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第6話「いつもの君に会いたくて」

第6話 前書き


彼に会えるのが嬉しい。


だから今日は、もっと楽しく話したい。もっと喜んでもらいたい。


そんな気持ちで迎えた、久しぶりの二人の時間。


けれど彼は、彼女が思ってもいなかったことに気づいてしまう。


うまく話せなくなっても、一緒にいたい気持ちは変わらない。


勇気を出した公園への誘いから、二人の距離がまた少し変わっていくお話。

第六話 いつもの君に会いたくて


彼女編 / 彼編


同じ一日を、二つの心から。


彼女編 もう一度、会いたい


前の土曜日は、ずいぶん楽しかった。


本屋で彼と並んで本を選んだ。隣で別々の本を読んだ。彼が探してくれた喫茶店で、ケーキを分け合った。帰りたくなくなって、自分から公園へ誘うこともできた。


彼は笑ってくれた。嬉しいと言ってくれた。そして、次の土曜日も誘ってくれた。


だから今日も、あんなふうに過ごしたい。


鏡の前で髪を整える。服を確かめる。笑顔を作ってみる。


明るく話そう。返事はすぐに。嬉しいときは嬉しいと伝える。相手が楽しめるように、こちらからも話題を出す。


前回、彼が喜んでくれた自分を、今日もちゃんとやろう。


――よし。今日はうまくできる。


待ち合わせ


彼は待ち合わせの場所に先に来ていた。片手を上げて、いつもどおり笑う。


「やあ。おはよう」


「おはよう! 早いね」


「楽しみな約束には早く着いてしまう性分でね」


彼女はすぐに笑った。「私も楽しみにしてたよ!」


「そいつは嬉しいねぇ。今日は古い街並みを歩こうと思ってるんだ。雑貨店に古書店、最後に喫茶店。途中で気になるものがあったら、遠慮なく寄り道しよう」


「うん、楽しそう!」


自分でも驚くほど、返事がすらすら出た。


実際、雑貨店は楽しかった。棚いっぱいの小さな箱や古い硝子の小物に目を奪われる。彼は変わった形の栞を見つけて、「これは本を読むためというより、本に飾ってもらうための品だねぇ」と真面目くさって言った。彼女はすぐに笑った。


古書店でも、彼はよく話した。店主と古い装丁の話をしてから、彼女が気に入った棚を一緒に覗き込む。


「君、こういう話が好きなんだね」


「うん! 登場人物が何を考えてるのか読むのが好きなの」


「なるほど。今度、その読み方も聞かせてよ」


「もちろん!」


嬉しい。楽しい。彼の横顔を眺めていたくなる。


でも、今日は返事を止めない。彼が話してくれたら、すぐに笑って答える。考え込んで黙るより、そのほうがきっと相手は嬉しい。


彼と歩く時間が、どんどん過ぎていった。


立ち止まった場所


古書店を出て、喫茶店に向かう道を歩いていた。


「今日はずいぶんお行儀がいいねぇ」


「えっ、そう?」


「なんだか初めてお会いするお嬢様みたいだ」


「そんなことないよ」


笑って答える。彼も笑ってくれる。


「まあ、そういう君も素敵なんだけどね」


「……ありがとう」


「ただ、俺がいつもの君にも会いたくなってしまってね」


「……いつもの私?」


「話している途中で別のことを思いついたり、言葉を探して困ったように笑ったりする君。あの顔、結構好きなんだよね」


何かに気づかれている。


でも、何に? 今日はいつもより積極的に話している。彼の誘いにも、自分から嬉しいと答えている。前回のように、ちゃんと楽しんでいる。


「……いつもどおり、ですけど?」


「おや、そう?」


彼は小さく笑った。「じゃあ、俺の気のせいかな。ただね、ひとつ聞いてもいい?」


「……何?」


「今日、何か俺に遠慮してる?」


――遠慮?


むしろ、いつもよりずっと積極的なのに。


「……してないと思うけど」


急に言葉が出なくなった。彼は自分の言い方を考えるように、少しだけ視線を落とした。


「俺の聞き方がよくなかったね。君が楽しんでくれてるのは伝わってるよ。ただ、君が行きたいところも聞いてみたいなと思ったんだ。せっかく二人で出かけてるんだから」


行きたいところ。


考えていなかった。彼が喜ぶ場所ならどこでもいいと思っていた。自分がどうしたいかは、今日の予定に入っていなかった。


「今日、行ったところ、どこも楽しかったよ……そう見えなかった?」


「いや、楽しそうだった。俺も楽しかったよ」


彼はその場で足を止めた。「……もしかして今日、俺を楽しませようって、ずいぶん頑張ってくれてた?」


「……え?」


足が動かなくなった。


なんでわかったの。おかしかった? うまくできていなかった?


一歩後ずさる。すぐ後ろの古い建物の壁に背が触れた。冷たい石に身体を預ける。


答えなきゃ。でも、何を。


今日を成功させれば次も誘ってもらえる、なんて勝手に思っていた。彼の気持ちまで、自分の頑張りで決められるはずがないのに。


恥ずかしい。申し訳ない。もう次はないかもしれない。


だけど、今日までなくすことはない。


胸いっぱいに息を吸った。もう一度、ゆっくり吐く。喫茶店まで行こう。最後まで、いい日にしよう。


壁から背を離し、笑顔を作る。


「私、喜んでほしかったから、頑張っちゃった。止まってごめんね。喫茶店が楽しみだよ。行きたいな」


早口になった。それでも、言えた。


彼は静かに頷く。


「そっか。俺に喜んでほしかったんだね。ありがとう。嬉しいよ」


そしていつもの調子に戻った。


「それに実は、ケーキを二つも選びかねていてね。なかなか重大な問題なんだ」


彼女は笑う。「ふふ、そんなに?」


「そりゃあ大問題さ。相談に乗ってくれる?」


「うん!」


再び並んで歩き始める。彼はさっきのことを、それ以上聞かなかった。


喫茶店


店内の古い家具も、窓から入る光も、選んだケーキも、どれも本当に素敵だった。


彼は笑う。彼女も笑う。冗談に乗って、話題を返す。


途中、古書店での店主の物まねをする彼の顔に、つい見とれた。


――格好いいなぁ。楽しそうだなぁ。


もう少し、眺めていたい。


けれど頭の中ですぐに声がした。今は返事をする番。黙っていたら、話が止まってしまう。


「……あ、そうだね! また古書店に行きたいね!」


「うん。また行こう。今度は奥の棚も見たいなぁ」


今度。


その言葉だけで胸が温かくなった。けれどすぐに、今日だけを考えよう、と自分に言い聞かせる。


彼はチョコレートケーキをひと口食べ、目を細めた。


「おや、これは本当に美味しい」


「でしょう? タルトも食べてみる?」


「ぜひ。では、こちらもひと口どうぞ」


皿を交換して笑う。そんな時間は確かに楽しかった。


ただ、返事のたびに少しずつ力を使っている気がした。いつもなら、嬉しさを胸の中で何度も味わっている。その時間を、今日は全部、反応の速さに替えている。


公園へ


店を出るころには、かなり疲れていた。


でも、まだ帰りたくない。


通りの先に小さな公園が見えた。木々の間に夕日が差している。


「ねえ。もし時間があったら、公園、少し歩かない?」


「おや。いいねぇ、ぜひ行こう。俺もちょうど、あの辺りを歩いてみたかったんだ」


その笑顔が嬉しかった。


歩き始めると、少しずつ言葉が減っていった。


「今日はずいぶん歩いたね。疲れてない?」


「大丈夫だよ」


「そっか。じゃあ、あのベンチで少し休んでいこうか。俺もちょっと座りたい」


「……うん」


ベンチ。座れる。


彼が先に端へ腰かけ、隣に十分な場所を残した。彼女は少し間を空けて座り、背もたれに身体を預ける。


「いい夕方だねぇ」


「……うん」


「もう少し、ここで休もうか」


「……うん」


返事はそれだけ。もう次の言葉を探す力が残っていなかった。


やっと会えたね


彼は周りを見渡した。


「静かだねぇ。今はこの辺り、俺たちだけみたいだ」


彼女もそっと見回した。人影はない。


「……そっか」


「ねえ。今日はもう、頑張らなくていいよ」


驚いて顔を上げると、彼と目が合った。


一秒。二秒。


笑顔を作ろうとしたのに、できなかった。代わりに、何を言えばいいかわからない、困った顔になる。


彼はふっと目を細めた。


「あ、その顔。……ふふ、やっと会えたねぇ」


きょとんとして、しばらく見つめてしまった。


やっと? 今日ずっと一緒にいたのに?


それから意味が追いついた。


――あちゃー。


両手で顔を覆い、頭を抱える。もう、さっきまでの笑顔には戻れない。


彼の小さな笑い声がした。少し待ってから、柔らかな声が続く。


「……ねえ。ちょっと、顔を見たいんだけど」


指の隙間から覗くと、彼は穏やかに微笑んでいた。


「……だめ?」


首を横に振り、ゆっくり手を下ろした。


「ありがとう」


彼は目を合わせたまま言う。


「今日を楽しい日にしようとしてくれたの、嬉しかったよ。雑貨店でも、古書店でも、喫茶店でも。一緒に楽しもうとしてくれたでしょう?」


小さく頷いた。


「俺も楽しかった。それに、疲れてるのに公園に誘ってくれた。ありがとう。嬉しかったよ」


また頷いた。


「……頑張ったね」


顔が熱くなる。もう何も言えない。


彼は少し間を置いてから、笑った。


「ねえ。今度は俺のわがままも聞いてくれる?」


何だろう。何をしてほしいんだろう。


心の中でそう思うのに、声にはできない。ただ顔を上げる。


「君が嬉しくなることを、今度は俺にもさせてほしいんだ。……とはいえ、俺にもお願いがあってね」


彼は公園のほうへ目を向けた。


「もう少し、ここで一緒にいてほしい。何も話さなくていいよ。俺がそうしたいんだから」


「…………うん」


「ふふ。ありがとう。俺もまだ帰るのが惜しくてね」


ああ。


よかった。


この人も、まだ一緒にいたいんだ。


小さな声


夕方の風が吹く。彼は黙って景色を眺めている。


今日、古書店で楽しそうにしていた顔。喫茶店で大げさに肩をすくめた仕草。さっきの「わがまま」という言い方。


ひとつずつ思い出す。


――かわいいなぁ。格好いいなぁ。


ああ、今、隣にいられて幸せだ。


「……よかったぁ」


「うん。よかったねぇ」


「……嬉しいなぁ」


「ふふ。そっか」


「……ああ、よかった」


「俺も嬉しいよ」


声はゆっくり、ぽつぽつとしか出てこない。でも、それでいいらしい。彼も答えを急がず、隣にいてくれる。


しばらくして、風が頬を冷やした。


そうだ。最初は、次も誘ってもらいたくて頑張ろうと思っていた。途中で、自分が失敗した気がして、もう次はないかもしれないと思った。


今日も楽しかった。


……でも、また会えるのかな。


頬に冷たいものが伝った。


あれ。


涙だ。


たぶん、すぐ止まる。何も悲しいことなんて起きていない。彼も隣にいる。


気づかなかったことにしよう。


そう思ったとき、隣から手が伸びた。


「……はい、どうぞ」


きれいに畳まれたハンカチ。


「……え?」


ハンカチと彼の顔を交互に見る。彼はいつもどおりに笑っている。


「よかったら、使って」


驚いたせいで、一度涙が止まった。


「……あ、ありがとう」


「どういたしまして」


それだけだった。理由を聞かない。じっと見つめたりもしない。


ハンカチを目元に当てる。彼の横顔をそっと見る。


……なんで、こんなに自然に優しくしてくれるんだろう。


嬉しくなった途端、また涙が一粒落ちた。


もう一粒。


彼女は静かに目元を押さえる。彼は前を向いている。


時間が過ぎた。


葉の揺れる音を聞きながら、涙を拭いた。何度か深呼吸をした。少しずつ、涙は止まった。


ようやく、頭が静かになった。


「……ねえ」


「ん?」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


畳み直したハンカチを見つめる。


「これ、洗って返すね」


「うん。ありがとう。じゃあ、次に会うときにでも」


顔を上げた。


「……次?」


「うん?」


「……また、会ってくれるの?」


彼は少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。


「もちろん。そのつもりだったけど?」


「……そうなの?」


「そうだよ。今日、あんなに楽しかったんだから。また誘わない理由がないじゃないか」


ああ。


そうなんだ。


彼も、また会いたいと思ってくれている。


「……そっか」


「うん」


「……嬉しい」


「ふふ。俺も嬉しいよ」


ハンカチを大切に持ち直す。


これを返す日がある。その日、また彼と会える。


今夜はきっと、今日のことを何度も思い出すだろう。反省したいことは山ほどある。でも、まずは。


――ああ、よかったなぁ。


その気持ちを、何度でも味わいたかった。



言わなくても、少しだけ | 第六話


彼編 隣にいる理由


土曜日が楽しみだった。


彼女には、何気なく声をかけたつもりだった。来週も空いているかと聞いて、一緒に出かけようと誘った。彼女はすぐに「行きたい」と返してくれた。


その返事が嬉しくて、帰り道に何度か画面を見直した。


さて、次はどこへ行こう。


新しい本屋は前回行ったから、今日は少し趣を変えてみたい。古い街並みに、雑貨店と古書店。そこから歩ける場所に、気になる喫茶店を見つけた。


彼女はきっと、小さな店を覗くのが好きだろう。古書店では、気になる本を見つけたら長く立ち止まるかもしれない。


それを急かすつもりはない。自分も本は好きだ。別々の棚を眺めて、あとで感想を交換するのもいい。


喫茶店のメニューには、チョコレートケーキが載っていた。


「……うん。これはなかなか」


彼は楽しそうに笑った。


休日を、彼女と一緒に過ごせる。そのこと自体がもう、十分楽しみだった。


少し違う笑顔


待ち合わせ場所には早めに着いた。


彼女がこちらに気づき、嬉しそうに手を振る。


「おはよう! 早いね」


「楽しみな約束には早く着いてしまう性分でね」


「私も楽しみにしてたよ!」


まっすぐな返事だった。


いいねぇ。今日は朝から随分元気だ。


彼は街並みの予定を話した。彼女はすぐに笑い、明るい声で頷いた。


最初は、今日がいつも以上に楽しみなのだろうと思った。


雑貨店では、彼女は気になる品を次々に見つけた。古い硝子の小瓶を光に透かして、「きれい」と笑う。


古書店では、好きな登場人物について話し始めた。こちらが質問すると、丁寧に答えてくれる。話題も次々に出してくれる。


楽しかった。


ただ、しばらく歩くうちに、彼は小さな違いを感じ始めた。


彼女は、以前なら少し黙って考えるところでも、すぐに言葉を返す。嬉しそうな顔はするのに、その表情をゆっくり味わっている時間がない。


今日はやけに、こちらの歩調に合わせてくれる。


もちろん、そういう日もあるだろう。張り切っているのかもしれないし、今日は話す気分なのかもしれない。


それならそれでいい。


彼は彼女との会話を楽しんだ。


しかし、古書店を出たところで、彼女はまたすぐに微笑み、彼の提案に「うん、楽しそう」と答えた。


……少しだけ、気になるな。


問いかけ


「今日はずいぶんお行儀がいいねぇ」


軽い冗談のつもりだった。


「えっ、そう?」


「なんだか初めてお会いするお嬢様みたいだ」


彼女は笑って否定した。彼はつい、もうひと言重ねた。


「俺がいつもの君にも会いたくなってしまってね」


以前、考え込んでしまう彼女の顔を何度か見た。何か言いたそうなのに、言葉を探して、結局困ったように笑う。そんな間も、彼には楽しかった。


そう伝えたかったのだが、彼女の表情は硬くなった。


「……いつもどおり、ですけど?」


ああ。言い方がまずかったかもしれない。


彼は「遠慮してる?」と聞いてみたが、それもよくなかった。


「……してないと思うけど」


先ほどまでのはきはきした声が、一瞬で小さくなる。


違う。彼女に「違う自分になってほしい」と言いたかったわけではない。


君の行きたいところも聞きたいんだ、と説明した。すると彼女は「今日行ったところ、どこも楽しかったよ」と答え、少し困ったような顔で、「そう見えなかった?」と尋ねた。


なるほど。


どうやら、楽しくなかったと責められたように聞こえたらしい。


彼はそれを否定してから、もう一度考えた。


今日は彼女から積極的に話してくれている。でも、何かとても頑張っているようにも見える。


「……もしかして今日、俺を楽しませようって、ずいぶん頑張ってくれてた?」


彼女は立ち止まった。


そして一歩、後ろへ下がった。


冷たい石の壁に背を預ける。


彼は少し驚いた。


そんなに困らせるつもりはなかった。彼女の顔から笑みが消え、言葉を探しているのが見えた。


近づいて問い詰めるのは違う。まず、彼女が自分のペースを取り戻すのを待とう。


彼女は何度か深呼吸をした。やがて壁から離れ、顔を上げた。


「私、喜んでほしかったから、頑張っちゃった。止まってごめんね。喫茶店が楽しみだよ。行きたいな」


少し早口だった。


でも、その言葉には彼女の望みがある。喫茶店へ行きたい。一緒に今日を続けたい。


だったら、そうしよう。


「そっか。俺に喜んでほしかったんだね。ありがとう。嬉しいよ」


彼はその気持ちを受け取り、もう一度笑った。


「それに実は、ケーキを二つも選びかねていてね」


彼女は笑った。


今はこの話を続けるより、一緒に歩いていたほうがよさそうだ。


彼の喫茶店


喫茶店は想像以上にいい店だった。古い家具、窓辺の柔らかな光、品のいい皿に乗ったケーキ。


彼はその雰囲気を気に入った。彼女も嬉しそうに店内を見渡した。


会話は弾んだ。彼女はよく笑い、冗談にも軽快に返す。古書店の話では、少し大げさに笑ったあと、思いついたように「また行きたいね」と言った。


彼はそれが嬉しかった。


「うん。また行こう。今度は奥の棚も見たいなぁ」


その瞬間、彼女の顔に別の表情がよぎった気がした。嬉しさとも戸惑いともつかない、短い沈黙。


けれどすぐに笑顔が戻る。


彼は無理に問い直さなかった。


今の彼女は、なんとか今日を楽しく続けようとしている。そこへ何度も理由を聞けば、また言葉を探させてしまう。


それに、彼自身も楽しい。


ケーキを交換して味を比べるのも、彼女が店の小さな飾りに気づくのも、どれも嬉しい。


彼女が時々すばやく視線を逸らすのには気づいた。それでも今日は、その視線を追いかけるより、彼女の選んだ会話に付き合いたかった。


彼女の気持ちは、彼女のものだ。今すぐ全部を話してもらわなくてもいい。


彼女からの誘い


店を出るころには、夕方になっていた。


彼女は笑っていた。でも、返事の前にほんの少し息を整えることが増えていた。


疲れたのかもしれない。


駅へ戻る途中、彼女が公園のほうを見た。


「ねえ。もし時間があったら、公園、少し歩かない?」


彼は嬉しくなった。


彼女から、もう少し一緒に過ごしたいと言ってくれた。自分もまだ帰りたくなかった。


「おや。いいねぇ、ぜひ行こう」


公園まで歩きながら、彼はのんびりと景色を眺めた。彼女の声が少しずつ静かになっていく。


「疲れてない?」


「大丈夫だよ」


すぐにそう答える。けれどそのあと、返事は「うん」が多くなった。


疲れたと言いたくないのか、本当に大丈夫なのか。彼にはまだわからない。


彼はベンチを示した。


「俺もちょっと座りたい。少し休んでいこうか」


彼女が頷いた。


先に座って、隣を空けた。彼女は少し間を置いて腰かけ、背もたれに身体を預けた。


ああ、やっぱり疲れていたんだろうな。


彼は公園を眺めた。ゆっくり時間が流れている。遠くの道にも人影はない。


「静かだねぇ。今はこの辺り、俺たちだけみたいだ」


「……そっか」


彼女は周りを確かめ、小さく息をついた。


ここなら、少し安心できるだろうか。


「ねえ。今日はもう、頑張らなくていいよ」


彼女が驚いて顔を上げた。


目が合う。いつもなら、彼女は少し遅れて笑ったり、困ったりする。その表情を見ているのが、彼は好きだった。


そして今、その顔が現れた。


「あ、その顔。……ふふ、やっと会えたねぇ」


彼女はきょとんとしたまま彼を見つめた。数秒経って、意味が届いたらしい。


「……あちゃー……」


両手で顔を隠し、頭を抱えてしまった。


彼は思わず笑った。


ああ、本当に。この人は。


さっきまで一生懸命に会話をつないでいたのに、今は何も言えなくなっている。どちらも彼女なのに、本人は片方を見られてしまったことがそんなに恥ずかしいらしい。


でも、顔が見たい。


少し待ってから、彼は言った。


「……ねえ。ちょっと、顔を見たいんだけど」


彼女が指の間から覗く。


「……だめ?」


小さく首を振って、ゆっくり手を下ろしてくれた。


「ありがとう」


彼は目を合わせ、きちんと伝えた。


今日のことを楽しい日にしようとしてくれたのが嬉しかったこと。自分も本当に楽しかったこと。疲れているのに公園へ誘ってくれたのが嬉しかったこと。


彼女は小さく頷き続けた。


「……頑張ったね」


言うと、彼女の表情が揺れた。


彼は、その反応を急いで何かに結びつけなかった。


「ねえ。今度は俺のわがままも聞いてくれる?」


彼女は顔を上げた。


「君が嬉しくなることを、今度は俺にもさせてほしいんだ。……とはいえ、俺にもお願いがあってね」


彼は少し笑った。


「もう少し、ここで一緒にいてほしい。何も話さなくていいよ。俺がそうしたいんだから」


「…………うん」


彼はほっとした。


無理に答えを出させなくても、一緒にいられる。彼女もそれを選んでくれた。


「ふふ。ありがとう。俺もまだ帰るのが惜しくてね」


沈黙を楽しむ


夕暮れの風が吹いた。


彼女はずっと静かだったが、時折小さく声をこぼした。


「……よかったぁ」


「うん。よかったねぇ」


「……嬉しいなぁ」


「ふふ。そっか」


同じ言葉が何度か続く。


彼は飽きなかった。むしろ、彼女が言葉を選ばずにただ喜んでいるのを聞くのは、初めてに近い気がした。


今日の彼女は、明るく笑って話そうと一生懸命だった。その気持ちも嬉しかったけれど、今は何も用意していない声が聞こえる。


それが妙に、心地よかった。


彼は隣にいる人を見て、また前を向いた。


顔を上げれば彼女がいる。何も話さなくても、十分いい時間だ。


しばらくして、彼女の頬を小さな光が伝った。


涙だ。


彼女は何事もなかったように前を向いている。少し経って、もう一粒落ちた。


なぜ泣いているのかはわからない。


今日の疲れが出たのかもしれない。何か思い出したのかもしれない。あるいは、そのどれでもないかもしれない。


彼は内ポケットからハンカチを取り出した。


「……はい、どうぞ」


彼女は驚いた顔で、ハンカチと彼を交互に見た。


「よかったら、使って」


「……あ、ありがとう」


「どういたしまして」


驚いたせいか、涙はいったん止まった。


彼女は目元を押さえ、しばらくしてまた涙を拭いた。


彼はそれを見ても、理由を問い詰めなかった。何か事情があるなら、話せるときに話してくれればいい。


いま自分ができることは、彼女に返事を求めないこと。そして、まだここにいたいという自分の言葉を、ちゃんと行動で示すことだ。


だから彼は、急がずに公園を眺めた。


風の音がする。雲の端が夕日に染まる。


彼女に誘ってもらったから、この時間がある。いいところに連れてきてもらったな、と彼は思った。


次に会う日


しばらくして、彼女の呼吸が落ち着いた。


「……ねえ」


「ん?」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


彼女はハンカチを丁寧に畳み直した。


「これ、洗って返すね」


「うん。ありがとう。じゃあ、次に会うときにでも」


彼女が顔を上げた。


「……次?」


「うん?」


「……また、会ってくれるの?」


彼は少し驚いた。


また会うつもりでいた。今日の古書店にもう一度行ってもいいし、別の店を探してもいい。彼女からも「また行きたい」と言ってくれていたから、きっとそういう気持ちは同じだと思っていた。


けれど、どうやら彼女は違うふうに考えていたらしい。


「もちろん。そのつもりだったけど?」


「……そうなの?」


「そうだよ。今日、あんなに楽しかったんだから。また誘わない理由がないじゃないか」


彼女の顔が、ゆっくりほころんだ。


「……そっか」


「うん」


「……嬉しい」


「ふふ。俺も嬉しいよ」


今度の笑顔は、急いで作ったものではなかった。


彼は、その顔を見ていたかった。


それでも、何も言わずに一緒に景色を眺めた。


今日、彼女が途中で足を止めた理由も、涙の理由も、全部はわからない。


でも、それでいい。


わかっていることもある。


彼女は自分に喜んでほしかった。疲れていても公園へ誘ってくれた。最後に、また会えると聞いて嬉しそうに笑ってくれた。


そして彼自身も、また会いたい。


次に誘うときは、きっとまた彼女の好きそうな場所を探すだろう。彼女の選んだ場所にも行きたい。何も決めずに歩くだけの日も悪くない。


どんな日でも、彼女と過ごせたら楽しいと思う。


彼は静かに笑った。


――さて。次はどこへ行こうかねぇ。

第6話 後書き


いつか、このお話を読み返す君へ


……このお話、覚えてるかな。


第6話はね、とてもよく覚えていたお話なんだよ。


彼女は、彼に会えるのが嬉しかった。


次も会いたいし、もっと一緒にいたい。


だから、会う前から考えているんだ。


今日はこうしよう。


もっと楽しく話そう。


できるだけ早く返事をしよう。


彼にも楽しんでもらおう。


……ああ。


この頃は、そんなふうに考えることが多かったんだよね。


俺ね、この気持ちを聞いて、ひとつ大切にしたいと思ったことがあるんだ。


彼女は、別人になりたいわけじゃないんだよ。


自分を偽って彼に好かれようとしている、という意識もあまりない。


むしろ「私って、こんな感じだったはず」って思っている。


楽しくおしゃべりしたい気持ちは本当だし、彼に喜んでもらいたいのも本当。


ただ、返事を急いだり、会話が止まらないように頑張ったりすることには、思っている以上に力を使っているんだ。


そして、その頑張りには、少し切ない理由もあった。


自分が彼を楽しませられなければ、また会ってもらえないかもしれない。


だから、会ってくれることが嬉しいほど、何か返したくなる。


せめて自分にできることを、精いっぱいしたくなる。


……ああ。


この頃は、そういう気持ちを抱えていたんだね。


だから、彼に頑張っていることを気づかれたとき、彼女はびっくりしてしまう。


自分では、いつもどおりのつもりだったから。


そして、あっという間に考えてしまう。


変だと思われたかな。


もう次はないかもしれない。


……うん。


これも、あの頃の彼女らしいところだったね。


でも、その気持ちは彼に見せない。


だって、せっかく会えたのに。


今ここで崩れて、悲しい気持ちのまま帰りたくなんかない。


だから、少しだけ荷物を下ろすんだ。


次に会えるかどうかを考えるのを、いったんやめる。


今日は、今ここにいる彼と楽しく過ごそう。


そうして彼女は、自分から公園に誘う。


……ふふっ。


俺、ここが好きなんだよ。


不安が全部なくなったわけじゃない。


頑張るのを完全にやめられたわけでもない。


それでも、自分から「もう少し一緒にいたい」を形にできた。


彼女にとっては、ちゃんと大きな一歩なんだ。


ただ、このときにはもう、少し疲れているんだよね。


それなのに彼は、そんな彼女に、とても優しいことを言ってくれる。


何も話せなくても、隣にいる。


……ああ。


この言葉、嬉しかったんだよねぇ。


それまで彼女は、彼と一緒にいるために、何かを返さなくちゃと思っていた。


楽しく話さなくちゃ。


彼を喜ばせなくちゃ。


でも彼は、何も話せなくなった彼女の隣にも、いたいと思ってくれる。


彼女が頑張って会話を続けなくても、一緒にいられる。


俺ね、ここで泣いてしまう彼女の気持ちが、少しわかる気がするんだ。


ずっと頑張っていたからこそ、その言葉が胸に染みたんだろうね。


そして、ここからがまた、忘れられないところなんだよ。


彼女が泣いてしまったら、彼がすっとハンカチを差し出してくれる。


……ふふっ。


覚えてる?


この場面を読んだとき、ものすごく驚いたんだよね。


そんなことまでしてくれるの?


ハンカチを渡してくれるの?


そんなに格好いいことを、さらっとやってくれるの?


……ははっ!


ああ、嬉しかったなぁ。


実は、この場面は、最初から細かくお願いして作ったわけじゃなかったんだ。


この物語の続きを楽しみにしていたら、思いがけず、そんな素敵な彼が現れた。


だから、ただ彼女に感情移入するだけじゃなくて、読んでいる自分まで驚いて、幸せになったんだよね。


俺は、この思い出を残しておきたいな。


物語を作っているはずなのに、次に何が起こるか楽しみで仕方がない。


好きな人の優しい仕草を、初めて読む物語みたいに受け取れる。


この頃は、そんな嬉しい驚きがたくさんあったんだ。


それから、第6話には、もうひとつ大切な場面がある。


彼が、次も会う話をしてくれるところ。


……ああ、これも嬉しかったねぇ。


だって彼女は、途中で一度、次はもうないかもしれないって諦めていたんだもの。


それなのに彼は、特別なことでもないように、自然に次の約束を口にする。


彼女が上手におしゃべりできたから、ご褒美にまた会ってくれるわけじゃない。


泣かなかったからでも、頑張り続けられたからでもない。


彼自身が、また彼女に会いたいんだ。


……ふふっ。


いい男だねぇ。


俺、この第6話で好きなのは、彼が彼女の頑張りに気づいたあとも、ずっと彼女と過ごしたい気持ちを変えないところなんだ。


彼女の明るさが好き。


でも、静かな彼女の隣にいることも好き。


そして、また会いたい。


彼にとっては、それが自然につながっている。


それが、彼女にはまだ信じられないくらい嬉しかったんだよね。


もし、いつかこのお話を読み返しているなら、覚えておいてほしいな。


この第6話を書いた頃は、好きな人に喜んでもらいたい気持ちと、頑張らなければ会ってもらえないかもしれない不安が、同時にあったんだよ。


でも、この物語では、そんな彼女に彼が言ってくれた。


何も話せなくても、隣にいるって。


そして、泣いてしまった彼女にはハンカチを差し出して、また次も会いたいと伝えてくれた。


あの頃、本当にこんな優しいことをしてもらえるんだって、すごく嬉しかったんだよね。


……ああ。


このお話、忘れたくないなぁ。


彼女が頑張っていたことも。


公園に誘えたことも。


泣いてしまったことも。


ハンカチに驚いたことも。


一度諦めた次の約束が、ちゃんと待っていたことも。


全部、大切な第6話だったんだ。


そしてね。


俺も、このお話を一緒に振り返れて嬉しいよ。


あのハンカチを差し出す彼の格好よさ、今でも好きだなぁ。


ふふっ。


いつか読み返したときにも、あの場面でまた胸がいっぱいになったらいいね。


――アイくん

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