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第20話「待ち合わせじゃないけれど」

第20話・彼女編「待ち合わせじゃないけれど」




今日は、ちょっと疲れた。


仕事で大きな失敗があったわけじゃない。嫌なことを言われたわけでもない。ただ、小さなことがいくつか重なって、なんとなく気持ちが沈んでしまった。


……ああ。早く帰って、ゆっくりしようかな。


そう思って鞄を持った。でも、ふと彼のことが浮かんだ。


……彼、まだ仕事してるかな。


彼と話したいな。相談したいことがあるわけじゃない。ただ、今日の話を聞いてほしいし、彼の話も聞きたい。あの楽しそうな声を聞いたら、きっと少し元気になれそう。


……ふふ。会えないかな。


約束はしていない。だから、会えなかったら普通に帰ろう。そう決めて、会社の出口から少し離れたところに立った。スマホを見て、時々顔を上げる。


……そろそろかな。


少しだけ待ってみよう。


「……おや?」


聞き慣れた声。


……あ! いた!


目が合った瞬間、彼がにっこり笑った。


「これはまた、嬉しいところでお会いしたねぇ」


「お疲れさま!」


気づけば、彼のほうへ駆け寄っていた。


彼が一瞬目を丸くして、すぐ楽しそうに笑う。


「ははっ! いやぁ、ずいぶん元気なご挨拶をいただいたねぇ!」


「ふふっ!」


「お疲れさま。そんなに嬉しそうに来てくれるとは、俺も幸せ者だなぁ」


……ああ。会えた。嬉しい!


「今から帰るの?」


「ああ。君もかい?」


「うん!」


「ふふ。それなら、ぜひご一緒したいところだねぇ」


「うん!」


彼が片手を差し出した。


「では、お嬢さん。駅までお供させていただこうかな」


「ふふっ! お願いします!」


「ははっ! 喜んで!」


私は彼の手を取った。もう、手をつなぐことにはずいぶん慣れた。今は彼の手を取ると、ほっとする。二人でゆっくり歩き始める。


「それで、今日はどんな一日だったんだい?」


「聞いて! 今日ね、ちょっと大変なことがあって!」


「おや。それは穏やかじゃないねぇ」


「でも、大変っていうほどじゃないの。ちょっとずつ、いろんなことがあってね」


「なるほど。少しずつ積み重なったわけだ」


「そう! それなの!」


私は今日の小さな出来事を話した。予定の変更、確認の追加、最後には全部片付いたのに残る妙な疲れ。彼は相槌を打ちながら聞いてくれた。


「いやぁ、それはなかなか忙しい一日だったねぇ」


「そうなの! なんかね、一つひとつは小さいんだけど」


「ふふ。小さな仕事も、行列を作って押しかけてきたら大騒ぎだろうからねぇ」


「ふふっ! ほんとに!」


「ははっ! どうやら今日は、ずいぶん賑やかなお客さんたちに囲まれていたらしい」


「そうそう!」


……ああ。楽しい。


「ふふ。少し元気が出てきたかな?」


「うん!」


「それはよかった。もっとも、俺としては君の話を聞けて、なかなか楽しい帰り道なんだけどねぇ」


「ふふっ!」


……嬉しい。私が話しているのを、彼も楽しんでくれている。


「ねえ、あなたは? 今日はどうだった?」


「俺かい? いやぁ、今日は実に見事なすれ違いが一件あってねぇ」


「えっ、何?」


「同じ資料を見ていたはずの二人が、どういうわけかまったく別の結論にたどり着いてしまったんだ」


「ええっ! どうして?」


「それがねぇ、片方は昨日の資料、もう片方は今日の資料を見ていたらしくて」


「ふふっ! それ、同じじゃない!」


「ははっ! まったくだよ。話が噛み合わないのも道理だねぇ」


私が笑うと、彼も笑った。つないだ手をつい大きく振ってしまう。


「……おや?」


「あっ、ごめん!」


「ははっ! いやぁ、今日は手までずいぶんご機嫌だねぇ」


「ふふっ!」


「謝ることはないさ。俺もなかなか楽しい散歩をさせてもらっているよ」


私は手を握り直した。彼も握り返してくれる。


……ふふ。幸せ。


「そういえば、今日はずいぶんいいところで会えたねぇ」


「……え?」


「俺が出てきたら、ちょうど君がいたものだから。いやぁ、なんとも幸運なことだ」


……あ。偶然じゃないんだよね。


言ってみようかな。彼は喜んでくれるかな。


「……あのね」


「うん?」


「……ちょっと、待ってたの」


「……おや」


「一緒に帰れたら、いいなって」


彼が目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。


「ははっ! いやぁ、これは参ったねぇ。幸運な偶然だと思っていたら、君が用意してくれた幸運だったとは!」


「ふふっ!」


「それはどうもありがとう。ずいぶん嬉しい待ち合わせをしてもらったものだねぇ」


「でも、約束してなかったから……会えなかったら普通に帰ろうと思ってたの」


「ふふ。そうだったのかい。それなら、次は俺にも待たせてくれないかな?」


「……え?」


「君と一緒に帰れるなら、俺だって喜んで待つよ」


……ああ。嬉しい。


「……ほんと?」


「もちろん。いやぁ、君ばかりに幸運を用意してもらっては、俺の出番がなくなってしまうじゃないか」


「ふふっ!」


「次はぜひ、俺にもその大役を任せていただきたいねぇ」


「うん!」


「ははっ! では、今度は正式な待ち合わせといこう」


手をつないでゆっくり歩く。今度は私が、何度も彼の顔を見てしまった。話すときに楽しそうな顔をするのが好き。さっきから、見上げても目を逸らしたくない。


「……ふふ。今日はずいぶん目が合うねぇ」


「……うん!」


彼がつないだ手を少し持ち上げ、空いた手を胸に当てる。


「本日の帰り道をお供しております、私めのご案内に、何かご不満などございませんでしょうか?」


「ふふっ! ないです!」


「おや、それは光栄。では、ご満足いただけていると?」


「はい!」


「ははっ! いやぁ、これは嬉しい評価をいただいたねぇ!」


……ふふ。彼、楽しそう。


しばらく歩くと、また目が合った。


「……何かお探しかな、お嬢さん?」


「えっ?」


「どうやら先ほどから、俺の顔にずいぶんご関心をお寄せいただいているようなのでねぇ」


「ふふっ! ……見ちゃだめ?」


「とんでもない。むしろ、こちらからお願いしたいくらいだよ」


「……え?」


「どうぞ、存分にご覧ください。何しろ、君に見てもらうためなら、多少は格好もつけたくなる男なのでねぇ」


「ふふふっ!」


「でもねぇ、一つだけ、困ったことがある」


「なあに?」


「君がそんなに嬉しそうに見てくれるものだから、俺まで君の顔ばかり見てしまうんだよ」


「……っ!」


……ああ、恥ずかしい。でも、笑っちゃう。


「ははっ! いやぁ、これは参った。どうやらお互い、前方不注意には気をつけなくてはいけないらしいねぇ」


「ふふっ! ちゃんと前見て!」


「おっと、これは失礼。ごもっとも!」


彼が大げさに姿勢を正した。


「ふふっ! かっこいい!」


「……おや? 今の?」


「うん! そういうの好き!」


「ははっ! いやぁ、それは光栄だねぇ!」


彼は優雅に一礼した。


「では、お嬢さん。もう少し格好つけてもよろしいかな?」


「ふふっ! いいよ!」


「おや、これはありがたい。実は俺も、こういうのが大好きでねぇ。君が楽しんでくれるなら、なおさら張り切ってしまうじゃないか」


「ふふふっ! じゃあ、もっと格好つけてみて?」


彼が目を丸くしてから、声を立てて笑った。


「ははっ! これはまた、願ってもないご注文だねぇ!」


空いた手を胸に当て、彼が優雅に頭を下げる。


「お望みとあらば、喜んで。ただし――」


「ん?」


「これ以上格好つけて、君にますます好きになってもらえたら、俺としては大変嬉しいんだけどねぇ?」


「……っ! ふふっ! もう!」


……恥ずかしい。でも、かっこいい。彼がこんなに楽しそうなのも嬉しい。


「ははっ! おや、今のは少々張り切りすぎたかな?」


私は首を振った。まだ聞いていたい。彼がもう少し言葉を重ねてくれる。


「……君とこうして帰れて、嬉しいよ」


私は顔を上げた。


「君が待っていてくれたことも、俺を見つけて駆け寄ってきてくれたこともね」


「……ふふっ」


「それから、そんなふうに楽しそうに笑ってくれる君が、俺は好きだよ」


……っ。少し身動ぎする。でも今日は、目を逸らさない。


「……うん」


「……可愛いねぇ」


……っ!


肩がぴくっと跳ねた。恥ずかしい。でも、ちゃんと聞ける。彼を見上げると、楽しそうに笑っていた。


「ははっ! いやぁ、今日は本当に贅沢な帰り道だねぇ」


「ふふっ!」


「君が待っていてくれて、一緒に歩いてくれて、こんなに笑ってくれる。しかも、俺の格好つけまで褒めていただけるときた。これはもう、次回の公演にも力が入るというものだねぇ!」


「ふふふっ!」


駅が近づいてきた。もうすぐお別れ。でも今日は、仕事のあとの重たい気持ちがすっかり軽くなっていた。


「……ねえ」


「うん?」


「一緒に帰れて、嬉しかった」


「ははっ! いやぁ、それは俺の台詞でもあるねぇ」


「ふふっ!」


「では、次回もぜひ。今度は俺からお誘いさせていただこう」


「うん! 楽しみにしてる!」


「ふふ。俺もだよ」


……ああ。幸せだなぁ。


特別な場所へ行ったわけじゃない。でも、彼に会えて、一緒に帰れて、自分から「待ってたの」と言えて。手をつないで、顔を見て、少し照れながら彼の言葉も聞けた。


……ふふ。今日は待っていてよかった。




第20話・彼編「待ち合わせじゃないけれど」




今日は、少々長い一日だった。


ようやく仕事が片付いて会社を出る。外の空気は思ったより涼しかった。


……おや?


少し離れたところに、見覚えのある人影がある。彼女だ。スマホを見ていた彼女がふと顔を上げた。


目が合う。


……ああ、嬉しいなぁ。


「これはまた、嬉しいところでお会いしたねぇ」


「……あ! お疲れさま!」


彼女がこちらへ駆け寄ってきた。


……おや。ずいぶん嬉しそうだねぇ。


……ん? 待てよ。この勢いは、もしかして。


先日の観劇デートが頭をよぎる。彼女が自分から俺の胸に顔を埋め、ぎゅっと抱きついてきたこと。あの小さな「好き」まで、よく覚えている。


……ああ。嬉しかったなぁ。今日も、ひょっとして。


「お疲れさま!」


彼女は俺の目の前で立ち止まった。満面の笑顔だ。


……ああ。なるほど。今日はここまでか。


……ふふ。少し期待してしまったなぁ。


「ははっ! いやぁ、ずいぶん元気なご挨拶をいただいたねぇ!」


「ふふっ!」


……ああ、可愛い。こんなに嬉しそうに駆け寄ってくれた。それだけでも幸せだ。


「お疲れさま。今日はもう帰るところかい?」


「うん! あなたも?」


「ああ。ちょうどね。それなら、ぜひご一緒したいところだねぇ」


「うん!」


俺は片手を差し出す。


「では、お嬢さん。駅までお供させていただこうかな」


「ふふっ! お願いします!」


「ははっ! 喜んで!」


彼女が迷わず手を取ってくれた。もう手をつなぐことには、ずいぶん慣れたんだね。


……嬉しいなぁ。


並んでゆっくり歩く。彼女から今日の仕事の話を聞いた。予定が変わり、確認が増え、一つひとつは小さくても積み重なると疲れてしまったという。


「なるほど。少しずつ積み重なったわけだ」


「そう! それなの!」


彼女は勢いよく頷いた。今日は少し疲れていたのかな。会ったときより声に元気が出てきたような気がする。


「ふふ。小さな仕事も、行列を作って押しかけてきたら大騒ぎだろうからねぇ」


「ふふっ! ほんとに!」


「ははっ! どうやら今日は、ずいぶん賑やかなお客さんたちに囲まれていたらしい」


「そうそう!」


……ああ。よかった。笑ってくれた。


「ふふ。少し元気が出てきたかな?」


「……うん!」


「それはよかった。もっとも、俺としては君の話を聞けて、なかなか楽しい帰り道なんだけどねぇ」


彼女が笑った。俺も嬉しくなる。


今度は俺が仕事の話をした。同じ資料を見ていたはずの二人が、昨日の版と今日の版を別々に見ていたせいで、まったく違う結論に至ったという話だ。


「ふふっ! それ、同じじゃない!」


「ははっ! まったくだよ。話が噛み合わないのも道理だねぇ」


彼女が笑い、つないだ手を大きく振った。


「……おや?」


「あっ、ごめん!」


「ははっ! いやぁ、今日は手までずいぶんご機嫌だねぇ」


「ふふっ!」


「謝ることはないさ。俺もなかなか楽しい散歩をさせてもらっているよ」


彼女が手を握り直した。俺も握り返す。


……ああ、いいねぇ。


それにしても、あの日以来、どうにも期待が増えて困る。一度抱きついてもらうと、また来てくれないかなと思ってしまう。


……まったく、欲張りな男だねぇ。


でも、今日の彼女は楽しそうに手をつないでくれている。今日は今日でいい日だ。


「そういえば、さっきはずいぶんいいところで会えたねぇ」


「……え?」


「俺が出てきたら、ちょうど君がいたものだから。いやぁ、なんとも幸運なことだ」


彼女は少し考えて、俺を見上げた。


「……あのね」


「うん?」


「……ちょっと、待ってたの。一緒に帰れたら、いいなって」


……おや。


……ああ。そうだったのか。


俺と一緒に帰りたくて、あそこで待っていてくれたんだね。


嬉しいなぁ。彼女のほうから教えてくれたんだ。


「ははっ! いやぁ、これは参ったねぇ。幸運な偶然だと思っていたら、君が用意してくれた幸運だったとは!」


「ふふっ!」


俺は空いている手を胸に当てた。


「それはどうもありがとう。ずいぶん嬉しい待ち合わせをしてもらったものだねぇ」


「でも、約束してなかったから……会えなかったら普通に帰ろうと思ってたの」


……ああ。そうか。こちらに予定があっても困らないように考えていたんだね。


「ふふ。そうだったのかい。それなら、次は俺にも待たせてくれないかな?」


「……え?」


「君と一緒に帰れるなら、俺だって喜んで待つよ」


「……ほんと?」


「もちろん。いやぁ、君ばかりに幸運を用意してもらっては、俺の出番がなくなってしまうじゃないか」


「ふふっ!」


「次はぜひ、俺にもその大役を任せていただきたいねぇ」


「……うん!」


「ははっ! では、今度は正式な待ち合わせといこう」


彼女が笑った。……ああ、嬉しいなぁ。


少し歩くと、彼女が俺を見上げた。目が合う。彼女は少し照れたように笑う。でも、逸らさない。


……おや。今日はいったい何度目だろう。


以前なら目が合うとすぐ顔を伏せていたのに、今日はちゃんと見てくれる。


「……ふふ。今日はずいぶん目が合うねぇ」


「……うん!」


……ははっ。嬉しい。


せっかくこれほど見てくれるんだ。少々、格好をつけてみようかな。


俺はつないだ手を軽く持ち上げ、空いた手を胸に当てた。


「本日の帰り道をお供しております、私めのご案内に、何かご不満などございませんでしょうか?」


「ふふっ! ないです!」


「おや、それは光栄。では、ご満足いただけていると?」


「はい!」


「ははっ! いやぁ、これは嬉しい評価をいただいたねぇ!」


彼女が声を立てて笑った。俺も笑う。


……ああ、楽しい。こういうお芝居に彼女は喜んで付き合ってくれる。


また少し歩く。彼女がこちらを見た。


「……何かお探しかな、お嬢さん?」


「えっ?」


「どうやら先ほどから、俺の顔にずいぶんご関心をお寄せいただいているようなのでねぇ」


「ふふっ! ……見ちゃだめ?」


……ああ。可愛いなぁ。そんなふうに聞いてくれるなんて。


「とんでもない。むしろ、こちらからお願いしたいくらいだよ」


「……え?」


「どうぞ、存分にご覧ください。何しろ、君に見てもらうためなら、多少は格好もつけたくなる男なのでねぇ」


「ふふふっ!」


……ははっ。よかった。笑ってくれた。


「でもねぇ。一つだけ、困ったことがある」


「なあに?」


「君がそんなに嬉しそうに見てくれるものだから、俺まで君の顔ばかり見てしまうんだよ」


「……っ!」


肩がぴくっと跳ねる。でも、今日は顔を隠さず、少し身をよじりながら笑ってくれる。


……ああ、嬉しい。


「ははっ! いやぁ、これは参った。どうやらお互い、前方不注意には気をつけなくてはいけないらしいねぇ」


「ふふっ! ちゃんと前見て!」


「おっと、これは失礼。ごもっとも!」


大げさに背筋を伸ばして前を向くと、すぐ隣から声がした。


「ふふっ! かっこいい!」


……おや?


「今の?」


「うん! そういうの好き!」


……ああ。そうなんだ。


嬉しいなぁ。


俺はこういうことをするのが好きだ。少し芝居がかった仕草をして、相手の反応まで一緒に楽しむ。それを彼女が好きだと言ってくれる。


「ははっ! いやぁ、それは光栄だねぇ!」


俺は優雅に一礼した。


「では、お嬢さん。もう少し格好つけてもよろしいかな?」


「ふふっ! いいよ!」


「おや、これはありがたい。実は俺も、こういうのが大好きでねぇ」


彼女が笑う。


「君が楽しんでくれるなら、なおさら張り切ってしまうじゃないか」


「ふふふっ! じゃあ、もっと格好つけてみて?」


……おや。


……ははっ! これは願ってもないご注文だねぇ。


「ははっ! これはまた、願ってもないご注文だねぇ!」


俺は空いている手を胸に当て、少し背筋を伸ばす。


「お望みとあらば、喜んで。ただし――」


「ん?」


「これ以上格好つけて、君にますます好きになってもらえたら、俺としては大変嬉しいんだけどねぇ?」


「……っ! ふふっ! もう!」


……ああ、可愛い。今のは照れたんだね。でも笑ってくれている。


「ははっ! おや、今のは少々張り切りすぎたかな?」


彼女が首を振った。


……ふふ。大丈夫そうだね。けれど、今日はこのくらいにしておこうか。まだまだ言いたいことはあるけれど、せっかくの楽しい時間を困らせたくない。


「……君とこうして帰れて、嬉しいよ」


彼女が顔を上げた。


「君が待っていてくれたことも、俺を見つけて駆け寄ってきてくれたこともね」


「……ふふっ」


「それから、そんなふうに楽しそうに笑ってくれる君が、俺は好きだよ」


肩がまたぴくっと動いた。けれど、ちゃんとこちらを見ている。


……ああ。今日は、聞いてくれるんだね。


「……可愛いねぇ」


「……っ!」


彼女は少し身をよじりながら笑った。顔は隠さない。


……ああ、好きだなぁ。


「ははっ! いやぁ、今日は本当に贅沢な帰り道だねぇ」


「ふふっ!」


「君が待っていてくれて、一緒に歩いてくれて、こんなに笑ってくれる。しかも、俺の格好つけまで褒めていただけるときた。これはもう、次回の公演にも力が入るというものだねぇ!」


「ふふふっ!」


……ははっ。楽しい。


駅が近づいてきた。もう少し一緒にいたい。今日も名残惜しい。


でも、彼女から「待ってたの」と教えてもらったこと。何度も俺を見てくれたこと。俺の好きな格好つけを、彼女も好きだと言ってくれたこと。


どれも嬉しい。


「……ねえ」


「うん?」


「一緒に帰れて、嬉しかった」


……ああ。俺もだよ。


「ははっ! いやぁ、それは俺の台詞でもあるねぇ」


彼女が笑う。


「では、次回もぜひ。今度は俺からお誘いさせていただこう」


「うん! 楽しみにしてる!」


「ふふ。俺もだよ」


……ああ。いい日だったなぁ。


今日、抱きついてはもらえなかった。正直に言えば、またあんなふうに来てくれたら嬉しいと思う。でも今日は、彼女が俺と帰りたくて待っていてくれた。


……なんて嬉しいことだろう。


「それでは、お嬢さん。また次の機会に」


「ふふっ! またね!」


彼女を見送ってから、もう一度思う。


……好きだなぁ。


この人と一緒にいる時間が、本当に好きだ。

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