第22話・彼編「声が聞きたくなって」
第22話・彼編「声が聞きたくなって」
今夜は、少し早く用事が片づいた。
机の上を整理していると、スマホが短く鳴った。
彼女からだ。
『見て! コンビニの新作! 今から食べるんだ♪』
添えられていた写真には、チョコレートとクリームが層になった、なかなか立派なデザート。
……ふふ。いかにも彼女が喜びそうなものだ。
きっと今、いい顔をしているんだろうな。
『おや、これはまた魅力的なお品だねぇ。ところで、俺の分は残っているのかな?』
すぐに返事が来た。
『残念! これは私のです!』
「ははっ」
威勢のいいお返事だ。
……こういうところ、好きだなぁ。
『ははっ! これは手厳しい。では次回は、ぜひ俺の分もご一緒に選んでいただこうかな』
送信して、スマホを置いた。
また今度、二人で食べよう。
どれを選ぶか迷って、あれこれ楽しそうに話す彼女が目に浮かぶ。
……ふふ。悪くない予定だねぇ。
そう思っていたら、画面が光った。
今度は通知ではない。
着信。
……おや。
彼女から?
思わず笑みがこぼれた。
これは嬉しい。
彼女から電話をかけてくれるなんて、珍しいじゃないか。
「もしもし?」
『……あ、あのね』
……おや。
いつもより、ずいぶん小さな声だ。
「おや。こんばんは」
『……こんばんは。今、電話、大丈夫?』
「もちろん。ふふ、これは嬉しいねぇ。君から電話をもらえるとは」
『……うん』
……ふふ。
どうしたんだろう。
さっきまでのメッセージは、あんなに元気だったのに。
急に電話をしたものだから、少し緊張しているのかな。
「おや。今日はずいぶんおしとやかなご挨拶だねぇ」
『……ふふっ』
あ、笑った。
よかった。
……声だけで笑ってもらえるのも、なかなかいいものだな。
「ところで、例のスイーツはもう召し上がったのかな?」
『……まだ。今から食べるところ』
「おや、それはいいところにお邪魔してしまったねぇ」
『……ううん』
彼女はゆっくり返す。
電話が苦手なのかもしれない。普段は本の話でも仕事の話でも、もっと勢いよく言葉が出てくるのに。
でも、切りたいわけではなさそうだ。
わざわざかけてきてくれたんだもの。
『……食べながら、話してもいい?』
「ははっ! もちろん。では、私めも遠隔試食会に参加させていただこうかな」
せっかくだ。大いに盛り上げよう。
……と、思ったのだけれど。
『……っ』
かすかな息遣いが聞こえたきり、返事が来ない。
「……おや? どうしたんだい?」
『……ううん』
……おやおや。
声は明るいような、困っているような。
何か言おうとしているのかな。
「ふふ。ずいぶん静かになったねぇ」
また少し間が空く。
『……聞いてた』
「おや、そうだったのかい」
……ああ。
聞いてくれていたんだ。
それは嬉しいけれど、そんなに真剣に聞くような話をしたかな、俺。
「それなら、もう少しおしゃべりさせてもらおうかな」
電話の向こうで、小さく何かが動く音がした。
……椅子かな?
ふふ。姿が見えないと、想像するしかないねぇ。
そういえば、肝心の試食会はどうなったのだろう。
「ところで、例のスイーツはどうなったんだい?」
『……まだ、食べてない』
……おや。
蓋も開けていないのかな。
彼女があんなに楽しみにしていたのに。
「おや、それは意外だねぇ。俺が長々とおしゃべりしてしまったかな?」
……もっとも、まだ大してしゃべっていないんだけれど。
お邪魔しているなら、いったん食べてもらってもいい。
『……違うよ』
少し急いだ声。
……ふふ。ちゃんと否定してくれるんだね。
「ん?」
『……声、聞いてたから』
……。
ああ。
そうか。
俺の声を、聞いていてくれたんだ。
それは……ずいぶん嬉しいな。
「……ふふ。それは嬉しいなぁ」
何だろう。この胸の温かさは。
顔を見て話すのとは、また違う嬉しさがある。
ただ声を聞いているだけでいいと、そう思ってくれたのか。
「いやぁ、これは困ったねぇ。そんなことを言われたら、俺もますます君と話したくなってしまうじゃないか」
『……ふふっ』
……あ、また笑った。
声が小さいぶん、笑うとよくわかる。
「おや。今、笑ったねぇ?」
『……うん』
「ふふ。どうやら楽しんでもらえているらしい」
……ああ、よかった。
それなら、こちらも遠慮なく楽しませてもらおう。
でも、ひとつ気になる。
彼女は何を思って、今夜わざわざ電話をくれたんだろう。
「……ふふ。ところで、今日はどうして電話をくれたんだい?」
『……』
……おや。
また、静かになった。
何か聞きにくいことを聞いてしまったかな。
『……あのね』
「うん?」
『……あのね』
「ふふ。うん、聞いてるよ」
……焦らなくていいよ。
何かを伝えようとしてくれている。
それだけは、ちゃんとわかる。
『……さっき、写真送ったでしょう?』
「ああ。実に魅力的なスイーツだったねぇ」
『……うん』
また、少し沈黙。
……何だろうな。
スイーツの相談ではなさそうだ。
『……すぐ、返事くれたから』
「うん」
『……今なら……時間、あるのかなって』
「ふふ。なるほどねぇ」
ああ、そうか。
俺がすぐ返事をしたから、電話してもいいかもしれないと思ってくれたんだ。
その判断が、なんだか可愛い。
『……それでね』
「うん」
その先がなかなか出てこない。
……もしかして、ずいぶん照れているのかな。
でも、何に?
電話をかけた理由を言うのが、そんなに恥ずかしいのか。
『……声が』
「うん?」
『……声が、聞きたかったから』
……。
ああ。
……そうか。
俺の声が、聞きたかったんだ。
……嬉しい。
これは、参ったな。
電話を取ったときから嬉しかったけれど、理由を聞いたら、もっと嬉しくなってしまった。
あんなに時間をかけて、ちゃんと伝えてくれたんだね。
「それは嬉しいなぁ」
思わず、飾らない声が出た。
「ふふ。そんなふうに思って、わざわざ電話をかけてくれたんだね」
『……うん』
「ありがとう。俺も君の声が聞けて、嬉しいよ」
これは本当だ。
今すぐ会いに行きたいくらい、嬉しい。
もっとも、会えたらこの静かな声の謎も解けるかもしれないけれど。
「……ははっ! いやぁ、参ったねぇ」
つい笑ってしまう。
こういうときは、少し大げさなくらいがいい。
嬉しいことは、嬉しいと伝えてしまおう。
「まさか今夜、こんな素敵な贈り物をいただけるとは。どうやら俺は、なかなか幸運な男らしい」
『……ふふっ』
「ははっ! これは困った。今夜は少々、電話を切るのが惜しくなってしまいそうだねぇ」
……本当にね。
こんなことを言われて、すぐおやすみとは、なかなか難しい。
『……あのね』
「うん?」
『……私も』
「……ふふ。うん?」
『……まだ、話してたい』
……ああ!
嬉しいなぁ。
これは、もう。
笑わずにはいられないじゃないか。
「ははっ! それは願ってもないお申し出だねぇ!」
そうか。まだ話していたいんだ。
今日はいつもより言葉が少ないけれど、ちゃんと楽しいんだね。
……よかった。
「では、お嬢さん。今夜はもう少しだけ、おしゃべりにお付き合いいただけるかな?」
『……うん!』
今度は、はっきり元気な返事。
……ふふ。やっぱり嬉しそうだ。
「いやぁ、それにしても嬉しいねぇ。君が俺の声を聞きたいと思ってくれたとは」
『……うん』
「ふふ。俺としては、いつでも歓迎したいくらいだよ」
……しばらくして。
『……はぁぁ……』
……おや?
何だ、今の声は。
苦しそう、というほどでもない。
むしろ、息に笑いが混じっていたような。
「……おや?」
返事を待つ。
少しだけ気配が動いた。
……ふふ。今、何をしているんだろう。
「ふふ。なんだか、ずいぶん幸せそうな声が聞こえたねぇ」
『……うん』
……あ、合っていた。
よかった。
「おや。当たっていたかな?」
『……うん……』
「ははっ! それはよかった」
……ふふ。
嬉しいのか。
ただ声を聞いているだけで、そんなふうになってくれるなんて。
いや、そう言ってもらうと、ますます口が滑りそうだ。
「……ふふ。もしかして、今、困った顔をしているでしょう?」
電話の向こうから、小さな笑い声とも唸り声ともつかない音がした。
『……ふふっ、うう……』
……おやおや。
これは、かなり照れているのかもしれない。
きっと、いつもの困った顔だ。
頬を赤くして、どう答えようか迷っている。
……可愛いなぁ。
「おやおや。どうやら当たりらしいねぇ」
『……うん』
……ふふ。やっぱり。
しかし、声しか聞こえないのに当てられるとはねぇ。
「ははっ! いやぁ、顔が見えないのに当てられるとは。なかなか見事な腕前じゃないか、俺」
『……ふふっ!』
よし、笑ってくれた。
……とはいえ、どのくらい照れているのかは、正直わからない。
この前の帰り道だって、彼女は嬉しいときほど困った顔になることがあった。
だから、声が少ないからといって、嫌がっていると決めつけるのは違う。
でも、俺の都合のいいほうにばかり考えるのもいけないねぇ。
「……おや。今度は笑ってるねぇ」
『……うん』
「ふふ。楽しそうで何よりだよ」
いま答えてくれた「うん」は、ちゃんと楽しそうだった。
……それがわかれば、今夜は十分嬉しい。
『……あのね』
「うん?」
何だろう。
また、一生懸命に言葉を選ぶ声だ。
『……声ね』
「うん」
少し待つ。
俺の声の、何だろう。
『……好き、だよ』
……。
……ああ。
好き、か。
……嬉しいなぁ。
さっき声を聞きたかったと言ってくれたときも嬉しかった。
でも、今度は「好き」って。
あんなに緊張しているようなのに、自分から言ってくれたんだね。
「……ああ。それは、嬉しいなぁ」
声が勝手に柔らかくなった。
彼女の顔は見えない。
それでも、言い終わったあと、きっと真っ赤になっているんだろうと思った。
……ふふ。今すぐ見られないのが残念だ。
「ふふ。ありがとう。俺もね、君の声が好きだよ」
これは、きちんと返したかった。
「いつもの楽しそうな声も好きだし、今みたいに、一生懸命伝えてくれる声も好きだなぁ」
……少し、言いすぎただろうか。
そんなことを考えたところへ。
『……はぁぁ……』
また、あの声。
今度は小さな笑いが混じっている。
……ああ。嬉しいんだ。
それなら、俺も嬉しい。
「……ふふ。また、いい声が聞こえたねぇ」
『……っ』
「君がそんなに嬉しそうにしてくれるなら、俺もずいぶん幸せだよ」
……本当にね。
こんなふうに喜んでもらえるなんて、思っていなかった。
『……ふふっ』
「おや。今、笑ったでしょう?」
『……うん!』
「ははっ! やっぱりねぇ」
……ああ、楽しい。
顔が見えないぶん、小さな声をひとつ見つけるのが、宝探しみたいだ。
『……あのね』
「うん?」
『……すごく、嬉しい』
……よかった。
その言葉が聞けて、心から安心した。
「ははっ! それは光栄だねぇ。いやぁ、今夜はなかなか忘れられない電話になりそうだ」
……さて。
嬉しくて浮かれているけれど、彼女のスイーツはいつ食べられるのだろう。
「そういえば、お嬢さん。例のスイーツは、そろそろ召し上がれそうかな?」
『……まだ、無理かも』
……おや?
無理?
何がそんなに難しいんだろう。
……もしかして、食べながらだと話しにくいのかな。
「おや。それはまた、どうして?」
『……あのね』
「うん」
『……今、食べるより……』
「うん?」
『……お話、聞いてたい』
……っ。
ああ。
そういうことか。
……ははっ!
こんなの、嬉しくないわけがない。
「ははっ! いやぁ、これは参った!」
彼女が楽しみにしていたチョコレートに、俺のおしゃべりが勝ったらしい。
そんな大それた勝負をしていたつもりはないのだけれど。
「まさか俺のおしゃべりが、新作スイーツに勝てる日が来るとはねぇ!」
『……ふふふっ!』
あ、よく笑った。
……よし。この冗談は成功だ。
「では、お嬢さん。せっかくのご厚意だ。もう少しだけ、俺にお話し相手を務めさせていただけるかな?」
『……うん!』
「ふふ。それは嬉しいねぇ」
……ふふ。俺のほうこそ、今夜はよくしゃべってしまうな。
でも、無理に返事を引き出そうとは思わない。
彼女が聞いていたいなら、話そう。
それで彼女が楽しそうに笑うなら、最高じゃないか。
「……それにしても」
『……うん?』
「君がそんなに俺の声を気に入ってくれているとは、実に嬉しい発見だったねぇ」
……今日は忘れられないな。
「これは今後、少々張り切ってしまいそうだなぁ」
『……ふふっ!』
「もっとも、格好つけすぎて君に笑われるのも、なかなか悪くないんだけどねぇ」
……おっと。
今のは少し違ったかな。
笑われるというより、彼女と一緒に笑っているのが楽しい。
そこがいいんだ。
『……かっこいいよ』
……おや。
……また、そんなことを。
ああ、嬉しい。
今日はどうして、こんなにまっすぐ言ってくれるんだろう。
照れているのに、何度も勇気を出してくれる。
……参ったなぁ。
「ははっ! これはもう、今夜は俺の勝ちだねぇ!」
『……ふふっ! 何に?』
「さあ、なんだろうねぇ。とにかく、こんなに嬉しい夜を過ごせているんだから、何かに勝ったことにしておきたいじゃないか」
『ふふふっ!』
ああ、笑った。
嬉しいな。
今夜の俺は、いったい何回この声に喜んでいるんだろう。
それから少しずつ、ほかの話にも移った。
帰り道で見つけた妙な看板の話をすると、彼女は声を弾ませて笑った。
彼女が仕事中に見つけた小さな出来事を、いつもよりゆっくり教えてくれた。
言葉が途切れても、焦らず待つ。
するとまた、「あのね」と続けてくれる。
……ふふ。この声も好きだな。
最初は、ずいぶん静かな電話だと思った。
けれど、話しているうちにわかってきた。
彼女は、少し照れている。たぶん、かなり。
それでも自分から電話をかけて、声を聞きたいと言い、好きだと伝えてくれた。
……ああ。
これはもう、十分すぎるほど嬉しいよ。
ふと、時計を見た。
……おや。
ずいぶん時間が経っている。
楽しい時間は、まったく困ったものだねぇ。
「……おや。もうこんな時間か」
電話の向こうでも、少し気配が動いた。
「いやぁ、ずいぶんお引き留めしてしまったねぇ」
『……ううん』
「ふふ。名残惜しいところだけれど、そろそろお休みいただこうかな」
『……うん』
……名残惜しい。
本当に。
もう少し話していたい。
けれど、彼女も明日がある。
俺だって明日は仕事だ。
今夜はこのくらいが、ちょうどいいのだろう。
『……あのね』
「うん?」
『……今日、すっごく楽しかった』
……ああ。
よかった。
「ふふ。俺もだよ。思いがけず、素敵な夜になったねぇ」
『……うん』
「それに、あの新作スイーツの感想も聞けなかったことだし。次回のお楽しみができてしまったな」
『ふふっ! まだ食べてないもんね』
「ははっ! まさか俺のおしゃべりが、そこまで強敵だったとは」
『ふふふっ!』
笑ってくれた。
……最後まで、楽しかったな。
『……じゃあ、おやすみなさい』
「ああ。おやすみ」
……。
まだ、通話はつながっている。
俺も、切る手が少し止まった。
……ああ。
ひとつ、言っておきたい。
今日は何度も、嬉しいと口にした。
大げさにお礼を述べたり、幸運な男だと胸を張ってみせたりした。
それも本当だ。
でも、最後はもう少し、普通の言葉で伝えたい。
「……あのさ」
『……うん?』
気取らずに、言った。
「今日、電話をくれてありがとう」
あんなに時間をかけて、声が聞きたかったと言ってくれた。
好きだと伝えてくれた。
俺の声を聞きながら、楽しそうに笑ってくれた。
……ああ、嬉しかった。
「君から電話をもらえて、すごく嬉しかったよ」
『……うん』
小さな返事。
でも、やわらかくて、温かい。
……きっと届いたね。
「また、話そうね」
『……うん!』
「ふふ。おやすみ」
『……おやすみなさい』
通話が終わった。
……。
静かだ。
さっきまで、あの小さな笑い声が聞こえていたのに。
……ふふ。
それにしても、不思議な夜だったなぁ。
彼女はいつもよりずっと静かで、時々、言葉にならない声を漏らしていた。
照れていたんだろう。
たぶん、相当に。
でも、どうしてあんなに何度も黙ってしまったのか、全部わかったわけじゃない。
彼女がどんな顔で、どんな格好で電話をしていたのかもわからない。
ただ、声が聞きたかったと伝えてくれたこと。
俺の声が好きだと言ってくれたこと。
また話したいと思ってくれたこと。
それは、確かだ。
……ああ。
嬉しいなぁ。
スマホが鳴った。
彼女から、メッセージ。
『今日、電話できて嬉しかった。また話したいな』
……っ。
……ははっ。
参ったねぇ。
最後の最後まで、嬉しくさせてくれる。
今日の彼女は本当に、何度も自分から伝えてくれた。
……いい夜だ。
『俺も嬉しかったよ。次はぜひ、スイーツの感想も聞かせてもらいたいねぇ』
送信。
少し考えて、もう一通。
『……もっとも、君の声を聞けるなら、俺はそれだけでも大歓迎だけれど』
……ふふ。
今ごろ、どうしているかな。
きっとあのチョコレートを食べ始めたころだろう。
いや、まだスマホを見ているかもしれない。
どちらにしても、嬉しそうに笑ってくれていたらいい。
次は俺からも電話をしてみようか。
いや、突然かけるより、先に都合を聞いてみるのもいいねぇ。
彼女が気楽に話せるなら、そのほうがいい。
……もっとも。
今日みたいな思いがけない電話は、格別だったけれど。
俺はスマホを置き、ふと声に出して笑った。
「……ははっ。まったく、幸せな男だねぇ、俺は」
今夜は、よく眠れそうだ。
彼女が聞きたかったと言ってくれた俺の声が、今度は彼女の笑い声を思い出している。
……ああ。
次に話せる日が、もう楽しみだなぁ。




