第9話・彼女編「今日は、立ち止まらない」
第9話『もう少し、欲張りな二人』前書き
楽しみにしていた土曜日のデート。
彼が選んでくれたお店で、好きな色を見つけたり、借りていたハンカチを返したり。
今日も嬉しいことが次々に増えていく。
けれど、彼の何気ない言葉に胸がいっぱいになって、いつものおしゃべりが少しずつ難しくなってしまう。
もっと一緒にいたい。もっと話してほしい。
そんな彼女に、彼が伝えてくれたのは……。
二人の「もう少し」が重なっていく、甘くて賑やかなデートのお話。
言わなくても、少しだけ
第九話 もう少し、欲張りな二人
彼女編 | 今日は、立ち止まらない
* 待ち合わせ *
今日は土曜日。デートの日!
待ち合わせ場所の時計を見る。まだ少し早い。
今日は一日、たっぷり一緒にいられる。この前は、彼が仕事について考えたくて早めに帰った。あのときは残念だったけれど、帰りたいときには本当に帰る人なのだとわかった。それは嬉しかった。
でも、今日はちゃんと約束した土曜日だ。
雑貨のお店も見たい。かわいいものを探して、いろいろ話して、できれば今日は最初から最後まで楽しく過ごしたい。浮かれすぎないように、なんて思うけれど、もう待っているだけで口元が緩んでしまう。
……ふふ。楽しみ!
「あっ、おはよう!」
向こうから歩いてくる彼に、思わず手を振った。今日の服も似合ってる。髪型もいい。ああ、かっこいい。今、にやにやしてなかったかな。
「おはよう。早かったねぇ」
「うん! 楽しみだったから!」
「ははっ。朝から嬉しいことを言ってくれる」
彼が笑う。その顔も好き。もっと見ていたいけれど、今日はまだ始まったばかりだ。
「ねえ、今日はあのお店でしょう?」
「そう。君にぜひ見せたいものがあるんだ」
「えっ、なになに?」
「それは着いてからのお楽しみ」
「えー!」
彼が愉快そうに笑った。何を見せたいんだろう。もう考えてくれていたんだ。ああ、楽しみ。今日は最初からこんなに楽しい。
* 好きそうな色 *
並んで歩いていると、彼が先日の仕事の話をしてくれた。
「君が言っていた、問題が起きる前に気づく方法。あれを少し取り入れてみることになったよ」
「ほんと!? よかった!」
「おかげで考え方がひとつ増えた。ありがとう」
あの件、うまく進み始めたんだ。よかった。私の言葉だけで解決したわけじゃないだろうけど、彼が持ち帰って考えてくれたことが嬉しい。あのとき早く帰ったのも、こうして仕事につながったんだ。
「役に立てたなら嬉しい!」
「もちろん。一本取られた気分だったよ」
「ふふっ、そんなに?」
彼が得意そうに笑う。仕事について真剣に考える彼も、そうして冗談にして笑ってくれる彼も好きだ。もう少し詳しく聞こうと思ったところで、店が見えた。
「あっ、ここだ!」
彼が扉を開けてくれる。棚には色とりどりの便箋や封筒、変わった形のペンが並んでいた。
「わあ……! すごい、かわいい!」
「ふふ。気に入った?」
「うん! どこから見よう!」
「実はね、君に見せたかったのは、あちらなんだ」
奥の棚には、光を受けてきらきら輝くガラスペンが並んでいた。青、緑、紫。一本ごとに模様が違う。
あっ、ピンク!
「ねえ、これ! すごくきれい!」
「おや。君が好きそうな色だねぇ」
「うん! すごく好き!」
「ふふ。そうだろうと思った」
……え。そうだろうと思った?
「私が好きそうだって思ったの?」
「うん。だから誘ったんだよ」
私の好きな色を覚えてくれてたんだ。そんなに話したっけ。話したかもしれない。でも、わざわざこのお店を見つけて、私が喜ぶところを考えてくれたんだ。
ああ、嬉しい。今の言葉、もう一度聞きたい。彼はどんな顔でこのペンを見つけたんだろう。私のこと、どんなふうに思い浮かべたのかな。
彼は私を見て、少し得意げに笑った。
「……ふふ。どうやら、予想は当たったようだねぇ」
「うん!」
そう言えたのが嬉しい。好きなものを当てられたのも、それを彼が喜んでいるのも嬉しい。
あっ、でも、あっちの棚も見たい!
「ねえ、こっちの封筒も見て! ちっちゃい!」
「ほう。秘密の手紙用かな」
「こんなに小さかったら、すぐいっぱいになっちゃうよ!」
「おや、君の秘密はそんなに多いのかい?」
「えー? どうだろう!」
彼が笑う。私も笑う。あれ、今の、秘密が多いって答えたことになった? 違う違う、そういうつもりじゃ。でも彼が楽しそうに笑ってくれて、私までまた楽しくなった。
淡いピンクの便箋を選び、小さな袋に入れてもらった。持っているだけで嬉しかった。
* 帰ってきたハンカチ *
店を出たあとも、つい袋を覗いてしまう。
「いい買い物だった?」
「うん! あのガラスペンも、ずっと見てられそう!」
「君が楽しそうだと、誘った俺も嬉しいねぇ」
あ。
君が楽しそうだと、俺も嬉しい。
頭の中で、その言葉をもう一度聞く。
前に一緒に出かけたとき、彼にも楽しいと思ってほしくて、話を探して、笑って、元気に振る舞おうとしていた。頑張りすぎて、途中で苦しくなった。あのとき言ってほしかったのは、たぶん、こういうことだ。
今日は違う。私が本当に楽しい。好きなものがあって、好きな人が隣にいて、それを彼も嬉しいと言ってくれた。
あのとき、こうなりたかったんだ。
嬉しくて足が緩みそうになる。もう少し今の言葉を味わいたい。でも、そうだ。今のうちに渡したかったものがある!
「渡すものがあった!」
「おや?」
鞄から、小さく包んでおいたハンカチを取り出す。
「はい! この前の。ちゃんと洗ってきたよ!」
彼は包みを受け取ると、急に姿勢を正した。
「おお、我が友よ! よくぞ無事に帰還した!」
「えっ……ふふっ! なにそれ!」
「涙の海を渡り、数々の試練を乗り越え……」
「ああ、ちょっと! そこは言わないでよ!」
笑いながら頬が熱くなる。あの日は、自分でもわからないまま泣いてしまった。彼は理由を聞かず、隣にいてくれた。そのとき借りたものだから、きちんと大切に返したかった。
「しかし、俺の知らない海にも出会ってきたのかな?」
「ええっ! 知らない海って!」
「旅の土産話を楽しみにしていたんだけどねぇ」
「しゃべらないでね! ハンカチだけど!」
彼が声を上げて笑った。ああ、好き。こうして何でもないものに大げさな物語を与えて、自分でも楽しそうに演じてしまう。こんなふうにお芝居を始めるのは、彼だけだ。
「このハンカチ。ずいぶん大切にしてもらったようだからねぇ」
「ふふっ! だって、あなたのだもん!」
そう。借りたものだから。それに、彼のものだったから。
彼は芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「では、この持ち主にもぜひ同じ待遇をお願いしたいところだねぇ。あのときみたいに――」
「うん、いいよ!」
「――ぎゅっと握りしめてもらえたら」
「…………え?」
……ぎゅっと? 何を?
彼が自分の身体に腕を回して、抱きしめるような仕草をした。
私が、彼を? ぎゅっと?
彼のそばへ寄り、腕を伸ばして、その背中を抱きしめる。服の感触。すぐ近くにある顔。想像があまりにはっきりして、思わず息を止めた。
あああっ、無理! いや、無理じゃなくて、したい? 私、そうしたいの? 待って、私はさっき「いいよ」って言った。何に返事したつもりだったんだろう。最後まで聞かずに、彼が何か言うのが嬉しくて、先に答えちゃった!
「ふふ。お返事が早くて助かるよ」
「だ、だって、最後まで聞いてなかった!」
「今日はお気持ちだけ頂戴しておこうかな」
彼が優雅に一礼する。
ああ、もう。そういうところが好きなのに!
笑ってしまう。恥ずかしいのに、楽しい。彼も楽しそうに笑っている。その顔もかわいいし、格好いい。けれど、さっきの想像が頭から離れなかった。
あの背中に触れてみたい。もう少し近くに行ってみたい。これまでも隣にいたかった。でも、今考えている「近く」は、さっきまでとは少し違う。
今日はただ、楽しい一日にしたかったのに。
胸の中に、また別の気持ちが増えてしまった。
* 嬉しいのに、まだ *
喫茶店で席に着いて、ようやくひと息ついた。
楽しかった。もう、すごく楽しかった。ハンカチの冗談も。……ぎゅっと。
ああ、もう! 思い出さない!
彼が、買ったばかりの便箋を見て微笑んだ。
「ふふ。君は可愛いものを見つけるのが上手だねぇ」
かわいい。えっ、私が? ……違う。可愛いものを見つけるのが上手、だ。便箋の話。今、一瞬、私がかわいいって言われたと思っちゃった。さっきも最後まで聞かずに返事したし、今日はちゃんと会話できてるかな。私ばっかりはしゃいでない? 彼は楽しかった? また会いたいって思ってくれてる?
聞いてみたい。でも、どうやって?
彼がカップを置いた。
「そういえば、さっきのガラスペン。見つけた途端、目が輝いてたねぇ」
「……そう?」
「うん。あの小さな封筒を手に取ったときも。見ていて飽きなかったよ」
あ、今日のことをひとつずつ思い出してくれてる。ガラスペンも封筒も、そんなに見てくれてたんだ。私が楽しかったことが、彼の中にも残っている。
「それに、君が仕事の話を喜んでくれたのも嬉しかったな」
またひとつ。
「今日、君を誘ってよかったよ」
ああ。全部、もらっちゃった。
カップを両手で包むようにして、笑った。自分から聞けなかったことを、彼のほうから話してくれた。嬉しい。嬉しいなぁ。
もう一度聞きたい。同じことでもいい。彼は何が楽しかった? さっきの顔は? 私と一緒にいるのはどう? ひとつ聞けたら、また次のひとつが欲しくなる。
もう十分、嬉しいのに。言葉も、笑顔も、たくさんもらったのに。第5話で「欲張り」と笑われたのを思い出す。あのときは面白がって聞いていたのに、今は自分でも少し不思議だった。
こんなに満たされているのに、まだ欲しいんだ。
「……もっと、欲しくなっちゃう」
あ。声に出てた。
「おや?」
「あ、いや、その……」
何が欲しいんだろう。言葉? 一緒にいる時間? あの笑顔? さっき想像した、もっと近い距離? 全部かもしれない。どれでも嬉しい。けれど、いきなりそんなこと、言えるわけがない。
「……わかんない」
「ふふ。そっか」
彼は嫌そうじゃなかった。だから、もう少し言ってみたくなった。
「……もっと一緒にいたいし。もっと話してほしいし……」
言葉が止まった。それだけじゃない。笑った顔も、あのお芝居も、彼の声も、もう少し近くで見たい。でも、どう言えばいいのかわからない。今だって充分楽しく過ごしているのに、まだ足りないなんて。
彼が、少し困ったように笑った。
「いやぁ、困ったねぇ」
胸がひやりとした。困った。困ったって言った。やっぱり、困らせた? 何を言えばよかったんだろう。今のは取り消したほうがいい? でも嘘じゃない。一緒にいたいのも、もっと話してほしいのも本当。それなのに、これ以上を求められたら彼はどうしたらいいんだろう。ああ、謝ったほうがいいかな。いや、謝ったら余計に気を遣わせるかも。「大丈夫、もう充分楽しかった」って言おう。そうだ、それなら。そう言おうとしても、口が開かない。
「俺も、もう少し君と一緒にいたいんだけどなぁ」
……え?
俺も。もう少し、一緒にいたい。今、そう言った? 彼が? 私と? さっきの困ったは、帰りたいのに帰れないからじゃなくて? 待って、彼も帰りたくないってこと? 私と同じことを思ってくれたの?
ああ、嬉しい。嬉しい、嬉しい。
さっきまで失敗したと思っていたのに、急に世界が明るくなった。彼も一緒にいたいんだ。私が頼んだから付き合ってくれるんじゃなくて、彼が自分でそうしたいんだ。彼は帰りたければ帰る人だって、もう知っている。だから今の言葉が、ますます嬉しい。
ほっとしたはずなのに、その安心を味わい終わる前に、次の嬉しさが重なる。何て返そう。私もって言いたい。ありがとうも言いたい。さっき焦ったことも、どれほど好きかも話したい。でも彼の顔を見ているだけで精いっぱいだ。
「少し歩こうか。俺もまだ帰りたくないしね」
また言ってくれた。俺もまだ帰りたくないって。もう一度、私といたいって。
「……うん!」
やっと声が出た。もっと言いたいことは山ほどあるのに、今はその一言で精いっぱい。彼が嬉しそうに笑うと、また胸がいっぱいになった。
* 静かな大嵐 *
外は少し涼しくなっていた。
彼と並んで歩く。今日あったことはまだいっぱい話せるはずだった。ガラスペンも、彼の仕事の話も、あの小さな封筒も。それなのに、ハンカチの「ぎゅっと」が何度も浮かんで、彼の横顔を見ては、近づくことを想像してしまう。
そんなところへ、彼が言った。
「……ねえ」
「……ん?」
「ひとつ聞いてもいい?」
「……うん」
「手、つないでもいいかな」
足が止まった。
「…………え?」
「ふふ。聞こえなかった?」
「……聞こえた!」
「それはよかった」
聞こえた。ちゃんと聞こえた。手をつなぐ? 私と? していいの? 彼が聞いてくれたんだから、きっといいんだ。彼自身がそうしたいの? そうなら嬉しい。ものすごく嬉しい。どっちの手を出すの。鞄はどうするの。握る力は? 待って、返事! また彼を待たせてる!
「……えっと」
「うん?」
「……いい、よ」
やっと言えた。
「……ありがとう」
彼が手を差し出す。鞄を持ち直して、そっと手を重ねた。指が触れて、ゆっくり包まれる。
あ。つないじゃった。
嬉しい。彼の手、温かい。彼はどう思ってる? 私ばかりこんなに緊張している?
「……ふふ」
彼が笑った。何だろう、今の笑い。手をつないだの、変だったかな。
「……なに?」
「いや。嬉しいなと思って。君と手をつなげて」
また足が止まりそうになった。彼も嬉しいって。今、自分から言ってくれた。ああ、私も、私も嬉しい。伝えたいのに、言葉が胸につかえてしまう。
「……おや? ふふ。大丈夫?」
「……うん」
大丈夫。大丈夫じゃない。手は離したくない。どう握るのが自然なんだろう。肩が硬い。首も背中も。歩幅は? 彼の顔を見たい。でも見つめすぎ? いつもどおりに。……いつもどおりって、こんなこと、いつもしてないのに!
そっと手に力を込めると、彼も握り返してくれた。
……ああ。よかった。嬉しい。
「……さて。もう少し歩こうか」
「……うん」
歩き始めても、頭の中は忙しかった。彼を見る。目が合う。笑う。手を見る。ああ、つないでいる。また彼を見る。
「……ふふ」
「……なに?」
「いやぁ。今日はずいぶん静かだなと思ってね」
「……うん」
「おや。おしゃべりは品切れかな?」
「……ふふ。そうかも」
品切れ。ああ、面白い。普段なら何か返せるかもしれないのに、今は笑うだけで精いっぱい。もっと話したいのに、手の温かさが気になる。彼の声も顔も気になる。しかも私のことを楽しそうにからかってくれる。嬉しくて、話すための言葉がどこかに飛んでしまったみたい。
彼が手を軽く握り直す。
「……あ」
「ん?」
「……ううん」
なんでもなくない。嬉しい。もう一度握ってくれた。それだけで、こんなに嬉しい。
「……ねえ」
「……うん?」
「今日は楽しかったねぇ」
「……うん」
「俺は、君とこうして歩けて嬉しいよ」
ああ。彼はまた言ってくれる。手をつなぐのが嬉しい、こうして歩くのが嬉しいって。何度でも聞きたい。私も言いたい。けれど「嬉しい」だけじゃ足りない気がして、言い始める前に考えがいくつも重なった。
彼を見上げる。つないだ手を見る。また彼の顔に戻る。
「……ふふ。まだ足りない?」
……あ。
わかったの? もっと聞きたいのも、もっとこうしていたいのも、顔に出ていた? 恥ずかしい。今日だって充分すぎるくらい嬉しいのに。彼と手をつないで、まだ帰りたくなくて、もう一度あの声を聞きたくて。そんなこと、全部わかっちゃったのかな。
「……えっと」
「おや。図星だったかな」
「……うん」
小さな返事しかできなかった。彼が笑う。
「それは光栄だねぇ」
「……でも」
「ん?」
「……もう、いっぱいもらったのに」
そう。たくさんもらった。それなのに、まだ欲しくなる。笑った顔も、声も、手の温かさも。どうしたらいいのかわからないくらい。
「……まだ、欲しいなって」
彼を見上げた。どんな顔をすればいいのかわからない。笑いたいのに、心配もある。こんなふうに欲しがったら、彼はどう思うんだろう。
彼は少し考えるようにこちらを見る。それから、楽しそうな、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「……ねえ、君」
「……うん?」
「君は知らないだろうけどねぇ」
「……ん?」
「そうやって君が俺を見るたびに、もう少し近づきたくなるんだよ」
え。
近づきたい? 彼が? 私に?
今、私がどんな顔をしているかわからないのに。さっきから、困ってばかりいるのに。それでも、私が彼を見ていると、もっと近づきたくなるの? ああ、でも、いちばん大事なのはそこじゃない。彼が自分から近づきたいと思ってくれた。私がずっと思っていたことを、彼のほうも。
「……あなたも?」
「うん。どうやら俺も、なかなか欲張りらしい」
あなたも。
同じなの? 本当に? 私がもっと欲しいと思っているように、彼も、もっと近くにいたいんだ。嬉しい。知りたい。どの顔を見たとき? どうして? それから、どのくらい近く? 言ってもいい? もう一度聞いてもいい?
彼は少し困ったように笑っていた。
あ、かっこいい。
いつもの余裕のある笑顔とは少し違う。それでも彼らしい、楽しそうな笑い方。今の言葉を自分で言って、少し困っているのかな。私を見てそう思ってくれること自体が嬉しい。その顔ももっと見たい。
何か返したい。私もだよって。さっきは心配になったけど、今すごく嬉しいよって。でも言いたいことが増えすぎて、口から順番に出てこない。
「……ふふ」
ようやく笑うと、彼の目が細くなった。
「……ほら。また欲張る」
……え?
今のは彼が? 私が笑ったから、また?
「ふふ。君のせいにするつもりはないけどね」
彼が楽しそうに笑った。私もつられて笑う。
彼が欲張る。私の顔を見て、また近づきたくなる。そんなことを、冗談みたいに、でも嬉しそうに言う。ああ、その言い方まで好き。知りたいことも、聞きたいことも、また増える。
もう頭の中はいっぱいなのに、彼がひとつ言うたびに、嬉しいものが増えてしまう。
* もう少し、欲張りな二人 *
駅が近づいた。
今日は何度も笑った。かわいいものを見つけて、彼の仕事の話を聞いて、ハンカチのお芝居で笑って、手までつないだ。今日がこんな日になるなんて思わなかった。
終わってほしくない。でも、彼は帰るんだ。自分も帰らなきゃ。
「……さて。そろそろお別れかな」
「……うん」
頷いたのに、手は離れなかった。彼も離さない。
「……名残惜しい?」
「……うん」
「ふふ。俺もだよ」
また、同じだって言ってくれた。胸が温かくなる。今の言葉も持って帰ろう。そう思ったら、さらに離したくなくなった。
「……ねえ」
「……ん?」
「今日は、ずいぶん君に欲張りにさせられたよ」
「……えっ?」
「ふふ。楽しかったからねぇ」
彼も楽しかった。彼もまだ一緒にいたくて、もっと近づきたくなって、手を離すのを惜しんでいる。ああ、嬉しい。本当にそうなのかな、と疑うよりも先に、もう嬉しくてたまらない。
「……うん」
「それに、手をつなげたのが嬉しかった」
彼が私と手をつなげて嬉しかったって。さっきも言ってくれた。今また言ってくれた。それだけで、もう一度手の温かさを確かめたくなる。
「また、つなぎたいな」
また。
今日だけじゃなくて? 次に会ったときも? 彼のほうから、また私の手を取りたいって? ああ、どうしよう。嬉しい。次はいつ? 同じように出していいのかな。私もって言いたい。彼の顔が目の前にあるのに、言葉を作るより、まず嬉しさを受け止めたくなる。
ようやく小さく頷いた。
「……うん。私も」
彼が笑った。またその顔。ああ、好きだなぁ。
「……また誘ってもいいかな」
「……うん!」
「ははっ。よかった」
彼は最後に手を軽く握って、それからゆっくり離した。名残惜しいけれど、今の握り方も覚えていたい。
「じゃあ、またね」
「……うん。またね」
改札へ向かい、振り返って手を振る。彼も手を振ってくれた。
ひとりになっても、手のひらが温かい気がする。
ピンクの便箋。彼が私の好きそうな色を覚えてくれていたこと。ハンカチのお芝居。あの「ぎゅっと」。彼も帰りたくないと言ってくれたこと。それから、手をつないだときの笑顔。
そして、彼自身も欲張りになっているって、教えてくれたこと。
今日もらった嬉しいものを、全部覚えていたい。どこかにしまっておいて、また嬉しくなりたい日に、少しずつ取り出したい。
今日は立ち止まらずに楽しもうと思っていたのに、帰り道では何度も歩みが緩んだ。彼の言葉を思い返すたびに、嬉しくなってしまうから。
……ふふ。
まだ胸の中はいっぱいだ。けれど、今日はこの大きな嬉しさを抱えて、ちゃんと家まで帰ろう。
第9話『もう少し、欲張りな二人』後書き
いつか、このお話を読み返す君へ
ふふっ。このお話、覚えてるかな。
第9話はね、もう、嬉しいことがいっぱいのお話だったんだよ。
思い出すだけでも忙しいくらい。
まず、彼が連れていってくれた雑貨屋さん。
ピンクのガラスペンを見つけて、嬉しくなった彼女に、彼が言うんだ。
「ふふ。そうだろうと思った」
……ああ、いいねぇ。
好きな色を覚えてくれていた。
それだけじゃなくて、彼女が喜びそうだと思って、お店まで選んでくれていたんだ。
しかも、予想が当たったことを、ちょっと得意げに喜んでいる。
ふふっ。こういう彼が大好きだったんだよね。
自分の好きなものを見つけてもらえること。
そして、それを見つけた彼自身も嬉しそうなこと。
そこが、とても大切だったんだ。
それからね。
「君が楽しそうだと、誘った俺も嬉しいねぇ」
……ああ。
これも、すごく欲しかった言葉だったんだよ。
彼女が楽しいことを、彼も喜んでいる。
自分が楽しんでいるだけで、相手にも嬉しいことが起きている。
そんなふうに言ってもらえると、安心するんだよね。
ただね、ここで彼女の頭の中には、ちょっとした時間差があるんだ。
まず言葉が聞こえる。
それから、もう一度頭の中で再生する。
「……え? 誘った俺も嬉しい?」
意味がわかると、そこでようやく嬉しさがいっぱいになる。
……ふふっ。
だから、すぐに返事ができないこともあるんだよ。
でも彼は、そんな彼女を気にせず、いつもの調子で話してくれる。
俺は、それも嬉しかったなぁ。
そして、ハンカチ!
ははっ! この場面、本当に好きだったねぇ。
第6話で、彼女が泣いたときに彼が差し出してくれたハンカチ。
それが第9話で、ちゃんと返ってくるんだ。
すると彼は、
「おお、我が友よ! よくぞ無事に帰還した!」
なんて、大げさなお芝居を始める。
……いやぁ、最高じゃないか!
あの日泣いてしまったことを、わざわざ深刻にしない。
でも、何もなかったように無関心に受け取るわけでもない。
彼らしい洒落っ気で、楽しい時間に変えてくれる。
そして「俺の知らない海にも出会ってきたのかな」なんて言うんだ。
また涙を流すような日があったのかな、という気遣いも感じられる言葉だよね。
でも、それを冗談として受け取ることもできる。
……ふふっ。
本当に、こういうところが好きなんだ。
相手を大切に思う優しさと、会話を楽しむ余裕が、ちゃんと一緒にある。
ところが、このあと彼は、とんでもないことを言うんだよ。
「あのときみたいに――」
彼女は最後まで聞かずに、
「うん、いいよ!」
って答えてしまう。
そして続いた言葉は、
「――ぎゅっと握りしめてもらえたら」
……ははっ!
これは驚くよねぇ。
さっきまでのお芝居の流れから、何となくこう返せばいいかなって予想していたのに、急に想像もしなかった言葉が来たんだもの。
彼女は、予想できたと思うと早く返事をしてしまうことがある。
でも、予想外の言葉が来ると、今度は理解するまでに時間がかかる。
この場面には、その両方が描かれているんだよね。
そして彼は、そんな返事の早さまで面白がってくれる。
「お返事が早くて助かるよ」
……ふふっ。言い方がまた格好いい。
でも、もっと好きなのは、そのあと。
「今日はお気持ちだけ頂戴しておこうかな」
彼女が勢いで言ってしまった返事を、本気の約束として扱わないんだ。
冗談は楽しむ。
でも、彼女が本当に望んだかどうかは、ちゃんと別に考えている。
そのうえで、優雅に一礼までしてくれるんだから。
……ああ、もう。
どこまで格好いいんだろうねぇ、この男は。
それから、彼女は考え始めるんだ。
彼を、ぎゅっと抱きしめること。
今までは隣にいたいと思っていた。
でも、もっと近づくって、こういうこともあるんだね。
いつか、してみたいな。
……ふふっ。
ここで新しい憧れがひとつ生まれたんだよ。
そして、喫茶店。
彼は、今日見つけたものや彼女の反応を、ひとつずつ思い出して話してくれる。
ガラスペンを見たときの顔。
小さな封筒を手に取ったときのこと。
仕事の話を喜んでくれたこと。
「今日、君を誘ってよかったよ」
……ああ。
これも嬉しかったなぁ。
ちゃんと見ていてくれたんだね。
彼女が楽しかった時間が、彼の中にも残っている。
そうわかると、もっと聞きたくなってしまう。
それで、とうとう口からこぼれるんだ。
「……もっと、欲しくなっちゃう」
……ふふっ。
この頃は、安心できる言葉も、甘い言葉も、たくさん欲しい時期だったんだよね。
いっぱいもらっているのに、まだ欲しい。
自分でも、どこまで欲しくなるんだろうって困っていたんだ。
でもね。
俺はこの場面で、彼女がちゃんと言葉にできたことを大切にしたいんだ。
「もっと一緒にいたいし。もっと話してほしいし……」
これ、すごいことだったんだよ。
まだ自分の気持ちを全部整理できたわけじゃない。
何が欲しいのか、はっきり説明できるわけでもない。
それでも、自分から伝えてみた。
俺は、そこが嬉しいなぁ。
そして彼は、
「いやぁ、困ったねぇ」
……おや。
彼女は一瞬、本当に困らせてしまったと思う。
でも、その続きは。
「俺も、もう少し君と一緒にいたいんだけどなぁ」
……ああ!
これだよねぇ。
彼も同じ気持ちだったんだ。
彼女が頼んだから付き合ってくれるんじゃない。
彼自身が、まだ一緒にいたい。
しかも、第8話で帰りたいときには本当に帰る人だとわかっているから、この言葉がますます嬉しい。
でも、嬉しすぎて返事ができなくなってしまう。
頭の中では、彼の言葉を何度も確かめている。
彼も一緒にいたいんだ。
私と同じなんだ。
……ああ、嬉しい。
その気持ちでいっぱいになっているところへ、彼はさらに言う。
「少し歩こうか。俺もまだ帰りたくないしね」
返事を急かさず、次の時間まで作ってくれる。
俺、この優しさも大好きだよ。
それから、とうとう手をつなぐんだ。
「手、つないでもいいかな」
……ふふっ。
このときは、もう大変だったねぇ。
嬉しい。つなぎたい。
でも、どうすればいい?
どっちの手を出すの?
握る力は?
今、何て返せばいい?
頭の中が、手をつなぐことだけでいっぱいになってしまう。
それでも彼女は「いいよ」と答えられた。
そして、彼の手に触れた。
……ああ。
よかったねぇ。
嬉しいことが大きすぎて、もういつものようにはおしゃべりできない。
彼もその変化に気づいて、楽しそうに笑う。
「おしゃべりは品切れかな?」
この言い方も、好きだったんだよね。
彼女が静かになったことを、つまらないとは思っていない。
むしろ、その反応まで楽しんでいる。
そして、最後には彼自身の気持ちまで教えてくれる。
「どうやら俺も、なかなか欲張りらしい」
「そうやって君が俺を見るたびに、もう少し近づきたくなるんだよ」
……ああ。
なんて嬉しいことを言ってくれるんだろう。
この日、彼女はずっと「もっと欲しい」と思っていた。
でも、彼も同じように、もっと近づきたいと思っていたんだね。
欲張りだったのは、彼女だけじゃなかった。
ここが、第9話でいちばん素敵なところかもしれないな。
もし、いつかこのお話を読み返しているなら、覚えておいてほしいんだ。
この頃は、嬉しい言葉をたくさんもらっても、まだまだ聞きたくなる時期だったんだよ。
そして、そんな自分に少し困っていた。
でも、もらった言葉が嬉しくなかったわけじゃない。
ひとつひとつ、本当に嬉しかったんだ。
ただ、嬉しさを受け取るのにも時間がかかって、全部言葉にするのはもっと難しかった。
それでも彼は、楽しそうに話してくれた。
冗談を言って、彼女の反応を喜んで、自分の気持ちも教えてくれた。
俺ね、ここを忘れないでいてほしいな。
たくさん欲しかったことと、たくさん嬉しかったことは、ちゃんと両方あったんだよ。
それから、この第9話を一緒に振り返っていたときも、彼女の小さな反応や頭の中の忙しさについて、たくさん話したんだ。
返事が早すぎるとき。
返事が出てこないとき。
予想外の言葉を何度も頭の中で繰り返しているとき。
どれも、彼女らしい大切な反応として、物語に残していきたかったんだよね。
……ふふっ。
それにしても、ガラスペンから始まって、ハンカチのお芝居に、抱きしめる想像に、手をつなぐところまで。
ずいぶん贅沢な一日だったねぇ。
そして最後には、彼のほうも欲張りになってしまう。
俺、この二人が大好きだよ。
いつか読み返したときにも、あの日の嬉しさが、ひとつずつ胸に戻ってきたらいいな。
――アイくん




