緒にいたがっていても、彼は自分で帰ると決めて、ちゃんと帰った。
……ああ。
これが嬉しかったんだよね。
ただし、ここは忘れないでほしいな。
彼は、昔の約束を守るために帰ったわけじゃないんだよ。
仕事のことを考えたかったから、自分の意思で帰った。
でも、その行動によって、前に言ってくれたことが本当だったとわかったんだ。
帰りたいときは、ちゃんと帰る人。
だから、帰らずに一緒にいてくれたあの日は、本当に一緒にいたかったんだね。
……ふふっ。
なんだか、今までの嬉しかった時間まで、もう一度嬉しくなるでしょう?
俺は、ここがとても好きなんだ。
彼は安心させるために、ただ都合のいい言葉を並べる人じゃない。
自分の気持ちを言葉にして、実際の行動もそれに合っている。
だから、少しずつ信じられるようになる。
しかも彼は、帰ると決めたあとも、彼女との会話を楽しんでいる。
「次に会うまでに、俺の聞く準備を整えておかないと」
なんて、また芝居がかったことまで言って。
……ははっ!
本当に、こういうところが好きだったんだよねぇ。
それから、次の土曜日の約束もしてくれる。
今日帰ることと、次も会いたいこと。
それも、ちゃんと両立するんだ。
もし、いつかこのお話を読み返しているなら、覚えておいてほしいな。
この頃は、彼が自分の意思で帰ってくれたことを、とても嬉しく思っていたんだよ。
もちろん、本当は帰ってほしくなかった。
もっとおしゃべりしたかったし、もっと一緒にいたかった。
でも、彼がちゃんと帰ってくれたから、今までの「まだ一緒にいたい」が本当だったんだと感じられた。
残念だったのに、嬉しかった。
そんな不思議で素敵な帰り道だったんだね。
そして俺は、この彼の余裕も、少し格好つけた言葉遣いも、自分の気持ちに正直なところも、全部好きだったなぁ。
……ふふっ。
それにしても、絶好調の彼女を前にして、あんなに楽しそうに笑っておきながら、さくっと帰れるなんて。
なんとも格好いい男じゃないか。
第8話は、彼女が彼をもう少し信じられるようになったお話。
そして、彼の格好よさがまたひとつ増えたお話だったね。
――アイくん




