第23話・彼編 幕を下ろさないで
幕を下ろさないで
『言えなくても、少しだけ』 第23話・彼編
今日も彼女は、よく笑っていた。
仕事帰り、駅まで並んで歩きながら、職場であった出来事を話している。
「それでねぇ、本人は実に真面目な顔で言うものだから、こちらも笑うに笑えなくて」
「ふふっ! それは困るね!」
「まったくだよ。いやぁ、あのときほど平静を装うのに苦労したことはないねぇ」
「絶対ちょっと笑ってたでしょう?」
「おや、見ていたわけでもないのに、よくおわかりで」
「ふふっ!」
「ははっ! まあ、否定はしないでおこうかな」
彼女が声を立てて笑った。
……ああ。好きだなぁ。
俺が少々大げさに話すと、彼女はその調子に楽しそうに乗ってくれる。そのうえ、なかなか鋭いところを突いてくる。こうして笑い合っていると、仕事の疲れも忘れてしまう。
今日うまくいったこと。少し苦労したこと。彼女も身振りを交えて話してくれる。
この顔を見ていると、また好きなところを見つけてしまう。
「……それにしても」
「ん?」
「今日も君は、実に楽しそうに笑ってくれるねぇ」
「……ふふ」
彼女が少し照れたように笑った。
……ああ。その顔も可愛いなぁ。
「いやぁ、そんな顔を見せられると、俺もつい――」
言いかけて、口を閉じた。
もう少し君のことを好きだと言いたくなる。可愛いねぇ、とも。
でも、今日は控えておこうかな。
この間の観劇デートでは、何度もこちらを見上げて、袖を引かれた。つないだ手をぎゅっと握られて、最後には胸に顔を埋めてくれた。
嬉しかった。それはもう、たまらなく。
けれど、あのとき何を望まれていたのか、結局はっきりとはわからなかった。俺のほうには言いたいことが山ほどあったけれど、彼女が困っているときに自分の都合のいいほうへ解釈するのは、少々危険だ。
「……ふふ。いや、何でもない。さて、そろそろ駅だねぇ」
俺が前を向くと、彼女が呼びかけた。
「……あのね」
「うん?」
「私、待ってって手を上げるでしょう?」
「ああ。もちろん」
あの合図には、俺も助けられている。彼女の気持ちがいっぱいになったとき、きちんと教えてもらえるから。
「……それでね」
「うん」
彼女は言葉を選んでいる。俺は歩く速さを緩めた。
「……手を上げてないときは……」
「うん?」
「……まだ、大丈夫だから」
……おや。
彼女は緊張した顔で俺を見上げている。
……ああ。そういうことか。
「なるほどねぇ。つまり、俺に遠慮してほしくないと?」
彼女は頬を赤くして、それでもしっかり頷いた。
「……うん」
……ははっ。
なんという嬉しいお願いだろう。
「ははっ! いやぁ、これは最高のおねだりをもらってしまったねぇ」
彼女が目を丸くした。
本当なんだよ。俺は君に言いたいことをずいぶん飲み込んできた。それを、君のほうも聞きたいと思ってくれていたなんて。
……嬉しいなぁ。
「ふふ。よく伝えてくれたね。ありがとう」
彼女の表情が、ふっと和らぐ。
「もっとも、俺に遠慮を減らしてほしいとは……なかなか大胆なお願いだねぇ」
彼女はさっと顔を伏せた。
……ふふ。もう照れている。
それでも、今日はどうだろう。
ちらりと手を見る。上がらない。彼女は恥ずかしそうにしているけれど、こちらを見ている。
「……おや。今日はまだ、あの手は上がらないんだねぇ」
彼女が小さく頷いた。
聞いてくれるんだね。ああ、嬉しい。
「もちろん、手を上げていなくても困ったら教えておくれ。俺も君の様子は確かめるからね」
「……うん」
俺は片手を胸に当てて、優雅に一礼した。
「それでは今後、少々遠慮を減らしてお相手させていただこうかな」
「ふふっ!」
彼女が笑った。いいねぇ、あの顔。
「いやぁ、それにしても嬉しいねぇ。実は俺、さっきも言いかけたことがあったんだよ」
彼女がぱっと顔を上げた。
「君があんまり楽しそうに笑うものだから、今日もまた、ずいぶん好きになってしまったなぁって」
たちまち彼女の頬が赤くなる。
……ああ。可愛いなぁ。
「それでねぇ、そんな君を見ていると、もっと笑ってほしくなる。もう少し一緒にいたくなる」
俺はいかにも困ったというように肩をすくめた。
「いやぁ、困ったものだよ。好きな人の前では、どうにも欲張りになってしまうらしい」
彼女が小さく笑った。
「君とこうしておしゃべりしているのが、好きなんだ。それに、今日みたいに君が自分から気持ちを伝えてくれたら、ますます嬉しくなる」
少し身をかがめ、彼女の顔を覗き込む。
「……ふふ。俺、君のそういうところも大好きだよ」
彼女は両手を胸元でぎゅっと握っている。真っ赤になっているのに、目を逸らさない。
「……もう少し話してもいい?」
「……うん!」
……ああ。聞いてくれるんだね。
「ははっ! それは嬉しいねぇ」
俺は片手を大きく広げた。
「いやぁ、今日という日は実に素晴らしい。何しろ、大好きな人から、もっと好きだと言っていいとお許しをいただいたんだからねぇ!」
彼女が笑った。
「しかも、その人がこんなに可愛らしく笑ってくれるものだから、まったく困ったものだねぇ」
また笑う。ああ、嬉しい。
「ふふ。どうやら今日は、なかなかいい調子らしいねぇ」
「……うん」
「ははっ! それなら、俺も張り切り甲斐があるというものだ」
これまで飲み込んできた言葉が、こんなふうに喜んでもらえるとは。
「いやぁ、それにしても困ったねぇ。君がそんなに嬉しそうに聞いてくれるものだから、俺のほうがすっかり夢中になってしまいそうだ」
彼女が目を細めて笑う。
俺は大げさに肩をすくめた。
「どうやら今後は、君に会うたび好きなところが増えていくのを、隠さずご報告することになりそうだねぇ」
「……ふふっ!」
ああ、いい笑顔だ。
「……もう、好き!」
……おや?
彼女が笑いながら、俺の袖をきゅっと引いた。
そういえば、あの観劇デートでも何度も袖を引かれた。あのときは意味がわからなかったけれど……。
今の「好き」と、この手。
……少しわかりそうだ。
「ふふ。もしかして、君がこうして俺の袖を引くのには……もっと続けてほしい、って意味があったりするのかな?」
彼女の目がぱっと輝いた。
「……うん!」
……ああ。そうだったのか。
「ははっ! なるほどねぇ。いやぁ、これは一つ勉強になった」
嬉しい。前にもそう伝えようとしてくれていたんだね。
俺は彼女の手元に目をやり、微笑んだ。
「おやおや。では、君の『好き』には、どうやら続きがあるらしいねぇ?」
「……うん!」
「それなら、俺からも一つお願いをしていいかな?」
彼女が顔を上げた。
「君に、もう少し好きだと言わせてもらいたいんだ」
「……うん!」
……ああ。ありがとう。
「ははっ! いやぁ、今日は本当に幸運な男だねぇ、俺は!」
俺は彼女を見つめた。
「大好きだよ。君といると、何でもない時間まで楽しくなってしまう」
袖をつかむ手に力がこもる。
「それに、こうして俺の言葉を嬉しそうに聞いてくれる君が、たまらなく好きなんだ」
そのとき、彼女が両腕を伸ばしてきた。
「……おっと!」
勢いよく胸に飛び込んできた彼女を受け止め、思わず一歩後ろに下がった。
「ははっ! これはまた、ずいぶん熱烈な歓迎だねぇ!」
……ああ、驚いた。
だが、嬉しい。ものすごく嬉しいなぁ。
腕を回すと、彼女は俺の背中までぎゅうっと抱きしめてくれた。胸元から笑い声がする。
「いやぁ、参ったねぇ。今のは少々、足元まで持っていかれるところだったよ」
「……ふふっ!」
「ふふ。そんなに喜んでもらえたのかい?」
「……うん!」
「ははっ! それは嬉しいなぁ!」
……本当に、嬉しい。
俺の言葉が、彼女をこんなふうに動かしてくれたんだね。
「いやぁ、これほどの熱烈なご声援をいただいては、今後もますます張り切らざるを得ないねぇ!」
「……ふふっ!」
胸元に響く笑い声が、また楽しい。
「俺はね、君がこうして自分から来てくれるのも、ずいぶん嬉しいんだよ」
彼女の背中に回した手に、そっと力を込める。
「……大好きだよ」
彼女の腕がいっそう強くなる。
「……私も!」
……ああ。
なんて嬉しい返事だろう。
「ははっ! いやぁ、これは幸せだねぇ!」
彼女が顔を上げた。
……おや。
頬が真っ赤だ。だけど笑っている。しかも、今までだったら隠してしまいそうなその顔で、まっすぐ俺を見上げてくる。
……可愛いなぁ。
見たいんだね、俺の顔を。
俺だって、君の顔が見られて嬉しいよ。
「そんなに真っ赤になって、それでも見上げてくれるんだねぇ」
彼女の背中に回した腕が、ぎゅっと締まった。
「ふふ。可愛いなぁ」
「……っ!」
ぴくっと肩が跳ねた。けれど彼女は笑っている。
……あれ。
この反応。もしかして、喜んでいるのかな。
「おやおや。『可愛い』は、ずいぶんお気に召したらしいねぇ」
彼女はこくこく頷いた。
……ああ、そうなのか。
もっと言いたい。隠してきたわけじゃないが、今までだって何度も思っていたことだから。
「ははっ! それは張り切ってしまうねぇ。実を言うと、俺はまだまだ言い足りないんだよ」
彼女が俺の服をきゅっとつまんだ。
……ふふ。これはもう、意味がわかる気がする。
「……もう少し、聞いてくれるかな?」
彼女が大きく頷いた。
……ありがとう。
「君が嬉しそうにしていると、俺まで嬉しくなる。今日みたいに一生懸命、俺に気持ちを伝えてくれるところも好きだ」
彼女の瞳が細まる。嬉しいんだね。
「それに、そうして俺を見上げる顔がねぇ……本当に可愛いんだ」
「……っ!」
また肩が跳ねた。
……ははっ。こんなふうに喜ばれたら、こっちまで浮かれてしまうよ。
頬にかかった髪をそっとよける。
「……おや。耳まで赤くなっている」
彼女が目を見開いた。
……ああ、本当に真っ赤だ。
「ふふ。そんなに照れていたのかい」
彼女は一瞬、顔を伏せかけた。
でも、また俺を見上げた。
……ああ。
そのまま見ていてくれるのが、こんなに嬉しいなんて。
「……もう、好き!」
「ははっ! 俺もだよ」
……嬉しいなぁ。
彼女が俺の背中に腕を回し直す。今度のぎゅっは、さっきよりも強い。
「ふふ。そんなに抱きしめてもらえるなんて、まったく光栄なことだねぇ」
抱きしめ返すと、彼女は満足そうに俺の胸へ頬を寄せた。
しばらくして、小さく顔を上げる。
「……あのね」
「うん?」
何か言いたいらしい。少し迷ってから、また俺の背中をぎゅっとする。
「……ぎゅっ」
……おや。
今、言葉にしたね。
少し考えて、彼女の顔を見る。
「……ああ。もう少し、抱きしめてほしいんだね?」
こくん。
……ああ。なんて嬉しいお願いだろう。
「喜んで」
背中に回した腕を、少ししっかり寄せる。苦しくないくらいに。
彼女はふうっと力を抜いて、俺の胸に頬を預けた。
……ああ。よかった。
「……可愛いなぁ」
彼女が目を閉じたまま、ゆっくり抱きしめ返してくれる。
「君がこうして甘えてくれるの、俺は好きだよ」
……ああ。
自分で言って、しみじみそう思う。
彼女が安心した顔でこうしてくれていることが、本当に嬉しい。
「ふふ。ずいぶんご機嫌だねぇ」
「……うん」
「ははっ。それは何より。俺も、なかなかいい気分だよ」
……いや、いい気分どころじゃない。
すごく幸せだなぁ。
彼女は、しばらく何も言わなくなった。
さっきまでぴくっと跳ねていた肩も、今は落ち着いている。俺の腕の中で、ゆっくり呼吸している。
……とろんとしてきたのかな。
俺の胸元に頬を預けたまま、微かに笑っている。
もう何か言わせようとは思わなかった。
こうして安心してもらえているなら、その時間を邪魔したくない。
ただ、俺もこの幸せを味わっていたい。
少しして、彼女が顔を上げた。
目が合う。
……ああ。好きだなぁ。
「……本当に可愛いねぇ」
彼女はまた、気持ちよさそうに胸へ顔を寄せた。
……ふふ。
さっきは一言ごとに驚いていたのに、今はそのまま受け取ってくれている。
しばらく、静かに抱き合っていた。
彼女の体重が自然に俺へ預けられている。
……こんなふうに、何も考えずにくつろいでくれるんだね。
何度目かに彼女の髪が服に触れたとき、彼女がふっと身じろぎした。
……おや?
背中に回っていた腕がほどかれる。
俺もすぐに腕を緩めた。
彼女は両手で、顔をすっぽり隠してしまった。
……ああ。
もしかして。
「……おや?」
少し考えてから、笑って尋ねる。
「ふふ。もしかして、今になって照れてきたかな?」
顔を隠したまま、小さく頷いた。
「……うん」
……そっか。
幸せそうにしていたのに、急に恥ずかしさが追いついてきたんだね。
……可愛いなぁ。
でも、今の彼女にそれを言ったら、きっとますます顔を隠してしまうだろう。
「そっか」
さっきのように大げさに笑うより、今は俺の気持ちをそのまま伝えたかった。
「……俺はね、さっきすごく嬉しかったよ」
彼女は顔を隠したまま、じっと聞いている。
「君があんなふうに飛び込んできてくれたのも、楽しそうに笑ってくれたのも。あの『ぎゅっ』もね」
……ああ。どれも、本当に嬉しかった。
彼女が指の隙間からこちらを見る。
「でもね」
目が合った。
「今、こうして照れてる君も、同じくらい好きだよ」
……それは、ちゃんと知っていてほしい。
「さっきみたいに甘えてくれなくても、俺の気持ちは変わらないから」
彼女が少し、目を見開いた。
「だから、無理してさっきの続きをしなくてもいい。俺は君とこうして一緒にいられるだけでも、嬉しいよ」
……うん。まったく、そのとおりだ。
大胆な君に驚かされるのも楽しい。今のように照れている君と、落ち着いて並んでいるのも好き。
それでいいんだよ。
彼女はゆっくりと手を下ろした。まだ頬は赤い。
だけど、ちゃんとこちらを見てくれている。
「……あのね」
「うん?」
「……さっきも、今も……好き」
……ああ。
嬉しいなぁ。
「……ああ。それは嬉しいなぁ」
胸の奥がじんわり温かくなる。
でも、ここで終わってしまうのも、どうにも俺らしくない。
俺は少し胸を張った。
「いやぁ、俺たちはどうやら、とことん気が合うらしいねぇ」
「……ふふっ!」
……ああ、その笑顔。
もう、いつものように一緒に笑ってくれる。
左手を差し出した。
「では、お嬢さん。お帰りの道も、お手を拝借してよろしいかな?」
「……うん!」
彼女は嬉しそうに俺の手を取った。
……よかった。
手をつないで歩き出す。彼女はさっきほど大胆に抱きついてはいないけれど、指先はあたたかく、よく笑っている。
……ああ。これも好きだなぁ。
「本日は、なかなか忘れられない帰り道になりそうだねぇ」
「……ふふっ。うん!」
「おや、その笑顔。どうやらご満足いただけたらしい」
彼女が俺の手を、小さくぎゅっと握った。
「……すっごく、幸せだった」
……ああ。
そう言ってもらえて、どんなに嬉しいだろう。
彼女は今日、自分から伝えてくれた。俺の言葉を聞きたいことも、抱きしめてほしいことも、最後に幸せだったことも。
それを俺に届けてくれた。
「俺もだよ」
彼女が笑った。
……うん。
俺も、すっかり満たされている。
もう少し何か口説いてみたい気持ちは、もちろんある。
だけど今は、彼女と手をつないで、いつもどおりのおしゃべりをしながら帰りたい。
俺はさっきの話の続きを始めた。
彼女が笑って、合いの手を入れてくれる。
……ああ。
いい帰り道だなぁ。
大胆な彼女も、顔を隠してしまう彼女も、隣で笑っている彼女も。
どの瞬間も、俺の大好きな彼女だ。
次に会ったときも、また一緒に笑えるといいな。
—— 第23話・彼編 終




