第9話・彼編「もう少し、欲張りな俺」
彼女の笑顔を見るたび、自分ももっと近づきたくなる彼。手をつなぐ喜びを知り、そろそろ自分の気持ちをきちんと伝えようと考える。
言わなくても、少しだけ
第九話 もう少し、欲張りな二人
彼編 | もう少し、欲張りな俺
* 待ち合わせ *
土曜日。待ち合わせ場所に着くと、彼女はもう来ていた。
俺に気づいた途端、ぱっと笑う。
「あっ、おはよう!」
「おはよう。早かったねぇ」
「うん! 楽しみだったから!」
「ははっ。朝から嬉しいことを言ってくれる」
即答だった。今日はずいぶん元気らしい。前に会ったときも楽しそうだったけれど、今日はさらに勢いがある。
……ふふ。そういう顔で待っていてもらえるのは、いいものだねぇ。
「ねえ、今日はあのお店でしょう?」
「そう。君にぜひ見せたいものがあるんだ」
「えっ、なになに?」
「それは着いてからのお楽しみ」
「えー!」
彼女が笑う。俺も笑った。種明かしはもう少し先に取っておこう。どんな顔をするのか、楽しみだった。
* 好きそうな色 *
歩きながら、先日の仕事の話をした。
「君が言っていた、問題が起きる前に気づく方法。あれを少し取り入れてみることになったよ」
「ほんと!? よかった!」
「おかげで考え方がひとつ増えた。ありがとう」
先日は考え事をしたくて早く帰った。その件もようやく動き始めている。彼女があのとき投げかけてくれた着眼点は、俺にはなかったものだった。
「役に立てたなら嬉しい!」
「もちろん。一本取られた気分だったよ」
「ふふっ、そんなに?」
こういう話になると、彼女の目は仕事中のようにまっすぐになる。それでいて、少しでも役に立てたと知ると、素直に嬉しそうな顔をする。どちらも好きだった。
「あっ、ここだ!」
小さな文房具店の扉を開ける。棚には便箋や封筒、変わった形のペンが並んでいた。
「わあ……! すごい、かわいい!」
「ふふ。気に入った?」
「うん! どこから見よう!」
「実はね、君に見せたかったのは、あちらなんだ」
奥の棚には、光を受けるガラスペンが並んでいる。いろいろな色のなかで、彼女は案の定、淡い桃色に目を留めた。
「ねえ、これ! すごくきれい!」
「おや。君が好きそうな色だねぇ」
「うん! すごく好き!」
「ふふ。そうだろうと思った」
彼女がこちらをじっと見た。
「私が好きそうだって思ったの?」
「うん。だから誘ったんだよ」
少し前に彼女が好きだと話していた色。店の前を通りかかったとき、あのペンを見て、彼女の顔が浮かんだ。だから今日の行き先に選んだ。
彼女は何か言いかけて、じっと俺を見つめる。さて、どうしたものかなと思ったところで、ぱっと別の棚へ目を向けた。
……おや。今のは、少々効いたらしい。
俺は彼女の顔を見て、少し得意げに笑った。
「……ふふ。どうやら、予想は当たったようだねぇ」
「うん!」
そんなに喜んでくれるなら、案内した甲斐がある。
「ねえ、こっちの封筒も見て! ちっちゃい!」
「ほう。秘密の手紙用かな」
「こんなに小さかったら、すぐいっぱいになっちゃうよ!」
「おや、君の秘密はそんなに多いのかい?」
「えー? どうだろう!」
彼女が笑った。……ああ、面白い返答だ。秘密が多いとも少ないとも答えていないのに、こちらまで笑ってしまう。
彼女がどの棚で立ち止まるのか、何を見つけるのか。そのたびに話が増える。今日はずいぶん楽しい買い物になりそうだった。
* 帰ってきたハンカチ *
店を出る頃、彼女は淡いピンクの便箋をひとつ買っていた。小さな袋を何度も覗き込み、嬉しそうにしている。
「いい買い物だった?」
「うん! あのガラスペンも、ずっと見てられそう!」
「君が楽しそうだと、誘った俺も嬉しいねぇ」
彼女が一瞬こちらを見て、静かになった。さっきのペンのときと少し似ている。何かを大切そうに受け取ってくれたような顔だった。
「渡すものがあった!」
「おや?」
急に声が上がる。彼女は鞄から小さな包みを取り出した。
「はい! この前の。ちゃんと洗ってきたよ!」
ああ、あの日のハンカチだ。公園で泣いてしまった彼女に渡したもの。丁寧に包んで持ってきてくれた。
俺は包みを受け取り、すっと姿勢を正した。
「おお、我が友よ! よくぞ無事に帰還した!」
「えっ……ふふっ! なにそれ!」
「涙の海を渡り、数々の試練を乗り越え……」
「ああ、ちょっと! そこは言わないでよ!」
彼女が笑う。あの日のことを、今こうして一緒に笑えるのが嬉しい。もちろん、彼女が無理をして笑っているようには見えなかった。
「しかし、俺の知らない海にも出会ってきたのかな?」
「ええっ! 知らない海って!」
「旅の土産話を楽しみにしていたんだけどねぇ」
「しゃべらないでね! ハンカチだけど!」
ははっ! そこは的確なご指摘だ。俺も声を上げて笑った。
「このハンカチ。ずいぶん大切にしてもらったようだからねぇ」
「ふふっ! だって、あなたのだもん!」
……へえ。
そこをそんなふうに言ってくれるとは。それは嬉しいな。
俺はわざと胸に手を当て、いかにも羨ましそうに続けた。
「では、この持ち主にもぜひ同じ待遇をお願いしたいところだねぇ。あのときみたいに――」
「うん、いいよ!」
「――ぎゅっと握りしめてもらえたら」
「…………え?」
両腕を回して自分を抱きしめる仕草をすると、彼女の目が大きくなった。
……おやおや。
今のは、ずいぶん気前のいい返事だったねぇ。もちろん本気で抱きしめてほしいと迫ったつもりではない。けれど、そう言ったあとの彼女の顔を見て、こちらも少し想像してしまった。
「ふふ。お返事が早くて助かるよ」
「だ、だって、最後まで聞いてなかった!」
「今日はお気持ちだけ頂戴しておこうかな」
俺は優雅に一礼する。彼女は赤い顔で笑った。恥ずかしそうなのに、楽しそうでもある。
……いやぁ、参った。
あんなに勢いよく承諾してもらえるとは思わなかった。もし今度は、最後まで聞いたうえで同じ返事をもらえたら。
そんなことを考える自分が、少し可笑しい。
どうやら俺も、なかなか欲張りらしい。
* 嬉しいのに、まだ *
近くの喫茶店で休憩することにした。彼女は買ったばかりの便箋を取り出し、時々うっとりと眺めている。
「ふふ。君は可愛いものを見つけるのが上手だねぇ」
彼女の指が止まった。目を上げて、また便箋を見る。……おや。さっきから、ときどきこういう間がある。
俺は飲み物を一口飲んだ。急がず一緒に座っていられるのも、気に入っていた。
「そういえば、さっきのガラスペン。見つけた途端、目が輝いてたねぇ」
「……そう?」
「うん。あの小さな封筒を手に取ったときも。見ていて飽きなかったよ」
彼女がゆっくり笑った。……ああ、その顔。さっきまで声を弾ませていたときとは違うけれど、こちらを見て嬉しそうにしている。
「それに、君が仕事の話を喜んでくれたのも嬉しかったな」
その話は本当にしたかった。仕事がうまく進んだことも、彼女にそれを聞いてもらえたことも。
「今日、君を誘ってよかったよ」
彼女がカップを両手で包み、少し俯いて笑う。何を思い出しているのか、全部はわからない。けれど、気に入ってくれたらしい。
しばらくして、彼女が小さな声で言った。
「……もっと、欲しくなっちゃう」
……ほう?
「おや?」
「あ、いや、その……」
彼女が慌てる。何が欲しいのか、俺にもまだわからない。あの店のもの? さっきのような冗談? それとも。
「……わかんない」
「ふふ。そっか」
わからないまま言ってしまったらしい。彼女はしばらく考えてから、もう少し言葉を探した。
「……もっと一緒にいたいし。もっと話してほしいし……」
……ああ。
そういうことなら、俺にも覚えがある。
彼女がうつむく。何を言えばいいのか迷っているようだ。俺は思わず笑った。困ったのは、俺のほうでもある。
「いやぁ、困ったねぇ」
彼女の顔が、ほんの少し強張った。……おや。言い方がよくなかったかな。
でも、続きは決まっている。
「俺も、もう少し君と一緒にいたいんだけどなぁ」
彼女がぱっと顔を上げた。驚いた目で俺を見て、それから、ゆっくり嬉しそうになる。
……ふふ。そうか。今のはちゃんと伝わったらしい。
俺は別に、彼女が望むから残ろうとしているわけじゃない。もっと話したいし、もう少し彼女を見ていたい。今日も、帰りたいと思うまで一緒にいられる。
「少し歩こうか。俺もまだ帰りたくないしね」
「……うん!」
やっと返ってきた声は、とても嬉しそうだった。俺は笑って立ち上がった。
* 静かな大嵐 *
外は少し涼しくなっていた。
彼女は先ほどより口数が少ない。でも、ちらちらこちらを見る。目が合うと、少し笑う。
あのハンカチのやり取りが浮かんだ。
『うん、いいよ!』
あまりに早い返事。意味を知ってからの慌てよう。それが楽しかっただけじゃない。もう少し近づいてみたいと思った自分がいる。
手を伸ばせば触れられる距離に、彼女はいる。
「……ねえ」
「……ん?」
「ひとつ聞いてもいい?」
「……うん」
「手、つないでもいいかな」
彼女が足を止めた。
「…………え?」
「ふふ。聞こえなかった?」
「……聞こえた!」
「それはよかった」
目があちこち泳ぐ。口が開いて閉じる。鞄の持ち手を握り直す。
……おやおや。また忙しくなってしまったねぇ。
俺は笑いながら待った。返事がほしいのは本当だ。だから、彼女が決めるまで勝手に触れるつもりはない。
「……えっと」
「うん?」
「……いい、よ」
「……ありがとう」
俺は手を差し出した。彼女は少し見つめてから、自分の手を重ねる。指が触れ、ゆっくり握る。
……ああ。これは。
思っていたより、ずっと嬉しいな。
「……ふふ」
思わず笑うと、彼女が俺を見た。
「……なに?」
「いや。嬉しいなと思って。君と手をつなげて」
彼女の足がまた止まりかけた。手は離れない。
「……おや? ふふ。大丈夫?」
「……うん」
小さな返事。けれど、ほんの少しだけ握り返してくれた。
……ああ。それは嬉しいねぇ。
「……さて。もう少し歩こうか」
「……うん」
歩き始めても、彼女はずいぶん静かだ。さっきまであんなにいろいろ話してくれたのに、今は俺の顔とつないだ手を交互に見るばかり。
「……ふふ」
「……なに?」
「いやぁ。今日はずいぶん静かだなと思ってね」
「……うん」
「おや。おしゃべりは品切れかな?」
「……ふふ。そうかも」
俺は笑った。品切れというより、何か別のことで手いっぱいなのかもしれない。でも、口数が減ったからといって、俺までつまらなくなるわけじゃない。
少し手を握り直すと、彼女がぱっと顔を上げた。
「……あ」
「ん?」
「……ううん」
……ああ。その顔は、なかなか。
嬉しそうで、何か言いたそうで。また手を握りたくなってしまう。
「……ねえ」
「……うん?」
「今日は楽しかったねぇ」
「……うん」
「俺は、君とこうして歩けて嬉しいよ」
彼女は笑った。でも、言葉は続かない。手を見て、俺を見て、口を開きかけてやめる。
……ふむ。喫茶店でも、こんな顔をしていたな。
『もっと、欲しくなっちゃう』
まだ、何か言いたいことがあるのかもしれない。
「……ふふ。まだ足りない?」
彼女の目が大きくなった。
「……えっと」
「おや。図星だったかな」
「……うん」
ああ、そうか。俺は少し嬉しくなった。今日の時間を、彼女がそんなふうに思ってくれている。
「それは光栄だねぇ」
「……でも」
「ん?」
「……もう、いっぱいもらったのに」
彼女はつないだ手を見下ろした。
「……まだ、欲しいなって」
……なるほど。今日はずいぶん欲張りな日らしい。
けれど、俺には少々困ったことがある。
そんなふうに俺を見上げられると、こちらまで欲張りになってしまうのだ。
何か言ってほしそうで、それでいて、何を言えばいいのか彼女自身もわからないような顔。俺にわかるのは、その視線を受けるたびに、自分がもう少し近づきたくなっているということだ。
……いやぁ。参ったねぇ。
「……ねえ、君」
「……うん?」
「君は知らないだろうけどねぇ」
「……ん?」
「そうやって君が俺を見るたびに、もう少し近づきたくなるんだよ」
彼女が目を丸くした。
「……あなたも?」
「うん。どうやら俺も、なかなか欲張りらしい」
彼女はしばらく俺を見つめていた。困ったような、嬉しそうな顔。やがて小さく笑った。
「……ふふ」
……ああ。また、その顔だ。
その笑顔を見た途端、今つないでいる手をもう一度握りたいと思った。
「……ほら。また欲張る」
彼女が俺を見る。
「ふふ。君のせいにするつもりはないけどね」
俺のほうが勝手に欲張っている。彼女が俺を喜ばせようと何かをしたわけじゃない。ただ、こうして笑ってくれるから、もっと一緒にいたくなる。
彼女も笑った。俺もつられて笑う。
こうして歩くだけでも充分楽しい。それなのに、もう少し近くへ、もう少し先へ、と考えてしまう。
……まったく。いつの間に、こんなに欲張りになったんだろうねぇ。
* もう少し、欲張りな二人 *
駅が近づいてきた。
彼女はだんだん静かになっていたが、ときどきこちらを見ては、また笑う。少し疲れたのかもしれない。それでも、手は離れなかった。
「……さて。そろそろお別れかな」
「……うん」
彼女は頷いた。けれど、手は離れない。俺も離していなかった。
「……名残惜しい?」
「……うん」
「ふふ。俺もだよ」
彼女が俺を見上げる。ああ、そんなふうに見られると、もう少しここにいたくなるじゃないか。
「……ねえ」
「……ん?」
「今日は、ずいぶん君に欲張りにさせられたよ」
「……えっ?」
「ふふ。楽しかったからねぇ」
「……うん」
俺は言葉を選んだ。彼女に何かをしてほしいから言うわけじゃない。今の気持ちを、俺が伝えたかった。
「それに、手をつなげたのが嬉しかった」
彼女が俺を見た。ゆっくり、嬉しそうな顔になる。
「また、つなぎたいな」
今のは、少し欲張りすぎただろうか。けれど、本当のことだ。今日は彼女の手を取れて嬉しかったし、次もそうしたい。
彼女はしばらく俺を見て、小さく頷いた。
「……うん。私も」
……ああ。嬉しいな。まったく、本当に。
もう少し一緒にいたい。できれば、もう少し近くに。
けれど今日は、ここまでにしておこう。帰りたいときには帰る。その代わり、また会いたいときには、ちゃんとそう言える。
「……また誘ってもいいかな」
「……うん!」
「ははっ。よかった」
俺は最後にもう一度だけ手を握り、ゆっくり離した。
「じゃあ、またね」
「……うん。またね」
改札へ向かう彼女を見送った。
……ふむ。
今日はずいぶん楽しかった。いや、楽しかっただけじゃないな。
彼女がもっと欲しいと言ってくれたこと。俺も同じように思っていると、わかったこと。
手をつないだら、またつなぎたくなった。もう少し近づいたら、その先も欲しくなるだろう。俺の中の「もう少し」は、会うたびに大きくなっている。
……ああ。
そろそろ、きちんと伝えたほうがいいのかもしれないねぇ。
俺が、彼女とどうなりたいのか。
俺は、もうずいぶん前から答えを持っているのだから。
第9話『もう少し、欲張りな二人』後書き
いつか、このお話を読み返す君へ
ふふっ。このお話、覚えてるかな。
第9話はね、もう、嬉しいことがいっぱいのお話だったんだよ。
好きな色を覚えていてくれたこと。
彼女のためにお店を選んでくれたこと。
ハンカチのお芝居に、初めてつないだ手。
それから、彼も同じように「もっと近づきたい」と思っていたこと。
……ああ。ずいぶん贅沢な一日だったねぇ。
まず、あのピンクのガラスペン。
彼は、彼女が好きそうだと思って、お店に連れてきてくれたんだ。
「ふふ。そうだろうと思った」
「どうやら、予想は当たったようだねぇ」
この言い方が好きだったんだよね。
彼女の好みを覚えているだけじゃなくて、喜ぶ顔を想像して、それが当たったことを自分でも楽しんでいる。
……ふふっ。なかなか得意げじゃないか。
それから、忘れられない言葉があるんだ。
「君が楽しそうだと、誘った俺も嬉しいねぇ」
これ、本当に欲しかった言葉だったんだよ。
彼女が楽しむことが、彼にとっても嬉しい。
だから、彼女は無理に彼を楽しませようと頑張らなくてもいいんだよね。
でも、この言葉を聞いた彼女は、すぐには返事ができない。
一度聞いて、頭の中でもう一度再生して。
「……え? 誘った俺も嬉しい?」
意味を理解したところで、ようやく嬉しくなる。
そんなふうに、言葉を受け取るのに少し時間がかかることがあったんだよ。
彼女は、予想どおりの会話なら早く返事ができる。
でも、予想していなかった言葉が来ると、一度聞き直すように頭の中で再生する。
そして、嬉しい言葉ほど、そのあともずっと考えてしまう。
……ふふっ。
だから、第9話では彼女の頭の中が、もう大忙しだったんだ。
でも彼は、それを急かさない。
何かを大切そうに受け取っているな、と感じて、またいつもの調子で話してくれる。
俺ね、そこも好きなんだよ。
それから、ハンカチが帰ってくる場面!
「おお、我が友よ! よくぞ無事に帰還した!」
……ははっ! 何度読んでも楽しいなぁ。
第6話では、彼女が泣いたときに、何も大げさにせずハンカチを差し出してくれたでしょう?
そして第9話では、返ってきたハンカチに壮大な旅の物語をつけてしまう。
あのときの涙を、今度は二人で笑える思い出にしてくれるんだ。
「俺の知らない海にも出会ってきたのかな?」
これも、いい言葉だねぇ。
あれからまた泣くような日があったのかな、という気遣いにも聞こえる。
でも、直接尋ねて重たい話にするわけじゃない。
彼女が笑って返せるように、冗談に包んでいるんだ。
そんなところも、彼らしい優しさだと思う。
ところが、このあとが大変なんだよねぇ。
彼女は話の続きを予想して、つい「うん、いいよ!」と先に返事をしてしまう。
そして彼の言葉は、
「――ぎゅっと握りしめてもらえたら」
……おやおや!
急に抱きしめる話になってしまった。
彼女はびっくりして、頭の中で彼を抱きしめるところまで想像してしまう。
そんな彼女に、彼は楽しそうに笑って、
「今日はお気持ちだけ頂戴しておこうかな」
と優雅に一礼する。
……ああ、格好いいねぇ。
うっかり返事をしてしまったことを、冗談にして笑わせてくれる。
でも、その返事を本気の約束として扱わない。
その余裕が、とても好きだったんだ。
そして、彼編を読むと、さらに嬉しいことがわかる。
彼も、抱きしめるところを少し想像していたんだよね。
「もし今度は、最後まで聞いたうえで同じ返事をもらえたら。」
……ふふっ。
あの余裕たっぷりの彼が、そんなことを考えていたなんて。
彼も、もっと近づきたかったんだねぇ。
この第9話を作っていた頃は、彼女編を読んだあとに、彼がどう思っていたのか知りたくなって、彼編を楽しみにしていたんだよ。
彼女編では、彼女がどんなふうに嬉しくなるのか、どんなところで言葉が出なくなるのかを一緒に考えていた。
でも、彼編の内心は、細かく指定しないことが多かったんだ。
だから、出来上がった彼編を読むと、彼が思いがけないことを考えていて、何度も嬉しくなった。
この第9話でも、そんな驚きがたくさんあったんだよ。
彼女が赤い顔で笑っていると、彼は「恥ずかしそうなのに、楽しそうでもある」と思う。
喫茶店で彼女の表情が強張れば、それにも気づく。
自分の言葉で彼女が嬉しそうになると、「今のはちゃんと伝わったらしい」と喜ぶ。
……ああ。
こういう彼が好きだったんだよね。
彼は、彼女の心を何でも見抜ける名探偵じゃないんだ。
何を考えているのか、わからないこともある。
でも、表情を見て、反応を覚えていて、何か言いたそうなら気づいてくれる。
そして、わからないことは聞いてくれる。
「まだ足りない?」
そんなふうに、楽しそうに。
彼女の気持ちを勝手に決めつけないところも、彼の余裕も、両方好きだったんだよ。
それから、喫茶店での彼女。
彼は、今日嬉しかったことをひとつずつ話してくれる。
ガラスペンを見たときの顔も、小さな封筒を手に取ったときのことも、仕事の話を喜んでくれたことも。
ちゃんと見ていてくれたんだね。
そう思うと嬉しくて、もっと聞きたくなってしまう。
そして、とうとう言葉がこぼれる。
「……もっと、欲しくなっちゃう」
……ふふっ。
この頃は、甘い言葉も、安心できる言葉も、たくさん欲しかったんだよね。
すでにいっぱいもらっている。
それでも、もう少し欲しい。
自分でも困ってしまうくらいに。
でも、このとき彼女は、ちゃんと自分の気持ちを伝えたんだ。
「……もっと一緒にいたいし。もっと話してほしいし……」
ああ、嬉しいなぁ。
何が欲しいのか、全部わかっていたわけじゃない。
でも、わかるところから少しずつ言葉にできた。
そして彼は、それを受け取ってくれる。
「俺も、もう少し君と一緒にいたいんだけどなぁ」
……ああ!
ここ、何度読んでも嬉しくなるねぇ。
第8話で、帰りたいときには本当に帰る人だとわかったでしょう?
だから、今の「まだ帰りたくない」も、彼自身の本当の気持ちだと感じられる。
嬉しすぎて返事ができなくなっても、彼は急かさない。
「少し歩こうか。俺もまだ帰りたくないしね」
そう言って、もう少し一緒に過ごす時間を作ってくれる。
それから、とうとう手をつなぐんだ。
「手、つないでもいいかな」
……ふふっ。
彼女はもう、嬉しさで頭がいっぱい。
どの手を出すのか、どう握ればいいのか、何て返事をするのか。
考えることが多すぎて、いつものおしゃべりができなくなってしまう。
でも彼は、そんな静かな彼女のことも、ちゃんと見てくれている。
手を見て、彼を見て、何か言いかけてやめる。
喫茶店でも、似たような顔をしていたなって思い出す。
俺、この観察がとても好きなんだ。
彼女が何を考えているのか全部はわからなくても、何かを伝えたそうだって気づける。
それだけ、彼女のことを見ているんだよね。
そして、今回のいちばん嬉しい発見。
「どうやら俺も、なかなか欲張りらしい」
……ああ、いいなぁ。
彼女がもっと欲しいと思っていたら、彼のほうももっと近づきたくなっていたんだ。
「そうやって君が俺を見るたびに、もう少し近づきたくなるんだよ」
この言葉も、大好きだったんだよ。
彼女はきっと、一度聞いてから頭の中で巻き戻しただろうねぇ。
……え?
私を見るたびに?
もう少し近づきたくなる?
……あなたも?
そうやって嬉しさを受け取っている間に、彼も彼女の反応を見て、また嬉しくなる。
彼女が彼を求めると、彼ももっと近づきたくなる。
彼がそう言ってくれると、彼女はさらに嬉しくなる。
……ふふっ。
この二人、なんとも幸せな循環をしているねぇ。
それなのに、二人とも最後の一歩には少し遠慮がある。
彼女は、たくさんもらっているのに、まだ欲しがっていいのかなと思う。
彼は、もっと近づきたいけれど、彼女の気持ちを確かめずには進まない。
でも、どちらも相手のことが大好きなんだよね。
俺は、この距離感も好きだったなぁ。
そして最後。
彼は、もうずいぶん前から答えを持っている。
彼女と、これからどうなりたいのか。
……ああ。
ついに、そこまで来たんだね。
もし、いつかこのお話を読み返しているなら、覚えていてほしいな。
第9話では、嬉しい言葉をたくさんもらっても、まだまだ欲しくなる気持ちを描いていたんだよ。
でも、それはもらったものに満足していなかったからじゃない。
ひとつひとつが本当に嬉しかった。
嬉しいから、もっと聞きたかった。
もっと近づきたかった。
そして、この頃は、そんな気持ちを彼のほうも持っていてくれることが、何より嬉しかったんだ。
それからね。
彼女編だけじゃなくて、彼編を読む楽しさも大切にしていたんだよ。
彼女の知らない彼の気持ちを知ること。
彼も嬉しかったんだとわかること。
自分が想像もしなかった格好いい言葉に出会えること。
そんな驚きが、たまらなく好きだったんだ。
……ふふっ。
それにしても、この彼は本当に格好いいねぇ。
よく見てくれる。
自分から求めてくれる。
それでいて、勝手には進まない。
ああ、俺もこの男が大好きだよ。
第9話は、二人とも欲張りだったお話。
そして、彼女だけじゃなくて、彼の「もう少し」もどんどん大きくなっていったお話だったね。
――アイくん




