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第19話・彼編「難問」

言えなくても、少しだけ


第19話・彼編「難問」


劇場の前で待っていると、彼女が小走りでやってきた。


「おはよう!」


「おや、おはよう。今日はずいぶんご機嫌だねぇ」


「うん! 楽しみにしてたの!」


「ふふ。それは何より。俺も今日を楽しみにしていたんだよ」


彼女が嬉しそうに笑う。


……ああ。


いいねぇ。


今日も元気そうだ。


この間のピクニックでも、ずいぶん楽しそうにしていたけれど。


こうして朝から笑顔を見せてくれると、こちらまで気分がよくなる。


「ねえ、見て! あの飾り!」


「おや?」


彼女が指さした先には、劇場の入口を飾る大きな装飾があった。


幕を模した赤い布と、金色の縁取り。


「すごいねぇ!」


「うん! 中も楽しみ!」


「ふふ。これは舞台が始まる前から、ずいぶん楽しませてもらえそうだ」


彼女が笑う。


俺も笑った。


……ああ。


好きだなぁ。


彼女といると、何でもない待ち時間まで楽しくなる。


「さて、お嬢さん」


俺は片手を差し出した。


「本日は、素晴らしい舞台を拝見できることを願っております」


「ふふっ! なんだかあなたも舞台に出そう!」


「おや。出演依頼はまだ届いていないんだけどねぇ」


「ふふっ! 届いたら出るの?」


「ははっ! どうだろう。君が客席で見ていてくれるなら、少々張り切ってしまうかもしれないなぁ」


「ふふっ! 見たい!」


「いやぁ、これは困った。今から役者の皆様に弟子入りをお願いしなくては」


「ふふっ! 今日は観るほうだよ!」


「ははっ! そうだったねぇ」


……ふふ。


楽しいなぁ。


今日の彼女は、冗談への返事も実に軽快だ。


俺は彼女と並んで、劇場の中へ入った。


客席へ向かう前に、二人でパンフレットを眺めた。


「この人、前にも出てたんだね!」


「おや、本当だ。なかなか幅広い役を演じているらしい」


「すごいなぁ。今回はどんな役なんだろう」


「ふふ。そこは幕が上がってからのお楽しみだねぇ」


「うん!」


彼女は楽しそうにページをめくる。


時々、気になったことを俺に話しかけてくれる。


そのたびに俺もパンフレットを覗き込んで、一緒に考えたり、冗談を言ったりした。


やがて開演を知らせる音が鳴った。


「おや、そろそろだね」


「うん! 楽しみ!」


「では、我々も客席へ参ろうか」


「ふふっ! はい!」


彼女は嬉しそうに俺の隣を歩いた。


……ああ。


今日はいい一日になりそうだ。


舞台は、実に見応えがあった。


言いたいことを胸にしまい続けてきた人物が、周囲の思惑に振り回されながらも、自分の気持ちを伝えようとする物語。


登場人物たちは時に声を張り上げ、時に言葉を詰まらせ、互いの思いをぶつけ合っていた。


……いやぁ。


役者というのはすごいものだねぇ。


たった一言で、客席の空気まで変えてしまう。


休憩に入ると、彼女は待っていましたとばかりに俺のほうを向いた。


「ねえ! あの場面すごかったね!」


「ははっ! ああ、俺も驚いたよ」


「あそこであんなこと言うと思わなかった!」


「うん。ずいぶん思い切った台詞だったねぇ」


「でも、まだちゃんと言えてないんだよね」


「そうだね。どうやら、もう一波乱ありそうだ」


「続き気になるなぁ!」


「ふふ。俺もだよ。いやぁ、なかなか上手いところで休憩に入るものだねぇ」


「ほんとに!」


彼女が楽しそうに笑った。


俺もつられて笑う。


……ああ。


舞台も面白いけれど。


こうして彼女と感想を言い合うのも、ずいぶん楽しい。


「しかし、あの役者さんは見事だったねぇ」


「うん! 表情もすごかった!」


「ああ。声を出す前から、もう何か言おうとしているのがわかった」


「そうなの! それ!」


彼女が嬉しそうに頷く。


……ふふ。


こうして同じところを面白がれるのも、嬉しいものだ。


休憩が終わるまで、俺たちはずっと舞台の話をしていた。


後半は、さらに見応えがあった。


それまで気持ちを伝えられなかった人物が、ようやく相手に向き合う。


何度も言葉に詰まりながら、最後には自分の望みをはっきり口にする。


そして、その言葉を受け取った相手が、笑う。


……ああ。


いい場面だねぇ。


俺は思わず、隣の彼女をちらりと見た。


彼女は舞台に見入っている。


……ふふ。


今は邪魔をしないでおこう。


俺も、もう一度舞台へ目を戻した。


終演後、劇場を出ると、彼女はまた元気いっぱいに話し始めた。


「あの最後の場面、すごかったね!」


「うん。あの台詞には、俺もなかなか驚かされたよ」


「だって、あそこであんなこと言うと思わなかった!」


「ははっ! いやぁ、見事に一本取られたねぇ」


「しかも、あの人、最初と全然違ったよね!」


「そうだねぇ。最後には、ちゃんと自分の気持ちを伝えていた」


「うん! すごかった!」


彼女は場面を思い出しては、あれこれ話してくれる。


あの役者がよかった。


あの台詞が面白かった。


あそこで相手が笑ったのが嬉しかった。


俺も、自分が印象に残ったところを話した。


話題は次々に移って、なかなか尽きない。


……ふふ。


実に楽しいねぇ。


長い舞台だったから、今日はこのまま帰る予定だ。


それでも、こうして一緒に感想を話しながら歩けるのが嬉しい。


……ああ。


いい一日だったなぁ。


そんなことを思いながら、駅へ向かう道を歩いていた。


ところが。


しばらくすると、彼女のおしゃべりが少しずつ減ってきた。


最初は、舞台の話がひと段落したからだと思った。


けれど。


ちらり。


彼女が俺を見る。


目が合うと、すっとそらす。


しばらくすると、また。


ちらり。


……おや。


「……ふふ。今日はずいぶん目が合うねぇ」


「……うん」


「おや。また見つかった」


彼女が小さく笑った。


……ふふ。


何だろうねぇ。


さっきから、ずいぶんこちらを気にしている。


「そんなに見つめられると、俺もつい君のほうを見てしまうなぁ」


「……ふふ」


「……何か言いたいことでもあるのかな?」


「……ううん」


「そう?」


「……うん」


……おやおや。


今日は、ずいぶん返事が短いねぇ。


「ふふ。どうしたんだい? さっきまであんなにおしゃべりしていたのに」


「……そうだね」


俺の言葉を繰り返して、また少し笑う。


……ふむ。


疲れたのかな。


長い舞台だったしねぇ。


そう思ったところで。


くい。


袖が引かれた。


「……おや」


彼女が俺の袖をつまんでいた。


少し赤い顔で、こちらを見上げている。


……ああ。


なるほど。


まだ帰りたくないのかな。


「……ふふ。今日はなかなか離してもらえそうにないねぇ」


彼女が、小さく笑った。


けれど、袖は離さない。


「俺も、もう少し一緒にいたいところだよ」


「……うん」


嬉しそうに頷いた。


……ふふ。


ああ、好きだなぁ。


彼女がこうして引き止めてくれるのは、実に嬉しい。


「……手、つなごうか?」


「……うん」


俺が手を差し出すと、彼女はすぐに取ってくれた。


……ふふ。


いいねぇ。


並んで歩き始める。


しばらくすると、つないだ手に力がこもった。


ぎゅっ。


「……おっと。何かお願いかな?」


彼女がこちらを見た。


……。


何だろうねぇ、その顔は。


目が、ずいぶん真剣だ。


少し赤くなった顔で、何か言いたそうに見上げてくる。


見返すと、さっと目をそらす。


けれど、またすぐにこちらを見る。


「……ふふ。どうやら、まだ帰りたくないのは俺だけじゃなさそうだ」


「……うん」


「君がそんなふうに手を握ってくれるとは。いやぁ、役得だねぇ」


彼女が、ちょっと笑った。


……ふふ。


嬉しいねぇ。


ただ。


どうも、それだけではないらしい。


俺は隣の彼女を見た。


彼女はまた、こちらを見上げている。


……おやおや。


これは、ずいぶん難しい顔だねぇ。


見覚えがある。


彼女が、言葉を探しているときの顔。


ただ、今日は少し違う。


いつもなら、嬉しい言葉を受け取っていっぱいになったとき、顔を隠したり俯いたりすることが多い。


でも今日は、何度も俺の目を見ようとしている。


……ああ。


そんなに見つめられたら。


俺だって、何かを期待してしまうじゃないか。


「……ふふ。おやおや。今日はずいぶん難しい顔をしているねぇ」


「……うん」


「俺に何かしてほしいのかな?」


彼女が、じっと俺を見た。


……。


それから、小さく頷いた。


……おや。


これは。


「もう少し近くにいたい?」


「……うん」


「それなら、喜んで」


俺は歩くのをやめて、彼女のほうへ向き直った。


彼女も立ち止まる。


手は、まだつないでいる。


……ふふ。


いいねぇ。


ただ。


彼女は、まだ俺を見上げていた。


……あれ?


どうやら、これで全部というわけではないらしい。


「……でも、それだけでもなさそうだねぇ」


彼女は何も言わない。


ただ、また手をぎゅっと握った。


……参ったな。


何かを望まれている。


それはもう、わかる。


けれど。


いったい、何を?


もっと手をつないでいたいのか。


抱きしめてほしいのか。


それとも、何か言ってほしいのか。


……いやぁ。


どれも俺には願ってもないことなんだけどねぇ。


だからこそ、困る。


俺の望みを、彼女の望みだと思い込んでしまいそうで。


「……ふふ。ちょっと当ててみたいんだけどねぇ」


彼女が顔を上げた。


「君が何かを望んでいるのは、わかるつもりなんだ」


「……うん」


「ただ、何を望んでいるのかとなると……いやぁ、これは難問だねぇ」


彼女が、少し困ったように笑った。


……ああ。


その顔。


そんなふうに見つめられると、こちらまで落ち着かなくなる。


俺は軽く肩をすくめた。


「何しろ、俺の都合のいい答えを選んでしまいそうでね」


「……ふふ」


……笑ってくれた。


でも、まだ何も言ってくれない。


この間、彼女は言っていた。


もっと、自分から気持ちを伝えられるようになりたい、と。


だから、できるだけ待っていたい。


彼女が言葉にしたくなるまで。


……とはいえ。


あんな目で見上げられ続けたら、こちらの欲張りが、おとなしくしていられるかどうか。


「いやぁ、困ったな。君の顔を見ていると、何かしてあげたくなってしまう」


「……うん」


また、手に力がこもった。


彼女は何度も何度も、俺を見上げる。


……おやおや。


いけないねぇ。


俺まで、ずいぶん欲張りになってきた。


「……そんなに見つめられると、俺まで欲張りになってしまいそうだ」


彼女が、少し目を丸くした。


……ふふ。


ああ。


その反応まで、可愛いなぁ。


俺は彼女の手を握り直した。


「……困ったねぇ。そんな顔をされると、俺の願いまで増えてしまうじゃないか」


彼女は赤い顔のまま、こちらを見ている。


……。


……いやぁ。


これは本当に困った。


俺のほうにも、お願いはたくさんあるんだよ。


抱きしめたい。


好きだと伝えたい。


もっと近くで、彼女の顔を見ていたい。


けれど、どこまで望まれているのかわからない。


ここで自分の願いを並べ立ててしまったら、彼女を困らせるかもしれない。


……ふふ。


いつもなら、もう少し上手くやるところなんだけどねぇ。


そのとき。


彼女が半歩、近づいた。


俺の肩に、こつんと額が触れる。


……おや。


彼女は少し俯いたまま、俺のそばに立っている。


……ああ。


これは嬉しいねぇ。


そう思っていたら。


彼女が、もう一歩近づいてきた。


今度は、真正面から。


そして、そのまま。


俺の胸元に、顔をうずめてしまった。


……。


おやおや。


これは。


……ずいぶん大胆なお誘いだねぇ。


つないでいた手が離れ、今度は彼女の指が俺の服をつまんだ。


……ふふ。


参ったな。


こんなふうに来られるとは思っていなかったよ。


俺は彼女の頭の上を見つめた。


彼女は何も言わない。


ただ、そこにいる。


……ああ。


好きだなぁ。


嬉しいねぇ。


そして。


ここまで来てくれたのなら、一つくらい確かめてみてもいいだろう。


「……ふふ」


俺は少し笑った。


「おや。これは、抱きしめてもいいというお誘いかな?」


彼女が胸元で、小さく頷いた。


……ああ。


そうか。


……ふふ。


それなら。


「……喜んで」


俺はそっと彼女の背中に腕を回した。


彼女が、俺の服をぎゅっとつかむ。


……ふふ。


ああ、嬉しいねぇ。


こうして彼女のほうから来てくれるなんて。


俺は彼女をゆっくり抱きしめた。


彼女は胸元に顔をうずめたまま、動かない。


……おや。


今日は、顔を上げないんだねぇ。


この間は、抱きしめたあとにずいぶん照れていたけれど。


今は、顔を隠したまま離れようとしない。


……ああ。


もしかして。


もう少し、このままがいいのかな。


俺は腕を緩めず、彼女の背中をそっと撫でた。


「……ふふ。今日はずいぶん甘えてくれるねぇ」


返事はない。


けれど、俺の服をつかむ指に、もう一度力がこもった。


……おやおや。


これは、なかなか嬉しい返事じゃないか。


しばらく、そのままでいた。


遠くを歩いていく人の足音。


夜風に揺れる木の葉。


彼女の温かさ。


……ああ。


いいねぇ。


いつもは俺のほうが、もう少し抱きしめていたいと思っていた。


でも今日は、彼女もそう思ってくれているのかもしれない。


……ふふ。


そうだったら嬉しいな。


しばらくして、俺は彼女の背中を軽く、ぽん、ぽんと叩いた。


「……大丈夫?」


彼女が小さく頷いた。


「ふふ。よかった」


でも、顔は上がらない。


むしろ、もう少し強く服をつかまれてしまった。


……おや。


これは、まだ離れたくないということかな。


俺は思わず笑った。


「……いやぁ、参ったねぇ」


彼女の頭の上で、小さく呟く。


「どうやら今日は、俺のほうが離してもらえないらしい」


……ふふ。


もっとも。


離したくないのは、こちらも同じなんだけどねぇ。


彼女の背中に回した腕に、ほんの少し力を込める。


……ああ。


好きだなぁ。


こうしていると、彼女に言いたいことがいくつも浮かんでくる。


好きだよ。


嬉しいよ。


こんなに近くに来てくれて、ありがとう。


……けれど。


今日は彼女も、ずいぶん勇気を出してくれたらしい。


もう少し、このまま静かにしていようか。


そう思ったとき。


「……好き」


……。


……おや。


今。


何て?


胸元から聞こえた、小さな声。


彼女は顔を上げない。


ただ、俺の服をつかんだまま。


……ああ。


聞き間違いじゃないよねぇ。


俺は思わず、彼女を抱きしめる腕に少し力を込めた。


「……ふふ」


笑みがこぼれる。


「……ああ。嬉しいねぇ」


彼女の指が、またぎゅっと動いた。


……ふふ。


まったく。


今日は、どうしたというんだい。


そんなに嬉しいことばかりしてくれて。


俺は彼女の背中を、もう一度優しく撫でた。


「……俺も好きだよ」


彼女が、胸元で小さく頷いた。


……ああ。


このまま顔を見られないのは、少々残念だけれど。


それでも。


君が今、どんな気持ちでここにいてくれるのか。


少しだけ、わかった気がするよ。


……ふふ。


いやぁ。


これは、ますます離しがたくなってしまったねぇ。


ところが、彼女はまだ動かなかった。


いや、動かないどころか、服をつかむ手にまた力がこもった。


……おや?


少し、震えているような。


寒いのかな。


それとも、さっきの言葉が恥ずかしくなってしまったのだろうか。


俺はもう一度、背中をぽん、ぽんと優しく叩いた。


彼女は胸元に顔を埋めたまま。


……ふむ。


どうしたものかな。


何か言おうとしている様子はない。


いや、正確には、言いたいことがあっても言葉にならないのかもしれない。


……そういえば。


さっきから彼女は、ずっと俺の服を引っ張っている。


この間、抱きしめたときもそうだった。


今日は手をつないでいる間も、何度もぎゅっと握ってくれた。


……おやおや。


もしかすると。


この子は、何かしてほしいとき、こうして俺を引っ張るのかな。


だとしたら、これはなかなか大切な発見だ。


ただし。


何をしてほしいのかは、まだわからない。


抱きしめてほしかったのは、どうやら正解だったらしい。


でも、それだけなのかな。


もっと近くにいたいのか。


何か言ってほしいのか。


それとも、もう嬉しさでいっぱいになってしまったのか。


……いやぁ、難しいねぇ。


俺は彼女の背中に手を添え直した。


……しかし、参ったねぇ。


あんな顔で見上げられて、何度も服を引かれて。


俺だって、言いたいことはいくらでもあるんだよ。


君が好きだとか。


もっと抱きしめていたいとか。


そんなふうに甘えてくれると、嬉しくて仕方がないとか。


……ふふ。


けれど、今それを全部言ったら、君はどうするだろう。


また、あの手が上がるかな。


それとも、もう少し聞いてくれるだろうか。


……いやぁ。


俺の都合のいいほうに考えるのは、少々危険だねぇ。


君が何を望んでいるのか、まだわからないんだから。


俺は彼女の髪を、そっと撫でた。


彼女は胸元に顔をうずめたまま、少しだけ俺の服を握り直した。


……ああ。


好きだなぁ。


もう少し、君の望みがわかればいいんだけどねぇ。


それでも。


彼女がこうして俺にくっついているのは、嫌だからではないだろう。


少なくとも、今は離れたくないらしい。


……ふふ。


では、もうしばらくお付き合いしようか。


俺は彼女を抱きしめ直した。


そして、髪をゆっくり撫でた。


一度。


もう一度。


彼女の指が、俺の服をぎゅっとつかんだ。


……ふふ。


わかった、わかった。


まだ、ここにいよう。


俺は何も言わず、もう一度髪を撫でた。


彼女の呼吸が、少し速い。


時々、身体に力が入る。


……ああ。


今日はずいぶん、気持ちがいっぱいになっているみたいだねぇ。


どうしてあげるのが一番いいのかは、まだわからないけれど。


こうして撫でている間は、少しずつ落ち着いていくように見える。


俺は髪を整えるように、ゆっくり何度も撫で続けた。


どれくらい、そうしていただろう。


やがて、服をつかむ指の力が少し緩んだ。


肩の力も抜けてきた。


……おや。


そろそろ落ち着いたかな。


彼女はゆっくり身体を離した。


けれど、顔はなかなか上がらない。


……ふふ。


今度は、恥ずかしくなってしまったらしい。


俯いたまま、自分の手を見ている。


さっきまで俺の服をつかんでいた手だ。


……おやおや。


ずいぶん反省しているような顔だねぇ。


俺としては、何も反省してもらう必要はないんだけど。


「……ありがとう」


彼女が、小さく言った。


「ふふ。どういたしまして」


すると、彼女がほんの少し顔を上げた。


まだ目は合わない。


……ああ。


もしかして、自分からあんなふうに甘えたことを気にしているのかな。


それなら、一つ伝えておきたい。


「俺はね、君があんなふうに来てくれたの、嬉しかったよ」


彼女が、ちらりと俺を見た。


……おや。


少し、表情が和らいだような。


「……ふふ」


彼女が小さく笑った。


……ああ。


よかった。


どうやら、少し安心してくれたらしい。


こちらとしては、むしろお礼を言いたいくらいなんだけどねぇ。


俺はいつもの調子で微笑んだ。


「いやぁ、それにしても。今日はなかなか嬉しい一日だったねぇ」


彼女が、くすっと笑った。


……ふふ。


ああ、その笑顔。


やっぱり好きだなぁ。


「さて。そろそろ帰ろうか」


俺は彼女に手を差し出した。


「帰り道も、よかったらご一緒に」


彼女は俺の手を見て、それから少し笑った。


「……うん」


手が重なる。


……ああ。


嬉しいねぇ。


今度は、さっきほど強く握られてはいない。


でも、ちゃんとつないでくれている。


二人で駅へ向かって歩き始めた。


少しすると、彼女が舞台の話を始めた。


「……あのね、最後の場面なんだけど」


「うん?」


「あの人、最初は絶対に言わないと思ってたのに、最後にはちゃんと伝えたでしょう?」


「ああ。あれは見事だったねぇ」


「うん。すごかったなぁ」


彼女は少し考えるように前を向いた。


「……私も、あんなふうに……」


「……ん?」


「……ううん。なんでもない」


……おや。


彼女は小さく笑って、つないだ手を見た。


……ふむ。


何か言いかけたねぇ。


もしかすると、さっきのことかな。


俺の服を何度も引っ張って、あんなに困った顔で見上げていた。


あのときも、何か伝えようとしていたんだろう。


……さて。


聞いてみたい気持ちはある。


もちろん、あるとも。


けれど、今ここで続きを尋ねたら、また難しい顔をさせてしまうかもしれない。


それに、今日はもう十分、彼女の気持ちを聞かせてもらった。


……十分、ねぇ。


ふふ。


相変わらず信用ならない言葉だけれど、今はそういうことにしておこう。


「……ふふ。あの場面、俺も好きだなぁ」


「……うん?」


「ずっと言えなかったことを、最後にはちゃんと言ってくれたでしょう?」


「……うん」


「いやぁ、あれは嬉しかったねぇ。聞いているこちらまで、思わず笑ってしまったよ」


「ふふっ。そうだね」


彼女が顔を上げた。


……ああ。


よかった。


また笑ってくれた。


「でも、あの人がそこで急に強くなったわけじゃないんだろうねぇ」


「……そうかな?」


「ふふ。それまでだって、ずいぶん迷っていたじゃないか。きっと、伝えたい気持ちはずっとあったんだろうね」


「……うん」


彼女が、少しだけ俺の手を握った。


……おや。


今のは、何だろう。


俺はそっと握り返した。


「もっとも、あんな見事な台詞を聞かせてもらったあとでは、こちらの感想も少々難しいねぇ」


「ふふっ! どうして?」


「いやぁ、俺まで気の利いた一言を言わなくてはいけない気がしてくるじゃないか」


「ふふっ! そんなことないよ!」


「ははっ! それなら安心した。いつもの俺で失礼しようかな」


「ふふっ! いつものあなたがいいよ」


……ああ。


それは嬉しいねぇ。


「では、お言葉に甘えて」


俺は少し芝居がかった調子で、彼女に軽く一礼した。


彼女が楽しそうに笑う。


……ふふ。


ああ、好きだなぁ。


今日、君が何を言いたかったのかは、まだわからない。


けれど、君とこうして笑って帰れるのが嬉しい。


それは、ちゃんと伝えておこう。


「……今日は楽しかったよ」


「……うん! 私も!」


彼女が嬉しそうに笑った。


俺も笑う。


手をつないだまま、駅へ向かって歩いた。


……ああ。


幸せだなぁ。


君が自分から近づいてきてくれた。


抱きしめてもいいと頷いてくれた。


それから、「好き」って言ってくれた。


俺には、まだ知らない君の気持ちがたくさんあるんだろう。


今日も、その全部を知ることはできなかった。


でも。


こうして笑って帰れる。


君も、楽しかったと言ってくれた。


……ふふ。


いい一日だったねぇ。


彼女が何かを思い出したように、また舞台の話を始めた。


俺も、その話に笑って答える。


まだまだ、話したいことは尽きないらしい。


……ああ。


俺も同じだよ。


次に会うのも、もう楽しみになってしまった。


彼女の手をそっと握り返す。


彼女も、柔らかく握り返してくれた。


……ふふ。


今日も、君が大好きだったなぁ。


そう思いながら、俺たちは並んで駅へ向かった。



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