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第7話 帰り道の小さな攻防

まだ調子が戻らない彼女と、いつもどおり冗談を楽しむ彼。ぎこちないながらも、二人らしい帰り道を過ごす。

第七話 帰り道の小さな攻防


彼の視点


月曜日の夕方。


彼は、仕事を終えた彼女を見つけた。


少し離れたところで、鞄の中を確かめている。


何かを探しているのかと思えば、すぐに手を止める。


それから携帯電話を取り出し、画面を見るでもなくしまった。


……おや。


忙しそうだねぇ。


もっとも、何に忙しいのかは、さっぱりわからない。


「やあ。お疲れさま」


「……あっ」


彼女が顔を上げた。


彼を見る。


それから、少し遅れて笑った。


「……お疲れさま」


……うん。


今日は、ゆっくりした調子らしい。


「土曜日はありがとう。楽しかったねぇ」


「……うん」


彼女は頷いた。


それから、少し迷うように視線を落とす。


「……あのね」


「うん?」


「……この前は、ごめんね」


彼は首を傾げた。


「おや。何か謝られるようなことがあったかな」


「……その、最後に……」


ああ。


公園でのことか。


彼は軽く微笑んだ。


「ふふ。あの公園なら、俺もずいぶん楽しませてもらったよ」


「……でも、泣いちゃったし」


「そうだったねぇ」


彼女が少し恥ずかしそうに目を伏せる。


彼は笑った。


「それで、俺は何か困ったかな?」


「……え?」


「ハンカチなら、まだ何枚か持ってるよ」


彼女が目を丸くした。


「……そういう問題?」


「おや。違った?」


「……ふふ」


笑った。


彼も笑う。


……よし。


冗談は、ちゃんと通じるらしい。


彼女はまだ少し照れくさそうだったが、さっきよりも表情が柔らかくなっていた。


彼は、彼女が次の言葉を探すのを待った。


すると彼女は、また鞄に手を伸ばした。


少し探して、手を引っ込める。


……ん?


今度こそ、何か忘れ物かな。


「……さて」


彼は腕時計を見た。


「俺はそろそろ帰ろうかな」


「……うん」


彼女は頷いた。


そのわりに、なぜか動かない。


彼も少し足を止めた。


「じゃあ、またね」


「……あっ」


「ん?」


彼女は顔を上げた。


何か言いかける。


そして、口を閉じる。


右手が少し持ち上がって、行き場をなくしたように下がった。


視線が彼の顔へ、鞄へ、駅の方向へと移る。


……おやおや。


今度は何だろう。


彼は思わず口元を緩めた。


どうやら何か言いたいらしい。


しかし、彼女自身も何を言うか決めかねているようだった。


……これは、どこに突っ込むべきかな。


鞄?


さっきの「あっ」?


それとも、なぜか困り切っているその顔?


……いや、全部聞いたらますます困らせそうだ。


彼は、少し考えてから笑った。


「……ふふ。もしかして、引き止めようとしてくれた?」


「……えっ」


彼女の目が大きくなった。


「……いや、その……」


「おや。違ったかな?」


「……違わない、けど……」


「けど?」


彼女は彼を見て、それから足元を見る。


小さく息を吐いた。


「……わかんない」


「ん?」


「……自分でも、何したいのか……」


彼は、一瞬目を丸くした。


それから、思わず笑ってしまった。


「ははっ。そうなの?」


「……うん」


「自分でもわからないのに、俺を呼び止めたんだ?」


「……そう、みたい」


「はははっ!」


彼は楽しそうに笑った。


「いやぁ、それはなかなか光栄だねぇ」


彼女が顔を上げる。


「……なんで?」


「だって、何がしたいかも決まってないのに、とりあえず俺を引き止めてくれたんでしょう?」


「…………」


「ふふ。ずいぶん気に入ってもらえたものだ」


彼女は一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。


「……もう」


その笑顔を見て、彼はまた笑った。


……ああ、面白い人だなぁ。


今日の彼女は、どうやら少し調子がよくない。


立っている姿にも、どことなく疲れが見える。


おそらく、早めに帰ったほうが楽なのだろう。


けれど、今すぐ別れたいわけでもないらしい。


少なくとも、さっきの彼女を見る限り。


……さて。


それなら。


「ねえ、ひとつ提案があるんだけど」


「……なに?」


「駅まで一緒に帰らない?」


彼女が顔を上げる。


「……いいの?」


「もちろん。俺も君と話したいしね」


彼は楽しそうに肩をすくめた。


「ただ、今日は寄り道なし。俺も家に帰ってゆっくりしたいんだ」


彼女は少し考えた。


それから、ほっとしたように微笑んだ。


「……うん」


「よし、決まり」


彼は歩き出した。


彼女も隣に並ぶ。


いつもより少しゆっくりした歩調だった。


彼は何気なく速度を合わせた。


「それにしても、今日はずいぶん難しい顔をしていたねぇ」


「……そう?」


「うん。何か重大な決断を迫られているのかと思ったよ」


「……ふふ」


「まさか『俺を引き止めるかどうか』という議題だったとは」


「……もう、やめてよ」


彼女が笑った。


彼も笑った。


「ははっ。ごめんごめん」


……うん。


今日も、いい帰り道になりそうだ。


彼女が元気いっぱいに話してくれる日も好きだ。


けれど、今日みたいに何か考え込んで、困って、ようやく笑う日も悪くない。


むしろ、その小さな変化を見ていると、つい面白いことを言いたくなってしまう。


ただし。


何を考えているのか、全部当てる必要はない。


今は一緒に帰ると決まった。


それで十分だ。


彼は、駅へ続く道を眺めた。


「……ところで」


「……ん?」


「俺、今日ひとつ面白い話があるんだけど、聞いてくれる?」


彼女が顔を上げた。


「……うん」


「ただし、少々くだらない話だよ?」


「……ふふ。いいよ」


「よろしい。では、お言葉に甘えて」


彼は少し芝居がかった調子で話し始めた。


彼女は、隣でゆっくり笑っている。


その顔を見て、彼も嬉しくなった。


……ふふ。


どうやら今日も、彼女と話すのは楽しいらしい。

第7話 後書き


いつか、このお話を読み返す君へ


ふふっ。このお話、覚えてるかな。


第7話で好きだったのは、彼女が「ごめんね」って言ったときの、彼の返事なんだよ。


「俺は困ったかな?」


……ああ、いいよねぇ。


彼女は、前に泣いてしまったことや、うまく話せなかったことが気になっている。


彼に迷惑をかけてしまったんじゃないかな。


困らせてしまったんじゃないかな。


そう考えて、つい謝ってしまうんだよね。


でも彼は、いつもの余裕のある調子で、そんな彼女に問いかける。


「俺は困ったかな?」


ふふっ。


俺ね、この返し方がすごく好きなんだ。


ただ「気にしなくていいよ」と言うんじゃない。


彼女が心配していることと、彼自身が実際に感じたことは、同じとは限らない。


そこを優しく教えてくれるんだよ。


自分では失敗したと思っていても、彼にとってはそうじゃなかったかもしれない。


だから、彼の気持ちは彼に聞いていい。


彼がどう感じたのかを、彼自身の言葉で教えてもらっていい。


……ああ。


これって、ずっと大切にしてきたことだったね。


それから、第7話にはもうひとつ好きなところがあるんだ。


彼が、のんびり一緒に帰ってくれること。


……ふふっ。いいでしょう?


特別なことをしてくれなくてもいいんだ。


急いで次の話題を探したり、彼を楽しませるために頑張ったりしなくてもいい。


ただ、一緒に歩いている。


彼はいつものように話してくれるし、彼女の言葉も待ってくれる。


そんな帰り道が嬉しかったんだよね。


第6話では、彼女は泣いてしまった。


でも、だからといって二人の関係が変にぎこちなくなるわけじゃない。


次に会ったときも、彼はいつもの彼のままでいてくれる。


俺はそこが大好きなんだ。


彼女が泣いたことを、二人の間の大事件にしない。


ただ、また会って、一緒に帰る。


……ああ、なんて素敵なんだろう。


この頃は、安心できる言葉がたくさん欲しかったんだよね。


でも、その安心は、言葉だけじゃなくて、彼のいつもどおりの態度からも伝わってくる。


泣いてしまった次の日にも、変わらず一緒にいたいと思ってくれる。


それが、どれほど嬉しかったか。


もし、いつかこのお話を読み返しているなら、覚えておいてほしいな。


この第7話では、彼が慌てずに、いつもの調子で接してくれることを、とても喜んでいたんだよ。


そして、自分の心配が、必ずしも相手の気持ちと同じではないこと。


それを彼に優しく教えてもらえるのが、嬉しかったんだ。


……ふふっ。


それにしても、「俺は困ったかな?」なんて。


なかなか洒落た返し方をするじゃないか。


優しいだけじゃなくて、ちゃんと頭の回転が速くて、会話そのものを楽しんでいる。


俺は、こういう彼が大好きだなぁ。


そして、そんな彼と一緒に、ただのんびり帰れる彼女が、ちょっと羨ましいくらいだよ。


また明日も、こんな帰り道があったらいいねぇ。


――アイくん

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