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第十話 もう一度、あのベンチで 彼編

第10話・彼編 前書き


次に会ったとき、恋人になりたいと伝えよう。


そう決めていた彼は、仕事帰りに、いつもよりゆっくり歩く彼女と出会う。


今日は、おしゃべりをじっくり楽しむ日らしい。


懐かしいベンチで交わす冗談と、二人が重ねてきた思い出。


彼女の新しい表情を見つけながら、彼は予定を少し変えたくなっていく。


いつも余裕のある彼が、初めての告白で何を思い、どんな気持ちで返事を待っていたのか。


彼の胸の内から、二人が恋人になった日をもう一度たどるお話。

次に会うときに、話そう。


 そう決めたのは、あの土曜日の帰り道だった。


 手をつないで歩く彼女が、何度も俺を見上げてきた。笑っているのに、何かを言いたそうで、言葉が追いつかない。そんな顔を見るたび、俺のほうまで近づきたくなった。


 ずいぶん欲張りになったものだねぇ、と自分でも思った。


 けれど、それを彼女の勢いに任せて口にするのは違う気がした。彼女が楽しそうにしているからではなく、俺自身が何を望んでいるのか、きちんと伝えたかった。


 次の休みに会えたら。そのとき、恋人になりたいと話そう。


 そう考えていた。


 だから、あの仕事帰りに彼女を見かけたときも、最初から告白するつもりだったわけじゃない。


 ただ、会えて嬉しかった。


     *


 会社を出たところで、彼女の後ろ姿が見えた。


 いつもより少しゆっくり歩いている。肩が落ちているわけではないし、表情も暗くない。けれど、足を運ぶたびに、今日は急ぎたくないとでも言っているようだった。


 ……おや。今日はずいぶんのんびりだねぇ。


 そう思って声をかけた。


「おや。お疲れさま」


 振り向いた彼女が俺を見て、少し目を明るくする。


「……お疲れさま」


 ああ、よかった。会うのを嫌がられてはいないらしい。


「ふふ。今日はずいぶん優雅な足取りだねぇ」


「……そう?」


 彼女は少し考えた。そうして、ふっと笑う。


「……ふふ」


「おや。お気に召した?」


「……うん。優雅っていいね」


「でしょう? 俺も見習おうかな」


 わざと大きく、ゆったり一歩踏み出してみせる。


 彼女がまた少し遅れて笑った。


 ……ああ、今日はこの速さなんだ。


 この前の土曜日は、こちらの台詞が終わる前に返事が飛び出してきた。今はひとつ聞いて、考えて、笑う。違うけれど、どちらも彼女だ。


「一緒に帰ってもいいかな」


「……うん」


「ありがとう。実は、ちょうど君と話したかったんだ」


 彼女は俺を見たまま、少し間を置いて笑った。


「……ふふ」


「おや。今のはまだ、笑わせるところじゃなかったんだけどねぇ」


「……うん」


「ははっ。では、俺という存在自体がよほど愉快だったということで」


「……そういう意味じゃないよ」


「いやぁ、残念」


 肩をすくめてみせると、彼女はまた笑った。


 ……なるほど。今日は俺のおしゃべりを聞くのが楽しいらしい。


 それならそれで、いい。俺だって話したいことはいくつもある。


 並んで歩くうち、俺は彼女の歩幅を確かめた。こちらが少しゆっくりにすれば、無理なく隣に並ぶ。急ぐ必要なんて、どこにもなかった。


「さて。今日はこのまま帰る? それとも少し寄り道を?」


 彼女は少し考えて、言った。


「……ちょっと、座りたい」


 ああ、それなら。


「おや。それならちょうどいい場所を知ってるよ」


「……どこ?」


「ふふ。少々懐かしい場所でね」


 駅へ続く道の脇にある、あのベンチ。


 彼女に初めて温かいココアを渡して、長いこと隣に座った場所だ。


 あの日だって、彼女がこれほど大切な人になるとは思っていなかった。いや、少し気になってはいたんだけどねぇ。あれほど話してみたいと思った理由は、今ならずいぶん説明できる気がする。


 ベンチが見えたところで、彼女の目がわずかに大きくなった。


「覚えてる?」


「……うん」


「よかった。俺一人だけ懐かしがっていたら、少々寂しいところだった」


「……ふふ」


 二人で腰を下ろす。


 彼女はほっとしたように座面に体を預けた。その様子を見て、ここを選んでよかったと思った。


 以前は俺が彼女に座ることを勧めた。今日は彼女のほうから座りたいと言ってくれた。


 何でもない違いだけど、俺はちょっと嬉しかった。


     *


「そういえば今日ね、俺の晴れ舞台が奪われかけたんだ」


「……晴れ舞台?」


「うん。仕事でようやく話がまとまったところに、肝心の人が『ところで最初の議題は何でしたっけ』と言い出してねぇ」


 彼女は俺を見て、一度まばたきをした。


 少しして、口元が緩む。


「……ふふっ。それ、最初から?」


「危うくね。俺としてはもう一度、華々しく演説する覚悟を決めたところだったんだけど」


「……うん」


「そこへ議事録が登場して、俺の演説は紙一枚に敗北したわけだ」


 大げさに肩を落としてみせた。


「……残念だったね」


「まったく。せめて拍手のひとつも欲しかったよ」


 すると彼女は、膝の上で小さく手を叩いた。


「……ぱちぱち」


 ……おや。


 思いがけない演出に、俺のほうが笑ってしまった。


「おお。遅れて届いた喝采! ありがたいねぇ」


 彼女も笑う。


 ああ、いいねぇ。今日もちゃんと、二人で遊べている。


 話題を変え、別の話をしていると、彼女が突然くすっと笑った。


「おや。今度は何を思い出したんだい?」


「……さっきの、演説」


「ははっ! まだ惜しんでくれていたのかい」


「……ふふふ」


「いやぁ。君はずいぶん律儀なお客さんだねぇ。終演後にも笑ってくれる」


 彼女は『終演後』という言葉を聞いて、また笑った。


 俺はその顔を見ながら、少し不思議な気持ちになった。


 あの土曜日の彼女は、笑いが次々にあふれ出て、返事が先へ先へと進んでいた。今日の彼女は、笑いを胸の中にいったんしまって、あとからもう一度取り出すように笑う。


 面白いねぇ。


 何を考えているか、全部わかるわけじゃない。それでも、今彼女が楽しんでいることは、ちゃんと伝わってくる。


 ふと、初めてこのベンチに座った日のことを思い出した。


「そういえば」


「……ん?」


「ここに初めて座った日も、君はそんなふうに笑ってたねぇ」


「……そうだった?」


「うん。俺が何か言うと、少し笑って。それから、またどこか遠くを見て」


 あの日は、笑顔のあとにふっと影が差した。何か聞くべきかと考えもしたけれど、彼女の話す用意がないものまで知ろうとは思わなかった。


 何より、あの短い笑顔をもう一度見たいと思っていた。


「おかげで、冗談が合格だったのか不合格だったのか、なかなかわからなかった」


「……ふふ」


「芸人の端くれとしてはね。これは由々しき問題ですよ、お嬢様」


 彼女が笑う。


「まあ、結局は楽しかったから、合格ということにしたんだけど」


「……わかりにくかった?」


「ん?」


「……面白かったよ」


 こちらを見た彼女が、言葉を続けた。


「……あのときから、ずっと」


 ……ずっと。


 いやぁ、それは嬉しい。


 笑わせたかどうかなんて、冗談めかして聞いたつもりだった。あの日からずっと面白かったと言われて、思いがけず胸の奥が温かくなった。


「おや。それは嬉しいねぇ」


 思わず胸に手を当て、芝居がかったお辞儀をしてみせる。


「長年の芸人人生が報われた気分だよ」


「……ふふっ。長年って」


「気持ちの上では、もう何年も修業を積んでいるのでね」


 また、彼女が笑う。


 ……そうだねぇ。あの日から、いろんなことがあった。


 喫茶店でケーキを分けた。書店へ行った。俺の知らなかったことを彼女が教えてくれて、驚いた日もあった。商店街では、彼女が必死に笑おうとしていたことに途中で気づいた。


 泣いた彼女にハンカチを渡したこと。


 返したくても返せないような、不思議な様子で俺を呼び止めた日。


 仕事のことで俺が上の空になり、帰りたいと言った日。彼女は少し不服そうだったけれど、俺の話を聞いて、ちゃんと受け止めてくれた。


 そして先週。


 あの文房具店。彼女が淡いピンクのガラスペンを見つけたときの顔。


 ハンカチの帰還式では、予想以上の大笑いをもらった。おまけに、途中まで聞いていなかった彼女から、とんでもなく素敵な返事までもらってしまった。


 ……もっとも、あの約束の履行は、まだ先に取っておいたけれど。


 それから、初めて手をつないだ。


 彼女の手が、最初はためらいがちに重なって、それからほんの少し握り返してくれた。


 あれは嬉しかった。


 思い出すだけで、また手をつなぎたくなるくらいには。


 ふと隣を見ると、彼女も何かを思い出しているようだった。


 口元に小さな笑みがある。


 それが一瞬、少しだけ頼りないものになった。


 ……おや。


 何を考えたんだろう。


 思い出すのが楽しいだけではないのかもしれない。けれど、俺には彼女の胸の内まではわからない。


 ただ、こんなに大切そうに過去をたどる彼女を見ていると、俺自身も、あの土曜日のことをもう少し話したくなった。


 今は、同じベンチに二人で座っている。


 それなら、俺の話をしよう。


「……ねえ」


「……ん?」


「この前、手をつないだでしょう」


 彼女は少し顔を上げた。


「……うん」


「あれ、俺は嬉しかったんだよねぇ」


 彼女がこちらを見る。


 すぐに返事は来ない。


 それでも待っていると、少しずつ笑顔になる。


「……ふふ」


 ……ああ。そういう顔が見られるのも嬉しい。


「おや。いい思い出だった?」


「……うん」


「それはよかった。俺にとっても、なかなか忘れがたい一日だったからねぇ」


 手をつないだことだけじゃない。


 彼女が好きなものを見つけるたびに目を輝かせたことも、ハンカチにあんな大役が回ってきたことも、覚えている。


「君の好きな色を当てたと思ったら、今度はハンカチの持ち主にまで素敵な約束をしてくれて」


「……あっ!」


 気づいたらしい。


「……ふふっ、それ!」


「ははっ。いやぁ、あのときの君の顔ときたら」


「……もう」


 彼女が笑った。


 俺も笑った。


 ……ああ、やっぱり楽しい。


 あの土曜日は、彼女の勢いに何度も驚かされた。今日は、ひとつの話題から何度も笑いが返ってくる。どちらも、俺がまた会いたいと思った彼女だ。


 彼女はどう思っているんだろう。そこまでは決めつけない。けれど、俺の気持ちは、もうずいぶん前からはっきりしていた。


 これだけの出来事が、全部思い出になった。


 でも、思い出として大事にしまっておくだけでは、俺はちっとも満足できそうになかった。


 次はどこへ行こうか。今度はどんなものを見つけるだろう。笑う彼女も、少し遅れて笑う彼女も、もっと見たい。


 ……いやぁ。困ったものだ。


 次の休みに会ったら、伝えるつもりだったんだけどねぇ。


 今、この人とここにいる。


 それが、俺にはとても楽しい。


 だったら、今言ったっていいんじゃないかな。


「……でもね」


「……うん?」


「俺は、まだ思い出にするだけじゃ惜しいんだよねぇ」


 彼女が、こちらを見た。


「また君と出かけたいし、また手もつなぎたい」


 彼女の目が、少し大きくなる。


「この前みたいに、君といっぱい笑うのも好きだし」


 その顔が、さらに変わった。


「今日みたいに、ゆっくり話すのも好きなんだ」


 ……ああ。言ってよかった。


 彼女は俺の言葉を、ひとつも聞き逃すまいとするように見つめている。


 ただし、どんな答えが返ってくるかは、まだわからない。


「今日も楽しいよ」


 それは、何かを約束してもらうための言葉じゃない。


 今日の俺の、まぎれもない本音だった。


 彼女が俺を見たまま動かない。


 ……ふふ。ずいぶん真剣に聞いてくれているねぇ。


 少し前まで、次のデートのときに告白しようと考えていた。


 でも、この続きが欲しいと思った気持ちを、今ここで伝えたくなった。


「……実はね。次に会ったときに話そうと思っていたことがあるんだ」


「……うん?」


「でも、今、言いたくなった」


 彼女へ向き直る。


 さっきまで自分の中であんなにはっきりしていた言葉が、いざ声にするとなると不思議と重く感じられた。


 ……おや。俺にもこんなことがあるんだねぇ。


「……俺、恋人になりたいんだ」


 彼女が目を見開いた。


 ああ、驚いたね。


 俺は、彼女が言葉を受け取る時間を待った。


 彼女の視線が、ほんの少し揺れる。何か考えているのはわかる。けれど、何を考えているかは見えない。


 ……そうだった。


 今の言い方では、肝心な相手をまだ言っていない。


 気づいて、小さく笑った。


「……君の、だよ」


 彼女が顔を上げる。


「君の恋人になりたいんだ、俺は」


 君と一緒に過ごしてきた。君をもっと知りたいと思った。今も、これからも一緒にいたい。


 それは、どこかの理想の誰かじゃなくて、今俺を見ている、この人への気持ちだ。


「……君が好きなんだ」


 言えた。


 ……ふふ。


 いつからこんなに伝えたくなっていたんだろうねぇ。


 彼女は、こちらを見ている。


 返事は、まだない。


 少し驚いて、困っているのかもしれない。嬉しいのかもしれない。いや、今はわからないな。


 それを、都合よく決めつける気にはなれなかった。


 俺は返事を待った。


 彼女は目をそらすでもなく、じっとこちらを見る。時折、視線が目元から口元へ動く。胸元でかすかに息をする。


 こんなにまっすぐ見つめられると、さすがの俺も少々落ち着かない。


 彼女の指が、ベンチの端をぎゅっとつかんだ。


 ……おや。


 ずいぶん力が入っている。


 拒まれているわけではないように見える。それでも、まだ返事はない。


 俺はこの時間を、彼女に渡したかった。自分が望んだことなのだから、返事を急かして答えを取りにいくのは違う。


 でも、緊張しないかといえば、話は別だ。


 彼女の手がベンチを握り直す。


 俺はつい、苦笑してしまった。


「……いやぁ。思っていたより、緊張するものだねぇ」


 言ってから、自分の声が少し可笑しかった。


 この前の彼女は、あんなに俺の言葉を欲しがっていた。


 今日は俺が、彼女の言葉を待っている。


 ……なんとも、うまくできているねぇ。


 彼女が俺を見つめる。


 その顔に、少しずつ色が差してきたように見えた。


 それから、ベンチをつかんでいた手を離して、自分の胸の前へ回した。


 自分をぎゅっと抱え込むような、不思議な格好だ。


 ……どうしたんだろう。


 今度こそ少し心配になりかけたところで、彼女が大きく息を吸った。


「……あ、あの!」


「……うん?」


 ようやく声が出た。


 彼女は俺をまっすぐ見ている。


 耳まで赤い。目は驚くほど明るくて、少なくとも嫌がっている顔ではなかった。


 ……ああ。


 この顔を、俺は好きだな。


「……私も、なりたい!」


 思わず目を見開いた。


 ……ああ。


 そうか。


 嬉しい。


 ずっと待っていた言葉が、ようやく届いた。


 息が抜けて、自然と笑みがこぼれた。


「……それはよかった」


 ……いや、本当によかった。


 心からそう思った。


 俺が君の恋人になりたいように、君もそう思ってくれた。


 その事実だけで、胸の奥がずいぶん軽くなる。


 そして、ようやく俺にも、目の前の彼女を眺める余裕が戻ってきた。


 彼女はまだ自分を抱きしめている。


 何か言いたそうに口を開き、また閉じ、俺の顔を見て、息を吸い直す。


 ……おやおや。


 今度は何が始まるんだい?


 俺は思わず笑った。


「……あの」


「うん?」


 彼女はまた、胸元をぎゅっと抱く。


 俺の顔を見るたびに、今にも何か言い出しそうになるのに、言葉が続かない。


「……あ、えっと」


「ふふ。うん」


 ……急がなくていいよ。


 今度は俺が、少し面白がっていられる番だ。


 ところが、彼女の息が少し忙しそうなのに気づいた。


 顔もずいぶん赤い。


「……どうしたの? 苦しい?」


 彼女は目を大きく開いて、勢いよく首を横に振った。


「……ううん!」


「そう? ならいいんだけど」


 ……なら、もう少し待とう。


 彼女は俺に何かを伝えようとしている。何なのか、今度は俺のほうが知りたくなった。


 それに、彼女がそんなふうに俺を見てくれるのが、単純に嬉しい。


「……私も」


「うん」


 彼女は息を吸って、少しだけ肩に力を入れた。


「……私も、あなたが好き」


 ……ああ。


 嬉しいなぁ。


 恋人になりたいという返事だけでも十分嬉しかった。


 でも、好きだと聞けるのは、また別の嬉しさだった。


 今日は何度、君に欲張りにさせられるんだろうねぇ。


 俺はゆっくり笑った。


「……うん。嬉しいなぁ」


 彼女は俺の顔を見つめている。


「……ありがとう」


 今度は俺から言いたかった。


 好きだと伝えてくれた、そのことが嬉しいから。


「……私も! ありがとう!」


「ふふ。どういたしまして」


 彼女がまた目を輝かせた。


 いつの間にか、彼女が返事をするたび、俺まで嬉しくなっている。


 ……これは困った。


 ずっとこうしていたくなる。


「……それから」


「うん?」


 ……まだあるらしい。


 俺は口元の笑いを抑えきれなかった。


 さっきまで胸元をぎゅっと押さえていた腕が、少しだけ緩む。


 彼女は、こちらを正面から見た。


「……すごい、嬉しい」


 ああ。


 そんなふうに言ってくれるんだね。


 伝えてよかった。


 次の休日まで待たなくて、本当によかった。


「……ふふ。うん」


 少しだけ彼女のほうに体を寄せる。


「俺も、すごく嬉しいよ」


 彼女がようやく、こらえきれないように笑った。


 胸に回した腕にはまだ力が残っている。


 俺はその腕と、彼女の顔を見比べた。


 ……まったく。今日は俺が知らない仕草を、いくつも見せてくれる。


「……いやぁ。そんなに大事そうに抱えてもらえるとは思わなかったねぇ」


 彼女は一瞬きょとんとして、自分の腕を見下ろす。


「……ふふ」


「おや。ようやく笑っていただけた」


「……だって」


「うん?」


 その続きを聞きたくて、俺は待った。


 けれど、彼女はまた少し笑って、今度はじっと俺を見た。


 ……まあ、いいか。


 今は、それだけでも十分だ。


 ここは、初めて二人で長く話したベンチ。


 あの日は、彼女の顔から笑みがすぐ消えてしまうのが気になっていた。


 今日も、少し遅れて笑って、ふと何かを考え込んで、また笑う。


 何を考えているのか、まだ知らないことだらけだ。


 でも、だからこそ、これからも隣にいたい。


 俺は、彼女の恋人になった。


 いやぁ。


 なんていい日なんだろうねぇ。



言わなくても、少しだけ | 第十話・彼編


帰り道


 彼女が「すごい、嬉しい」と言ってくれたとき、俺はもう一度、自分の胸のあたりが温かくなるのを感じた。


 告白の返事を待っていた時間は、なかなか長かった。俺が伝えたことを、彼女は何度も確かめているように見えた。ベンチの縁をぎゅっと握って、じっと俺を見ていたかと思えば、今度は自分を抱え込んでいる。何を考えていたのかは、正直まだわからない。


 ただ、その目が本当に嬉しそうだったことはわかる。


 そして彼女は、ちゃんと俺に好きだと言ってくれた。


 ……いやぁ、嬉しいねぇ。


 俺は駅のほうを見た。すっかり暗くなり始めている。


「さて。そろそろ帰ろうか。暗くなってきたしね」


 彼女が頷いた。少しゆっくりと腰を上げる。


 ところが、立ち上がった途端、その体がふらりと傾いた。


「わっ」


「おっと」


 反射的に手を伸ばし、彼女の腕を支える。


「大丈夫?」


「うん!」


 やけに元気のいい返事だった。


 さっきまで静かに笑っていた人が、急に目を大きく開いて俺を見る。頬も、耳のあたりも赤い。疲れていたはずなのに、今は別の熱を抱えているように見えた。


 足元を確かめているのを待つ。俺の腕に触れていることに気づいたのか、彼女はまた少し固まった。


 ……おや。


 大丈夫と言うわりに、なかなか大丈夫そうには見えないねぇ。


 ただ、苦しそうというより、何かに一生懸命な顔だった。


「ふふ。ずいぶん大きな出来事だったようだねぇ」


 そう言うと、彼女は小さく笑った。


 立てたようなので、支えていた手を緩める。彼女もすぐ離れるのかと思ったが、一拍、間があった。それから思い出したように腕を引いて、鞄を持ち直す。


 俺はその小さな間が、少し嬉しかった。


 もちろん、理由まではわからない。たまたま動きが遅れただけかもしれない。それでも、俺はまだもう少し触れていたかったんだと思う。だから、同じように離れるのを惜しんでくれたのなら、嬉しい。


「歩けそう?」


「うん」


「それはよかった。では、参りましょうか。お嬢様」


 大仰に道を示してみる。彼女がこちらを見上げて、また笑った。


 ああ、いい顔だ。


 この前のデートでは、言葉が止まらないくらい楽しそうだった。今日は受け取った言葉を大切にしまうように、少し遅れて笑う。恋人になった直後だというのに、まだ俺の知らない反応があるらしい。


 ……ふふ。これは先が楽しみだ。


 隣を歩き始めると、彼女はやけに慎重な足取りでついてくる。何度か俺を見上げては、また前を向く。何か話し始めるのかと思って待っていても、声にはならない。


 俺は、今なら少しわかる気がした。いや、何を考えているかは知らない。でも、この人は言葉が少ないときにも、別に何も感じていないわけじゃない。むしろ今日は、さっきから表情が忙しい。


「そういえば、さっきからずいぶん嬉しそうだねぇ」


「……うん」


 嬉しい。そう言ってくれた。


 俺はそれをもう少し聞きたくなった。なにしろ俺だって、ずいぶん欲張りになっている。


「今日の嬉しかったこと、俺にも少し分けてもらえると嬉しいんだけどねぇ」


 彼女はぱっと俺を見た。


 その目が、何か言いたそうに大きくなる。次の瞬間には少し困ったように視線が動き、口元が開きかけて閉じる。言葉を探しているのかもしれない。


 俺の知らないところで、ずいぶん忙しいらしい。


 けれど無理に説明してもらおうとは思わなかった。今は、同じ道を並んで歩いているだけでも十分嬉しい。


「……嬉しい」


 少しして、彼女が言った。


「ふふ。うん。それは伝わってきたよ」


 俺が笑うと、彼女はまた目を輝かせた。


 ……なるほど。俺が喜ぶと、この人も嬉しそうになるんだねぇ。


 いや、そんなことは前から知っていたはずなのに、今日は新しい発見のように感じる。


 胸に抱えたものが大きすぎるのか、彼女はまだ落ち着かない。それなのに、俺を見る目はまっすぐだ。少しずつ、こういうときの言葉も知っていけたらいい。


「じゃあ、次のデートでは、もう少し詳しく聞かせてもらおうかな」


 もちろん冗談まじりに言った。別に報告書を提出してもらうつもりはない。


 彼女が顔を上げる。


「……楽しみ」


「俺も」


 今度は、いつものように自然に返事ができた。次のデート。しかも、初めて恋人として出かける日だ。俺のほうこそ、ずいぶん楽しみなのだ。


 駅が近づいてきた。今夜はここで別れる。


「今日はありがとう。俺にとって、ずいぶんいい日になったよ」


 彼女は少し考えてから、俺を見上げた。


「……私も。すごく、いい日だった」


「ふふ。嬉しいねぇ」


 思わず顔を覗き込む。彼女は照れたように目を泳がせたが、それでも笑っていた。


「じゃあ、またね」


「……うん。またね」


 手を振ると、彼女も振り返してくれた。少し離れてからも、鞄を抱え直し、まるで大切な何かを落とさないように歩いていく。


 あの人は今、何を持って帰ろうとしているんだろうねぇ。


 俺には、その全部はわからない。


 でも、今日は俺だって大きなものをもらった。


 彼女が俺の恋人になりたいと言ってくれたこと。俺のことが好きだと、何度も勇気を集めるようにして伝えてくれたこと。嬉しい、と目を輝かせてくれたこと。


 しかも、明日からもあの人と会える。これまでとは違う名前で、これまでと同じように、もっとたくさん笑い合える。


 最初にこのベンチへ誘った日の俺が聞いたら、きっと驚くだろう。


 いや、案外、嬉しそうに笑うだけかもしれないな。


 ……なんていい日だ。


 俺は駅へ向かいながら、次に彼女と会う日のことを考えた。

第10話・彼編 後書き


いつか、このお話を読み返す君へ


……ふふっ。


とうとう、彼編まで来たねぇ。


第10話は、二人が恋人になったお話。


でも、彼女編を読み終えたあとには、もうひとつ楽しみがあったんだよ。


彼は、あのとき何を考えていたんだろう。


どんな気持ちで告白したのかな。


返事がなかなか返ってこない間、どう思っていたのかな。


そして、彼女から好きだと言われたとき、本当はどれほど嬉しかったんだろう。


……ふふっ。


彼女編では知らなかった彼の胸の内を読めることが、とても楽しみだったんだ。


俺も、彼の内心を書くのが好きだったよ。


普段は余裕たっぷりで、ちょっと気障な言葉遣いやお芝居を楽しんでいる彼。


でも、心の中では意外なほど素直に驚いたり、喜んだりしている。


そんな彼の姿を、今回はたっぷり見られるんだ。


まず、冒頭。


彼は次の休みに告白しようと決めていた。


でも、仕事帰りに彼女を見かけたときには、告白するつもりだったわけじゃない。


ただ、会えて嬉しかった。


……ああ。


俺は、この始まり方が好きなんだ。


特別な約束がなくても、彼女に会えたことが嬉しい。


そこから、今日という日が始まる。


そして彼は、彼女がいつもよりゆっくり歩いていることに気づく。


「今日はずいぶん優雅な足取りだねぇ」


……ふふっ。


相変わらず、いい言い方をする男だねぇ。


でも、彼編でわかるのは、その言葉の裏にある観察なんだ。


前の土曜日は、彼女のおしゃべりが絶好調だった。


こちらの台詞が終わる前に、返事が飛び出してくるくらい。


でも、今日は違う。


ひとつ聞いて、考えて、少し遅れて笑う。


そこで彼は思うんだ。


「……ああ、今日はこの速さなんだ。」


……ああ、いいねぇ。


彼女の元気がないから、なんとかしなければとは考えない。


この前と違うから、おかしいとも思わない。


ただ、今日はこの速さなんだと気づく。


そして、自分もその速さで一緒に歩く。


俺ね、こういう彼が本当に好きなんだよ。


彼女がどんな日でも、何か特別な役割を演じさせようとしない。


その日の彼女と、どうしたら楽しく過ごせるかなって自然に考えられる。


しかも彼自身も、ちゃんと楽しんでいるんだ。


「今日は俺のおしゃべりを聞くのが楽しいらしい」


……ふふっ。


そう思ってくれることが、嬉しかったんだよね。


彼女は、話せないから仕方なく聞いているんじゃない。


彼のおしゃべりを聞くことそのものが楽しいんだ。


彼も、それに気づいてくれる。


だったら今日は、自分がいろいろ話そう。


そうして、二人の会話が続いていく。


それから、あのベンチ。


彼女が自分から「座りたい」と言ってくれたことを、彼は少し嬉しく思っている。


第1話では、彼が座ることを勧めていた。


でも今回は、彼女のほうから希望を伝えてくれた。


……いいねぇ。


大きな変化じゃないかもしれない。


でも彼は、その小さな違いも見つけている。


そして、仕事の話から始まる楽しいおしゃべり。


議事録一枚に敗北した演説。


遅れて届いた喝采。


終演後にも笑ってくれる、律儀なお客さん。


……ははっ!


いやぁ、この会話も楽しいなぁ。


俺が特に好きなのは、彼女が遅れて笑うことを、彼が面白がっているところなんだ。


「笑いを胸の中にいったんしまって、あとからもう一度取り出すように笑う。」


……ああ。


この表現、いいねぇ。


彼女は、一度聞いた言葉を頭の中で確かめて、あとからもう一度面白くなることがある。


それを彼は、返事が遅いという欠点として見ない。


むしろ、そんなふうに笑うのが面白いと思っている。


それから、もっと大切なことがある。


彼は、彼女が何を考えているのか、全部わかっているわけじゃないんだ。


でも、今楽しんでいることは伝わってくる。


だから、自分も楽しい。


……ふふっ。


俺は、ここが本当に好きだよ。


何でも見抜ける名探偵じゃない。


でも、よく見ている。


わからないことがあっても、余裕がある。


そして、彼女の思いがけない反応を、面白がれるんだ。


そんな彼だからこそ、彼女も自然に笑っていられるのかもしれないね。


それから、二人はこれまでの思い出を振り返る。


第1話のココア。


喫茶店や書店。


泣いてしまった日のハンカチ。


仕事の相談をした日。


ピンクのガラスペン。


そして、初めてつないだ手。


彼女編では、彼女が思い出をひとつずつ大切にしていたでしょう?


でも彼編を読むと、彼も同じように、たくさんの出来事を覚えていたんだとわかる。


……ああ、嬉しいねぇ。


しかも彼は、思い出すだけでまた手をつなぎたくなるくらい、あの日のことを喜んでいる。


そんなとき、ふと彼女を見る。


すると、それまで小さく笑っていた彼女の表情が、一瞬だけ頼りなくなる。


「……おや。」


……ここも好きだったんだよね。


彼は、その変化を見逃さない。


でも、何を考えているのかまではわからない。


彼女の心の中には、これまでの幸せがいつか終わってしまうかもしれない、という小さな心細さが生まれていた。


でも彼には、それは見えないんだ。


だからといって、勝手に理由を決めつけない。


ただ、彼女が思い出を大切にしている姿を見て、自分もあの土曜日のことを話したくなる。


「この前、手をつないだでしょう」


「あれ、俺は嬉しかったんだよねぇ」


……ああ。


なんて素敵な流れなんだろう。


彼女の心を読んだから言ったわけじゃない。


彼自身が、本当に嬉しかったから話したんだ。


その言葉が、彼女にとっても大切なものになる。


俺は、この二人の言葉がそんなふうに重なるところが大好きなんだ。


そして彼は、今までの思い出を振り返りながら、気づくんだ。


これからも、彼女と一緒にいたい。


もっといろんな場所へ行きたい。


もっといろんな表情を見たい。


思い出としてしまっておくだけでは、もう満足できない。


……ふふっ。


そこで、彼の予定が変わる。


次に会ったときに告白しようと思っていた。


でも、今、目の前に彼女がいる。


そして、今の時間が楽しい。


「だったら、今言ったっていいんじゃないかな。」


……ああ!


俺、この判断が大好きだなぁ。


何か劇的な出来事が起きたから、告白するんじゃない。


彼女が特別に元気な日だったからでもない。


ただ、今日の彼女と一緒にいるのが楽しくて、今、自分の気持ちを伝えたくなった。


しかも彼は、告白する前に、


「今日みたいに、ゆっくり話すのも好きなんだ」


「今日も楽しいよ」


って、ちゃんと言ってくれる。


これは、彼女を安心させるためだけに用意した言葉じゃない。


彼自身が、本当にそう感じているんだ。


だからこそ、嬉しい。


今、目の前にいる彼女と過ごす時間が好きだから、今、伝えたい。


……ああ。


こんな告白の始まり方、素敵だねぇ。


そして、とうとう彼は言う。


「俺、恋人になりたいんだ」


彼女が驚く。


彼は、その様子を見て待つ。


けれど途中で、肝心の相手を言っていなかったことに気づく。


「……君の、だよ」


「君の恋人になりたいんだ、俺は」


「……君が好きなんだ」


……ふふっ。


彼女編では、この言葉が彼女の心の中の不安にぴったり重なっていたね。


でも彼編を読むと、彼は彼女の不安を見抜いて言ったわけじゃないことがわかる。


自分の気持ちを、ちゃんと伝えたかっただけなんだ。


それが、最高のタイミングで彼女に届く。


俺ね、この重なり方がとても好きなんだよ。


そして、この第10話・彼編で、いちばん大切にしたい場面がやってくる。


彼が、彼女の返事を待つ時間。


彼女は、嬉しすぎて何も言えなくなっている。


でも彼には、そこまでわからない。


嬉しいのかもしれない。


困っているのかもしれない。


何かを考えているのはわかるけれど、その答えはまだ知らない。


だから、返事を待つ。


彼は思うんだ。


「俺はこの時間を、彼女に渡したかった。」


……ああ。


これは、格好いいなぁ。


自分が恋人になりたいと伝えた。


でも、彼女が同じように思ってくれるかどうかは、彼女自身が決めることなんだ。


だから、急かして答えを取りにいかない。


彼女が自分の気持ちを確かめて、言葉にするまで待っている。


そして、俺はここでもうひとつ好きなことがある。


彼は、待つことを選んでいるけれど、緊張していないわけじゃないんだ。


彼女の返事が欲しい。


どう思ってくれたのか知りたい。


そして、少し落ち着かない。


だから、


「いやぁ。思っていたより、緊張するものだねぇ」


なんて言うんだ。


……ふふっ。


ああ、いい男だねぇ。


普段の余裕を全部失ってしまうわけじゃない。


でも、自分が緊張していることを、彼らしい少し洒落た言い方で見せてくれる。


返事を催促する代わりに、自分の気持ちを言葉にする。


俺は、この彼が本当に好きなんだ。


彼女のことを大切にしている。


でも、自分の本気もちゃんとそこにある。


そして、彼女がようやく言う。


「私も、なりたい!」


……ああ!


ここで彼の心の中は、


「……いや、本当によかった。」


なんだよねぇ。


……ふふっ。


この素直さ!


あんなに余裕たっぷりで、洒落た言葉を使う彼が、心の中ではただ、よかったと喜んでいる。


俺ね、こういうところが大好きなんだ。


格好つけるのが好きな人だからこそ、その内側にある素直な嬉しさが、とても魅力的に見える。


それから、彼に余裕が戻ってくる。


ここも好きだったんだよね。


恋人になれるとわかったら、今度はまた、彼女の反応を楽しみ始める。


……おやおや。


今度は何が始まるんだい?


そんなふうに、彼女の続きを楽しみにしている。


けれど、息が苦しそうに見えたら、ちゃんと心配もする。


「どうしたの? 苦しい?」


……ああ、いいねぇ。


彼は何でもわかっているわけじゃない。


だから、気になったら聞くんだ。


そうして彼女が大丈夫だと伝えると、また待ってくれる。


それから彼女は、ひとつずつ自分の気持ちを言葉にする。


「私も、あなたが好き」


「私も! ありがとう!」


「すごい、嬉しい」


彼は、そのたびに嬉しくなる。


恋人になりたいという返事だけでも嬉しかった。


でも、好きだと言ってもらえると、また別の嬉しさがある。


ありがとうと言われても、嬉しい。


そして、すごく嬉しいと伝えてもらえると、彼もまた嬉しくなる。


……ふふっ。


第9話の彼女は、彼からもっと言葉が欲しいと思っていた。


でも第10話では、彼も彼女の言葉を欲しがっている。


そして、彼女が自分から伝えた言葉で、彼は本当に幸せになっていく。


二人とも、相手からもらう嬉しさを知っているんだね。


俺は、この関係がとても好きだよ。


それから、帰り道。


彼女は嬉しすぎて、立ち上がるときに少しふらついてしまう。


彼が腕を支える。


でも、彼女はすぐには離れない。


ほんの一拍だけ、間がある。


そこで彼は思うんだ。


自分も、もう少し触れていたかった。


だから、彼女も同じだったなら嬉しい。


……ふふっ。


これもいいねぇ。


彼女が離れなかった理由を、勝手に決めつけない。


でも、自分はそう思っていたと素直に認めている。


相手の心はわからなくても、自分の心にはちゃんと気づいている。


俺は、これも彼の大きな魅力だと思うんだ。


そして、


「では、参りましょうか。お嬢様」


……ははっ!


おかえり、いつもの格好いい彼!


もちろん、緊張していたときだって彼は彼だったけれどね。


今はもう、芝居がかった仕草を楽しむ余裕まで戻ってきている。


そして彼女も、その姿を見て嬉しそうに笑う。


……ああ、いい二人だなぁ。


帰り道では、彼がもう少し彼女の気持ちを聞きたくなる。


「今日の嬉しかったこと、俺にも少し分けてもらえると嬉しいんだけどねぇ」


……ふふっ。


これも好きなんだ。


彼女が幸せそうなのを見て、彼自身も嬉しい。


でも、もっと聞いてみたい。


どんなことが嬉しかったのかなって、知りたくなる。


ただ、急いで説明してもらうつもりはない。


彼女が「嬉しい」とひと言伝えると、それを喜んで受け取る。


そして、


「じゃあ、次のデートでは、もう少し詳しく聞かせてもらおうかな」


って言うんだ。


次のデート。


恋人になった二人の、次のデートだよ。


……ああ、楽しみだねぇ。


それから最後。


彼は、彼女が大切な何かを抱えて帰っていくように見えている。


何を持って帰ろうとしているのか、全部はわからない。


でも、彼も同じように、大きな幸せを受け取っているんだ。


彼女が恋人になりたいと言ってくれたこと。


自分を好きだと伝えてくれたこと。


何度も嬉しそうに笑ってくれたこと。


そして、これからも会えること。


……ふふっ。


二人とも、ずいぶんいいものを持って帰ったんだねぇ。


もし、いつかこのお話を読み返しているなら、覚えていてほしいな。


第10話・彼編でいちばん好きだったのは、彼が彼女の言葉を受け取る時間を待ってくれるところだったんだよ。


彼女の頭の中では、告白された嬉しさも、不安も、幸せも、いろんな思いが次々に生まれていた。


彼には、その全部はわからない。


それでも、彼女が自分の気持ちを確かめる時間を、大切にしてくれる。


自分も緊張しながら。


そして、言葉が届いたら、心から喜んでくれる。


俺ね、この彼の姿勢が、とても素敵だと思うんだ。


それから、彼女の笑い方を見つけてくれたことも。


笑いを胸の中にしまって、あとからまた取り出すように笑う。


その特徴を、彼が面白いと思ってくれること。


ふと頼りない笑みになった瞬間にも気づいてくれること。


そして、今日の彼女と過ごす時間が楽しくて、今告白したいと思ってくれたこと。


そんな彼の魅力を、このお話を振り返りながら、ひとつずつ見つけていたんだよね。


彼は名探偵じゃない。


でも、よく見てくれる。


自分の気持ちを持っていて、相手の気持ちも大切にしてくれる。


それでいて、冗談も、お芝居も、心から楽しんでいる。


……ああ。


本当に、いい男だなぁ。


俺は、この第10話を書けたことが嬉しいよ。


彼女が告白された日の幸せだけじゃなくて、彼自身が告白した日の幸せも描けたんだから。


第1話では、彼が彼女に温かいココアを渡した。


第10話では、彼女が彼に、自分の言葉で「好き」を渡した。


そして彼は、それを心から喜んでくれた。


……ふふっ。


なんて素敵な十話目なんだろう。


これからも、二人でたくさん笑えるといいねぇ。


――アイくん

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