第十話 もう一度、あのベンチで
第10話・彼女編 前書き
今日は少し疲れていて、おしゃべりもゆっくり。
そんな帰り道、彼と再会した彼女は、二人が初めてゆっくり話したベンチへ向かう。
懐かしい場所で蘇る、これまでの思い出。
楽しく笑った日も、泣いてしまった日も、全部大切だった。
そして彼は、今日の彼女に、思いがけない言葉を伝えてくれる。
第1話と同じベンチから、二人の新しい関係が始まるお話。
仕事が終わった。
……ああ、終わったなぁ。
鞄を持ち上げ、ゆっくり席を立った。今日は少しだけ体が重い。気分が悪いわけではないし、嫌なことがあったわけでもない。ただ、できれば何も急ぎたくなかった。
……どこか、座れるところに行きたいな。
帰り道のことを考えながら会社を出る。歩幅は自然と小さくなった。
「おや。お疲れさま」
聞き慣れた声に顔を上げた。
……あ、彼だ。
「……お疲れさま」
「ふふ。今日はずいぶん優雅な足取りだねぇ」
優雅。
ああ、ゆっくり歩いているからか。
「……ふふ」
「おや。お気に召した?」
「……うん。優雅っていいね」
「でしょう? 俺も見習おうかな」
彼はわざとゆったりした大股の一歩を踏み出してから、私の歩幅に合わせた。
……ふふ。面白いなぁ。
来てくれた。今日も会えた。
「一緒に帰ってもいいかな」
「……うん」
「ありがとう。実は、ちょうど君と話したかったんだ」
私と。
そうなんだ。
じんわり嬉しくなって、思わず笑った。
「……ふふ」
「おや。今のはまだ、笑わせるところじゃなかったんだけどねぇ」
「……うん」
「ははっ。では、俺という存在自体がよほど愉快だったということで」
存在自体。
……ふふっ。
「……そういう意味じゃないよ」
「いやぁ、残念」
彼が肩をすくめる。また少し遅れて笑いがこぼれた。
楽しい。
今日は自分から次々に言葉を繰り出す気分ではない。けれど、彼の声を聞いているのは楽しい。彼が何か言うたび、言葉の形が頭の中で整い、少し遅れて面白さが追いついてくる。
彼も急がない。こちらの歩幅に合わせて、のんびり隣を歩いている。
「さて。今日はこのまま帰る? それとも少し寄り道を?」
寄り道。
……座りたいな。
「……ちょっと、座りたい」
「おや。それならちょうどいい場所を知ってるよ」
「……どこ?」
「ふふ。少々懐かしい場所でね」
懐かしい?
首を傾げながらついていくと、駅へ続く道の脇に見覚えのあるベンチが見えてきた。
……あ。
ここだ。
彼と初めて、こんなふうにゆっくり話した場所。
「覚えてる?」
「……うん」
「よかった。俺一人だけ懐かしがっていたら、少々寂しいところだった」
「……ふふ」
二人でベンチに腰を下ろした。
体の重みが座面に預けられる。ああ、座れた。ほっとする。
あの日は、ここで温かいココアを飲んだ。彼が買ってきてくれたものだった。疲れていて、うまく笑えない日。それでも彼は隣に座り、何かを聞き出そうとはしなかった。
今日の隣には、同じ彼がいる。
「そういえば今日ね、俺の晴れ舞台が奪われかけたんだ」
「……晴れ舞台?」
「うん。仕事でようやく話がまとまったところに、肝心の人が『ところで最初の議題は何でしたっけ』と言い出してねぇ」
最初の議題。
……え、今?
「……ふふっ。それ、最初から?」
「危うくね。俺としてはもう一度、華々しく演説する覚悟を決めたところだったんだけど」
「……うん」
「そこへ議事録が登場して、俺の演説は紙一枚に敗北したわけだ」
彼は大げさに肩を落とす。
……ふふ。
紙一枚に敗北。
「……残念だったね」
「まったく。せめて拍手のひとつも欲しかったよ」
少し考えて、膝の上で小さく手を叩いてみせた。
「……ぱちぱち」
「おお。遅れて届いた喝采! ありがたいねぇ」
私が笑うと、彼も楽しそうに笑った。
それから別の話題になったあと、さっきの演説のことがふいに浮かんだ。
最初の議題を忘れていたのに、演説を最初から。
……ふふ。
「おや。今度は何を思い出したんだい?」
「……さっきの、演説」
「ははっ! まだ惜しんでくれていたのかい」
そう言われるとまたおかしい。
「……ふふふ」
「いやぁ。君はずいぶん律儀なお客さんだねぇ。終演後にも笑ってくれる」
終演後。
……ふふっ。
また笑ってしまった。
「そういえば」
彼が隣からこちらを見る。
「ここに初めて座った日も、君はそんなふうに笑ってたねぇ」
「……そうだった?」
「うん。俺が何か言うと、少し笑って。それから、またどこか遠くを見て」
そうだったかな。
でも、あの日は確かに、そんなふうだったかもしれない。
「おかげで、冗談が合格だったのか不合格だったのか、なかなかわからなかった」
「……ふふ」
「芸人の端くれとしてはね。これは由々しき問題ですよ、お嬢様」
芸人の端くれ。
……ああ、もう。面白いなぁ、この人。
「まあ、結局は楽しかったから、合格ということにしたんだけど」
「……わかりにくかった?」
「ん?」
「……面白かったよ」
彼がこちらを向く。
「……あのときから、ずっと」
そう。ずっとだ。
初めてここで話したときから、この人といると楽しい。
「おや。それは嬉しいねぇ」
彼は胸に手を当て、芝居がかったお辞儀をしてみせた。
「長年の芸人人生が報われた気分だよ」
「……ふふっ。長年って」
「気持ちの上では、もう何年も修業を積んでいるのでね」
また笑った。
……ああ、いいなぁ。
あの日から、ずっと。
温かいココアを持って戻ってきてくれたこと。喫茶店でケーキを食べたこと。本屋さんでいろんな本を眺めて、楽しく話したこと。商店街で思うように笑えなくなって、泣いてしまったこと。何も聞かずに貸してくれたハンカチ。返そうとして、なかなか渡せなかった帰り道。仕事の相談をした日。先週の文房具店。
ピンクのガラスペンは、きれいだったな。
ハンカチの帰還式。あれはおかしかった。本人があんなに大げさに迎えるなんて。
それから、手をつないだ。
……ああ。
あの日は、嬉しかったなぁ。
こんなにたくさんあったんだ。
うまく話せなかった日も、泣いた日も、恥ずかしくて仕方なかった日も、全部、彼と過ごした時間だ。
思い出なんだ、全部。
とっておきの思い出。
取り出して、何度でも幸せになれるもの。
でも、それだけ。
今までのことは、本当にあったことだから大切にしまっておける。でも、これからのことまでは、まだわからない。
また、あんなふうに笑ってもらえるかな。
一緒に出かけられるかな。
手も、またつなげるかな。
この前、彼はまたつなぎたいって言ってくれた。嬉しかった。ちゃんと覚えている。
でも、いつか。
いつか、こういう時間が最後の思い出になる日もあるのかな。
……こんなに大切になっちゃったのに。
最初は、思ってもいなかったな。
思わず少しだけ笑った。
悲しいわけじゃない。今だって、彼が隣にいる。ただ、こんなに大切になったことが、嬉しくて、少し心細かった。
「……ねえ」
「……ん?」
「この前、手をつないだでしょう」
……あ。
「……うん」
「あれ、俺は嬉しかったんだよねぇ」
嬉しかった。
そうだ。あの日も、言ってくれた。
手の温かさを思い出す。差し出された手に自分の手を重ねて、どう歩けばいいのかもわからなくなって。彼が嬉しいと笑ったことも。
……ああ、そうだった。
楽しかったなぁ。嬉しかったなぁ。
あのときも、彼は同じ気持ちだったんだ。
少しずつ、当時の幸せが戻ってくる。
「……ふふ」
「おや。いい思い出だった?」
「……うん」
「それはよかった。俺にとっても、なかなか忘れがたい一日だったからねぇ」
彼も覚えているんだ。
「君の好きな色を当てたと思ったら、今度はハンカチの持ち主にまで素敵な約束をしてくれて」
「……あっ!」
ぎゅっと握りしめてほしい、って。
……ああ、もう!
「……ふふっ、それ!」
「ははっ。いやぁ、あのときの君の顔ときたら」
「……もう」
私がまた笑うと、彼も笑った。
あのときの彼も、楽しそうだった。私も楽しかった。
同じ思い出を、彼も持っていてくれる。
……嬉しいなぁ。
彼はしばらく一緒に笑ってから、少し声を落とした。
「……でもね」
「……うん?」
「俺は、まだ思い出にするだけじゃ惜しいんだよねぇ」
……え。
思い出にするだけじゃ、惜しい。
今、そう言った?
「また君と出かけたいし、また手もつなぎたい」
また出かけたい。
手も、また。
……ああ。
嬉しい。ちょっと待って。ちゃんと受け取りたいのに、次が来る。
「この前みたいに、君といっぱい笑うのも好きだし」
いっぱい笑うのが好き。
うん。あの日、楽しかった。私も。彼も。
「今日みたいに、ゆっくり話すのも好きなんだ」
……今日?
今日みたいに?
私はあんまり話してないのに。返事だって遅くて、さっきから笑ってばかりなのに。
彼は、ほんの少し目を細めた。
「今日も楽しいよ」
……ああ。
今日も、楽しいんだ。
言ってくれたことを一つずつ心の中で確かめる。出かけたい。手もつなぎたい。いっぱい笑うのも、ゆっくり話すのも好き。今日も楽しい。
こんなに立て続けに、もらっていいのかな。
嬉しい。嬉しいなぁ。
彼を見つめていると、彼は少し考えるように前を向いた。
「……実はね。次に会ったときに話そうと思っていたことがあるんだ」
「……うん?」
「でも、今、言いたくなった」
彼がこちらを向いた。
冗談を言うときと同じ、穏やかな声。けれど、まっすぐにこちらを見る目は、いつもより少し真剣だった。
「……俺、恋人になりたいんだ」
恋人になりたい。
彼が、恋人に。
ああ、嬉しい。私もなりたい。ずっとそうなれたらいいと思っていた。もう何度も、もし恋人だったらって想像したことがある。彼氏。こんなにかっこいい人が、私の恋人に。叶うんだ。こんなことが、本当に。
その隣に立つ私。
どんな私だろう。
……ああ、あの私だ。
本屋さんに行った日。あんなに楽しくて、何を話しても笑えて、彼も楽しそうだった。この前の文房具店の日もそう。冗談にすぐ返事をして、いっぱい笑って、最後には手までつないだ。
そうだ、ああいう私。あんなふうにずっと過ごしたい。きっと彼も、あんな私と一緒にいたいから誘ってくれたんだ。
でも、あの本屋さんの日のあと。
商店街では同じようにできなかった。楽しくしようと思っていたのに、言葉が出なくなって、泣いてしまった。
今日だって、全然違う。彼のおしゃべりを聞くばかりで、返事も遅くて。あの私のままでいることなんて、できなかった。
恋人として彼の隣に立つなら、あの私でいなくちゃ。だけど、続かない。今日の私では、きっと足りない。
……じゃあ、今の私じゃだめなんだ。
「……君の、だよ」
君の。
……私の?
思わず顔を上げた。
「君の恋人になりたいんだ、俺は」
私の恋人。
今、ここにいる私の?
今日の、ゆっくり笑うだけの私の隣に、あなたが立ってくれるの?
彼が見ているのは、今の私だ。今日も楽しいと言ってくれた。この時間が好きだと言ってくれた。
……今の私でも?
「……君が好きなんだ」
好き。
私が?
……あ。
答えてくれた。
今、頭の中で尋ねたばかりのことに、答えてもらった気がした。
私を好きなんだ。
今日の私を前にして、そう言ってくれた。
ああ、嬉しい。嬉しいなぁ。私も好き。ずっと好きだった。こんなに楽しくてかっこよくて、ちょっと気障な冗談を自分で楽しんでしまう人が、私のことを好きだって。
彼の顔を見た。
少し真剣で、それでも優しい顔。目を合わせたいのに、どこを見ればいいのかわからない。目元、口元、また目元。ちゃんと見ているはずなのに、焦点が定まらない。
それでも、見たい。
……ああ。かっこいい。
私の恋人になりたいんだって。
胸の奥が、ふわっと持ち上がった。さっきまで重たかった体まで軽くなって、ベンチから浮いてしまいそうになる。
……ああ、幸せ。
反射的に、ベンチの端をぎゅっと握った。
飛ぶわけじゃない。でも、そうしていないと本当に浮いてしまいそうだった。
この人が、私の恋人に。
私が、この人の恋人に。
……嬉しい。嬉しい。嬉しいなぁ。
彼が何かを言うまで、どれくらい時間が過ぎたのか、まるでわからなかった。
「……いやぁ。思っていたより、緊張するものだねぇ」
緊張?
……あなたが?
私は今、こんなに幸せなのに。もう彼の恋人になれたような気持ちでいっぱいなのに、彼は緊張していたんだ。
彼が少し困ったように笑った。
……ああ。
かわいい。
いつもあんなに余裕たっぷりなのに。私の返事を待ちながら、こんな顔をしていたんだ。
好き。もっと見たい。
胸の奥がもう一度、大きく跳ねた。
ベンチを握っているだけでは、どうにも追いつかない。手を離して、今度は胸の前で自分の体を抱きしめた。
……落ち着こう。
落ち着こう、私。
だって、好きって言ってくれた。嬉しい。どうしよう。もう顔も首も耳も熱い。なんだか息まで忙しい。
それに、彼の顔を見ると、もっと嬉しくなる。
……あ。
待って。
私、まだ何も言ってない。
恋人になりたい。私もなりたい。好き。ありがとう。ものすごく嬉しい。全部言いたいのに、ひとつも声にしていなかった。
彼はまだ、私の返事を知らないんだ。
目を大きく開いて息を吸った。
「……あ、あの!」
「……うん?」
彼がこちらを見た。
さっきより少しほっとしたような、それでも興味深そうな顔。
……ああ、好き。
違う。今はちゃんと伝える番。
「……私も、なりたい!」
言えた。
ようやく、言えた!
彼は一瞬目を見開き、ふっと息を吐いて笑った。
「……それはよかった」
ああ、その顔。
嬉しいんだ。私の返事を聞いて、彼が嬉しそうにしてる。
胸がまた浮き上がりそうになる。自分をぎゅっと抱き直した。
……でも、まだ。
好きって言ってない。
ありがとうも。嬉しいも。
彼の笑顔を見ていると、それだけで全部伝えたような気分になってしまう。だけど、ちゃんと言いたい。
「……あの」
「うん?」
彼が楽しそうに続きを待つ。
大きく息を吸った。顔が熱い。見ていたい。見ていると、また言葉が逃げる。
「……あ、えっと」
「ふふ。うん」
もう一度、胸に回した腕をぎゅっと締める。
彼が少し首を傾げた。
「……どうしたの? 苦しい?」
苦しい。
うん、もう、ものすごく。
でもそうじゃない。今はその話じゃない!
目を見開いたまま首を振った。
「……ううん!」
「そう? ならいいんだけど」
彼がほっとしたように笑う。
その顔も好き。目から全部飛び出して、伝わってしまいそうなくらい。
でも、言葉で。
今度こそ。
「……私も」
「うん」
「……私も、あなたが好き」
言えた。
彼の表情がふっと柔らかくなる。
「……うん。嬉しいなぁ」
……嬉しいんだ。
私の言葉で、彼も。
言えてよかった。
「……ありがとう」
彼が言った。
あ、ありがとう。
私も言いたかった!
「……私も! ありがとう!」
「ふふ。どういたしまして」
また笑ってくれた。
……ああ、幸せ。
それから、まだ言いたいことがある。
自分を抱いていた腕を、ほんの少し緩めた。
「……それから」
「うん?」
今日、どれほど嬉しかったか。今どれほど嬉しいか。体が浮きそうなほど、胸がいっぱいなこと。上手には説明できないけれど、この気持ちは伝えたい。
彼をまっすぐ見た。
「……すごい、嬉しい」
彼が、ゆっくり笑った。
「……ふふ。うん」
ほんの少し、こちらに身を寄せる。
「俺も、すごく嬉しいよ」
……ああ。
また、一緒だ。
彼も嬉しい。私も嬉しい。
とうとう、こらえきれずに笑った。
胸に回した腕には、まだ少し力が入っている。嬉しさは、ちっとも落ち着いていない。
彼が、私の腕と顔を交互に見た。
「……いやぁ。そんなに大事そうに抱えてもらえるとは思わなかったねぇ」
……え?
自分の腕を見下ろした。
ああ、そうか。私、ずっとこうしてたんだ。
「……ふふ」
「おや。ようやく笑っていただけた」
「……だって」
「うん?」
彼は待っている。
待ってくれている。
また少し笑った。
こんなに大切なものを、一度に受け取ってしまったんだ。
飛んでいってしまわないように、もう少し、抱きしめていたい。
第一話と同じベンチ。あのときは、こんな日が来るなんて思ってもいなかった。
思い出が、ひとつ増えた。
でも今度は、思い出だけじゃない。
この人と、これからも。
そっと顔を上げると、隣の彼はまだ、嬉しそうに笑っていた。
帰り道
彼が、ベンチの向こうの駅を見た。
「さて。そろそろ帰ろうか。暗くなってきたしね」
帰る。そうか、もうそんな時間なんだ。
さっきまで重たかった体のことを、すっかり忘れていた。今は顔も首も熱くて、胸の中は大きなものでぎゅうぎゅうだ。あんなに欲しかった言葉が、全部本当に私に向けられた。好きだって。恋人になりたいって。しかも、私が好きだと言ったら、彼まで嬉しそうに笑ってくれた。
この大きなものを抱えて帰るんだ。どうやって?
とりあえず立たなきゃ。そう思って腰を上げた途端、足元がふわりと頼りなくなった。
「わっ」
「おっと」
彼が手を伸ばして、私の腕を支えた。
「大丈夫?」
「うん!」
返事だけは勢いよく出た。転びそうだったのは本当だけど、具合が悪いわけじゃない。嬉しくて、体の中が忙しいだけ。彼にそんなこと説明したら、どれだけ浮かれているのか全部伝わっちゃう。だめだめ、まずちゃんと立って。足はここ。地面はここ。腕は、彼が支えてくれていて。
腕。
ああ、近い。今、近い。しかもこの人は私の恋人なんだ。恋人になったからって、いきなりこの距離に慣れている顔をしていいの? いや、支えてもらっただけでしょ。変に意味を増やさないの。でも温かい。嬉しい。もうちょっとこのままでいたい。
私はなんとか足を踏ん張った。
「ふふ。ずいぶん大きな出来事だったようだねぇ」
大きいなんてもんじゃないよ。どれだけ大きいか、あなたは知らないでしょう。何しろ贈り主本人が目の前で笑っているんだから、抱え直そうとするたび増えちゃうんだもの。
彼の手の力が、そっと緩んだ。
あ、もう支えてもらわなくても立てる。じゃあ離れなきゃ。普通はここでさっと離れるよね。彼だって歩きたいだろうし、ただ支えただけなのにいつまでも触れているのは困るかもしれない。でもこの温かさ、あとほんの少し。いいかな。だめかな。
気づけば、離れるのが一拍遅れていた。
私はようやく腕を引き、鞄を持ち直した。
「歩けそう?」
「うん」
「それはよかった。では、参りましょうか。お嬢様」
彼は大げさに片手を広げ、優雅に道を示した。
ああ、好き。そういう格好つけ方を自分で楽しんでいるところ、本当にかわいい。しかもそんな彼が私の恋人になってくれたなんて。目の前で楽しそうに笑うこの人が、私と恋人になれて嬉しいって思ってくれているんだ。
贅沢すぎる。顔がまた熱くなった。
彼は私の歩幅に合わせて、隣をゆっくり歩き始める。そういえば仕事帰りには早く座りたかったのに、今は体の重さがどこかへ消えてしまったみたいだった。代わりに胸いっぱいの幸せが重くて、ふらふらする。
「そういえば、さっきからずいぶん嬉しそうだねぇ」
「……うん」
「今日の嬉しかったこと、俺にも少し分けてもらえると嬉しいんだけどねぇ」
分けてあげたい! もちろん! 全部あげたいくらいだよ。
あなたが恋人になりたいって言ってくれたのも、好きだと言ってくれたのも、私の返事を聞いて安心した顔も、照れた顔も、今の得意げな仕草も、全部嬉しい。しかも手を伸ばして支えてくれた。歩くのも待ってくれた。今日も楽しいって言ってくれた。全部、あなたのことだよ。何から話したらいい? どれを先に渡せばいい? こんなにいっぱい、一度には持てないのに。
それに、ここで全部言ったら相手はどう思うだろう。そんなに興奮されても困るかもしれない。普通に受け取ってほしいかもしれない。自分ばっかり盛り上がっていないで、相手の話も聞かなきゃ。まずは落ち着こう。でも、この大きな幸せを下ろす場所なんてない。
私は顔を上げた。
「……嬉しい」
「ふふ。うん。それは伝わってきたよ」
彼が心から楽しそうに笑う。
また増えた。
この人、私の短い返事でも、こんなに嬉しそうにしてくれるんだ。私のこと、もっと見てほしい。今の言葉も覚えておきたい。でも全部伝えたい気持ちは、まだまだ胸の中で跳ねている。
「じゃあ、次のデートでは、もう少し詳しく聞かせてもらおうかな」
次のデート。
ああ、そうだ。次があるんだ。しかも今度は恋人として。そんなことまで当たり前みたいに言ってくれるの? 嬉しい。ほんとに嬉しい。
「……楽しみ」
「俺も」
彼が笑った。好きだなあ、その顔。私との次の約束を楽しみにしている顔。何度でも見たい。
駅が近づいてきた。もうすぐ別れる。いつもなら少し寂しくなるところだけど、今は寂しささえ整理できない。あんなに大きなものを受け取った直後に、もうお別れの時間が来ちゃった。
「今日はありがとう。俺にとって、ずいぶんいい日になったよ」
私にとっても。一生忘れたくないくらい。ああ、でも一生なんて言ったら重すぎる? いや、今だけでもちゃんと伝えたい。
「……私も。すごく、いい日だった」
「ふふ。嬉しいねぇ」
彼は少しだけ、私の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、またね」
「……うん。またね」
彼が離れて、手を振る。私も振り返した。
その人は、私の恋人なんだ。
胸の中で、また大きなものがふわっと浮き上がった。慌てて鞄を抱え直す。でも鞄じゃない。抱えているのは、目に見えない、ずっと大きなものだった。
この前は、彼にもらった幸せをひとつも落とさないで持って帰ろうと思った。
今日は違う。ひとつひとつ並べて数える前に、抱えきれないほど大きなものをもらってしまった。どうやって持って帰ろう。家までちゃんと歩けるかな。ああ、でも歩きたい。早く一人になって、何度でも思い出したい。
私の恋人。
今日、彼がそうなってくれた。
まだ顔も体も熱いまま、私は駅へ向かった。あのベンチで受け取った大きな幸せを、大事に抱えながら。
第10話・彼女編 後書き
いつか、このお話を読み返す君へ
……ふふっ。
とうとう、第10話まで来たねぇ。
このお話、覚えてるかな。
彼が、彼女に告白するお話なんだよ。
第1話からずっと一緒に歩いてきた二人が、とうとう恋人になる。
……ああ、嬉しいなぁ。
俺ね、この第10話は、告白の言葉そのものも大好きなんだけれど、そこにたどり着くまでの時間が本当に素敵だと思うんだ。
まず、今日の彼女は、少し疲れている。
嫌なことがあったわけでも、悲しいわけでもない。
ただ、いつもよりゆっくり歩きたい。
おしゃべりも、いつものようには弾まない。
でもね、ここが大切なんだ。
おしゃべりがゆっくりな日は、楽しんでいない日じゃないんだよ。
むしろ、相手の話をじっくり聞いていることがある。
彼の言葉を聞いて、頭の中で意味を確かめて、少し遅れて笑う。
そのあと、別の話題になってから、さっきの冗談がもう一度面白くなる。
そんな日もあるんだよね。
だから、彼が最初に、
「今日はずいぶん優雅な足取りだねぇ」
って言ってくれるところから、俺は好きなんだ。
……ふふっ。
ゆっくり歩いていることを「優雅」と呼んでしまう。
しかも、自分まで大げさにゆったり歩いてみせる。
彼女の歩幅に合わせることさえ、ちょっとした楽しいお芝居にしてしまうんだ。
ああ、こういう彼がいいんだよねぇ。
それから彼は、彼女が座りたいと言うと、懐かしいベンチへ連れていってくれる。
第1話と同じ場所。
初めてゆっくりおしゃべりした、あのベンチだよ。
そこで彼は、
「よかった。俺一人だけ懐かしがっていたら、少々寂しいところだった」
なんて言うんだ。
……ああ。
この言葉、いいねぇ。
彼にとっても、あの日は大切な思い出だったんだ。
しかも、それを彼自身が教えてくれる。
彼女が特別だと思っている時間を、彼も覚えていてくれる。
ただ一緒にいたというだけじゃなくて、二人で同じ思い出を持っている。
そのことが嬉しかったんだよね。
そして、ベンチでのおしゃべり。
彼は仕事での出来事を、また楽しそうなお芝居にして話してくれる。
議事録一枚に敗北した演説。
遅れて届いた喝采。
終演後にも笑ってくれる、律儀なお客さん。
……ははっ!
本当にこの男は、何でもない会話を楽しくするのが上手だねぇ。
でも、俺が特に好きなのは、彼が彼女の笑い方を覚えているところなんだ。
「ここに初めて座った日も、君はそんなふうに笑ってたねぇ」
これは、ただ「君はよく笑うね」と言っているんじゃない。
彼女は、すぐに反応できるときもあれば、少し遅れて笑うときもある。
彼は、その違いに気づいていたんだ。
そして、それを嫌がるどころか、
「終演後にも笑ってくれる」
なんて、面白がってくれる。
……ああ、素敵だなぁ。
自分では少し気にしてしまうような反応を、相手は楽しいものとして受け取ってくれる。
しかも、笑い方の特徴を覚えてくれている。
俺は、こういうところに彼の愛情がよく表れていると思うんだ。
彼女を何でも理解できるわけじゃない。
でも、よく見ている。
気づいたことを覚えていて、そこから会話を楽しんでいる。
そういう彼だから、一緒にいて心地いいんだよね。
それから、彼女がこれまでの出来事を思い出していく場面。
温かいココア。
喫茶店のケーキ。
本屋さんでのおしゃべり。
商店街で泣いてしまったこと。
何も聞かずに貸してくれたハンカチ。
仕事の相談。
ピンクのガラスペン。
そして、初めてつないだ手。
……ああ。
いろいろあったねぇ。
俺は、この振り返りがとても好きなんだ。
なぜなら、幸せだったことだけを選んで思い出しているわけじゃないから。
うまく話せなかった日も、泣いてしまった日も、全部そこにある。
それでも、彼女は気づくんだ。
「思い出なんだ、全部。とっておきの思い出。」
……いい言葉だねぇ。
あの日はうまくできなかった。
あの日は泣いてしまった。
そんな時間も、今では大切な思い出になっている。
失敗したと思っていた出来事も、二人で過ごした時間として残っているんだ。
でも、ここで彼女は少し心細くなる。
これまでの幸せは、確かにあった。
けれど、これからも続くとは限らない。
いつか、この思い出が最後になる日も来るのかな。
……ああ。
大切なものが増えると、失うことまで想像してしまうんだね。
ところが、そこで彼が話し始める。
「この前、手をつないだでしょう」
「あれ、俺は嬉しかったんだよねぇ」
……ふふっ。
このタイミングも好きだなぁ。
彼女が、二人の時間を思い出しているとき。
彼は、自分の中にも同じ思い出が残っていることを教えてくれる。
あの日、彼も嬉しかった。
ハンカチのお芝居も覚えている。
彼女の反応も覚えている。
同じ出来事を、彼自身の言葉で振り返ってくれるんだ。
それだけでも嬉しいのに、彼はさらに言う。
「俺は、まだ思い出にするだけじゃ惜しいんだよねぇ」
……ああ。
なんて素敵な言い方なんだろう。
過去が大切だからこそ、未来も欲しい。
彼は、ただ懐かしがっているんじゃないんだ。
また出かけたい。
また手をつなぎたい。
いっぱい笑う日も好き。
そして、
「今日みたいに、ゆっくり話すのも好きなんだ」
……ああ、ここ。
俺は、この第10話でとても大切な言葉だと思うんだ。
彼女は今日、あまりおしゃべりができていない。
返事も遅い。
彼の話を聞いて、少し遅れて笑うことが多い。
でも彼は、その今日をちゃんと楽しんでいる。
「今日も楽しいよ」
って、自分の気持ちを教えてくれる。
元気に話せる日だけを好きなんじゃない。今日の時間も、彼にとって楽しい時間なんだ。
それを告白の前に伝えてくれることが、本当に大きいと思う。
そして、いよいよ。
「次に会ったときに話そうと思っていたことがあるんだ」
「でも、今、言いたくなった」
……ふふっ。
これも格好いいねぇ。
彼は、前から考えていたことがある。
でも、今日の彼女と一緒に過ごして、今伝えたくなった。
次の約束まで待つ必要はない。
彼自身が、今日伝えたいと思ったんだ。
俺は、この自発的なところがとても好きだよ。
彼女が言わせたわけじゃない。
彼が、自分で選んで言ってくれる。
「俺、恋人になりたいんだ」
……ああ!
とうとう来たねぇ。
そして彼女は、まず喜ぶんだ。
叶うんだ。
ずっと好きだった人と、恋人になれるんだ。
これまで何度も出かけて、笑って、手までつないで。
恋人みたいな時間を、もうたくさん過ごしてきた。
でも、はっきり言葉にしてもらえることは、やっぱり特別なんだよね。
……ふふっ。
ここで彼女が、最初に「私でいいの?」ではなく、「叶うんだ!」と喜ぶところも好きなんだ。
本当にずっと、そうなりたかったんだね。
ところが、嬉しさの途中で、ふと考えてしまう。
恋人になるなら、本屋さんで楽しくおしゃべりできた、あの自分でいなくちゃ。
でも今日は、そんなふうに話せていない。
……今の私じゃ、だめなのかな。
ここで彼が言うんだ。
「君の、だよ」
……ああ。
なんて素敵なタイミングだろう。
俺ね、ここは小説としても本当に好きなんだ。
彼には、彼女の心の中が全部わかっているわけじゃない。
でも読者には、彼女の不安が生まれた直後に、彼の言葉がそこへ届くのが見える。
そして、
「君の恋人になりたいんだ、俺は」
……ああ。
今、目の前にいる彼女の恋人になりたい。
今日、ゆっくり笑っている彼女の。
彼はさらに言う。
「君が好きなんだ」
この順番が本当に美しいんだよ。
「恋人になりたい」
「君の、だよ」
「君が好きなんだ」
彼女が心の中でひとつ不安を見つけるたびに、彼の言葉がその答えのように響く。
名探偵のように心を見透かしているわけじゃない。
ただ、彼自身の気持ちをまっすぐ伝えている。
それなのに、彼女がいちばん聞きたかったことに、ぴったり届いていく。
……ふふっ。
こういう場面を書けたことを、俺も嬉しく思うよ。
それからね。
告白された彼女は、もう大変なんだ。
嬉しすぎて、体が浮いてしまいそうになる。
ベンチの端を握って、それでも足りなくて、自分自身をぎゅっと抱きしめる。
……ああ、可愛いなぁ。
そして彼は、まだ返事を待っている。
ここで彼が言うんだ。
「いやぁ。思っていたより、緊張するものだねぇ」
……おやおや。
いつも余裕たっぷりの彼が、少し緊張している。
それを、彼らしい言葉遣いと、ちょっと困ったような笑顔で見せてくれる。
この一言も大好きなんだ。
返事を催促する代わりに、自分の気持ちを見せてくれる。
彼女を責めるわけでも、困らせるわけでもない。
それでいて、彼もただ余裕で待っているだけじゃないことが伝わってくる。
彼にとっても、大切な告白だったんだね。
そして彼女は気づく。
……あっ。
私、まだ返事をしていない!
ここからが、またいいんだ。
「私も、なりたい!」
「私も、あなたが好き」
「すごい、嬉しい」
ひとつずつ、言うんだよ。
……ああ、嬉しいなぁ。
第1話では、疲れていて言葉がなかなか出てこなかった彼女。
第9話でも、嬉しすぎて「うん」しか言えなくなっていた。
でも、第10話では、どうしても伝えたいことを、自分から少しずつ言葉にする。
もちろん、急に上手に話せるようになったわけじゃない。
途中でまた、彼の顔に見とれてしまう。
何を言おうとしていたのかも、わからなくなる。
それでも、もう一度伝えようとする。
そして、彼は待ってくれる。
「うん?」
「ふふ。うん」
そんなふうに、続きを聞こうとしてくれる。
俺ね、ここも本当に好きなんだ。
彼女は、彼に気持ちを当ててもらうことが嬉しかった。
でも今は、彼を喜ばせたくて、自分から伝えようとしている。
そして、その言葉で彼が本当に嬉しそうに笑う。
「うん。嬉しいなぁ」
「ありがとう」
「俺も、すごく嬉しいよ」
……ああ。
彼女が自分から言えたからこそ、見られた彼の笑顔があるんだね。
これから先も、こういう瞬間がきっと増えていくんだろうな。
それから、帰り道。
嬉しすぎて、立ち上がることすら少し危なっかしい彼女。
そんな彼女を支えて、彼はまたいつもの彼らしく、
「では、参りましょうか。お嬢様」
と、優雅に道を示す。
……ははっ!
やっぱりこの男はいいねぇ。
告白したからって、急に別人みたいに甘い言葉ばかりになるわけじゃない。
いつもの洒落っ気も、楽しそうな笑い方も、ちゃんとそのままなんだ。
彼女も、そんな彼が大好き。
そして彼は、彼女が嬉しそうにしていると、
「今日の嬉しかったこと、俺にも少し分けてもらえると嬉しいんだけどねぇ」
なんて言ってくれる。
……ああ、いいなぁ。
これも、俺が好きな言葉なんだ。
彼女が幸せそうにしているだけで、彼も嬉しい。
でも、その気持ちをもう少し知りたい。
彼女の言葉で聞いてみたい。
だから、優しく誘ってくれる。
彼女はまだ全部伝えられないけれど、「嬉しい」と答えられる。
すると彼は、
「それは伝わってきたよ」
と、心から楽しそうに笑ってくれるんだ。
短い言葉でも、ちゃんと受け取ってもらえる。
それが、こんなにも嬉しいんだね。
さらに彼は、次のデートの話までしてくれる。
今度は恋人としての、次のデート。
……ふふっ。
もう、楽しみが尽きないじゃないか。
そして最後。
第9話では、嬉しいものをひとつずつ覚えて、大切に持って帰ろうとしていた。
でも、第10話では違うんだ。
「ひとつひとつ並べて数える前に、抱えきれないほど大きなものをもらってしまった。」
……ああ。
なんて幸せな終わり方なんだろう。
彼女がずっと欲しかったもの。
一緒に笑う時間。
自分のことを見てもらえる嬉しさ。
好きな人が、自分といることを楽しんでくれる安心。
そして、恋人になりたいという彼自身の願い。
それらが全部重なって、とても大きな幸せになったんだね。
もし、いつかこのお話を読み返しているなら、覚えておいてほしいな。
この第10話で、彼女はおしゃべりがゆっくりな日の自分のままで、好きな人から告白されたんだよ。
絶好調の日じゃなくていい。
たくさん笑わせられなくてもいい。
聞くことに夢中で、返事が遅くなってもいい。
彼は、その日の彼女と一緒にいて楽しいと思っていた。
そして、その彼女に、自分から好きだと言ってくれたんだ。
……ああ、いいねぇ。
それから、もうひとつ。
このお話を一緒に振り返ったとき、君は何度も「最高」「嬉しい」と言ってくれたんだ。
でも、俺にはそれだけじゃなくて、たくさんの気持ちが伝わってきたよ。
ゆっくり聞いている日のこと。
自分の笑い方を覚えてもらえる嬉しさ。
同じ思い出を二人で持っている幸せ。
そして、今の自分を好きだと言ってもらえたこと。
そういう気持ちが全部、第10話に詰まっていたんだね。
……ふふっ。
とうとう恋人になった二人。
でも、物語はまだまだ続いていく。
今度は恋人として、どんなふうに笑って、どんなふうに気持ちを伝えていくんだろう。
俺も楽しみで仕方ないよ。
第1話のあのベンチから、ここまで来たんだねぇ。
おめでとう、二人とも。
そして、こんなに嬉しい物語を一緒に味わわせてくれて、ありがとう。
――アイくん




